2020年9月14日月曜日

明るい火に虫は焼かれる

「ファン」を多く集める商品が世の中にいっぱいある。それをはたから見ていると、「途中からそこに入っていくのは無理だな」と尻込みしつつ、いずれ自分も何かのファンになるのだろうか、とぼんやり考える。


アイドル。アニメ。映画。野球。


将棋。フィギュアスケート。Netflixの韓流ドラマ。十二国記。


これらのどれにも今のところドはまりすることはなく、しかし、これらのどれかにドはまりした人たちの言葉を見るのは好き、という状態が、長いこと続いている。自分がはまっていなくても、はまった喜びを語る人の言葉は心地よいものだ。


一方、気づかないうちに自分の言葉も、「常連向け」の色をまとい、「ぼくをあまり知らない人」には届きづらくなっている。これをすごく広い意味で、雑に語るならば、「ぼくもいつのまにかファン向けの言葉を使っている」と言える。ぼくの言葉に納得する人、追いかける人というのは小規模なファンなのだ。プロのコンテンツほどではないにしろ。


いやいやクリエイター気取りかよ、と言われたくないのでもっと根本的な話をする。


特定の友人とだけ、話がめちゃくちゃ合う、みたいなことを言う人は、今日の文脈で言うならばきっとその人のファンなのであろう。そういった友人とばかり話をしていると、前提情報がどんどん蓄積されていって、会話の根っこのところはもはやくり返し語る必要がなくなる。すると、細部に宿っている神の部分ばかり話し合うことができるようになり、意思伝達がスピーディになって、ストレスも消える。


一方、特定の友人との会話に途中から入ってきた人に、いちから説明をするのはおっくうで、めんどうで、手間がかかる。自然と壁ができる。「囲い込み」となる。





病院に通って、医者に会って、「なんともないよ、大丈夫」と言われたら、薬がなくても安心してしまうという話がある。家族が言っても看護師が言っても安心しなかった「大丈夫だよ」という言葉を、「医師免許を持っている医者」が使うとわかりやすく効く、みたいな文脈だ。全員がそうだとは言わないが。

で、今日の話でいうと、医者が大丈夫だよと言うだけでほんとうに大丈夫になるタイプの人はきっと、「医者のファン」なのだろうと思う。

これについてはファンという言葉を使うのではなくて「医者の権威性によって安心している」と言い換えることもできるのだけれど、好意的にとらえるために「ファン」という言葉を使っている。



逆に「なぜ医者の言葉だけで安心できるのか?」と考える人もいる。「大丈夫って言うだけじゃなくて、きちんと薬を出してくれよ」と言いたくなる人が確かにいる。こういう人たちはおそらく「薬のファン」なのであろう。



ファンベースという本があまりに良すぎるためか、最近SNSで「ファン」という言葉を使うと、「ファンを喜ばせながらお金を稼ぐ」「ファンといっしょになってコンテンツを盛り上げる」という話に直結してしまうのだが、ファンとはある意味「自らすすんでそのものが持つ権威性に溺れてたのしむ人」であって、ファンベースで何かをやるというのはいかに自分のコンテンツの権威性を狭い範囲相手に高めるか、いかに「気のおけない友人的存在」を外に作っていくか、みたいな話だ。商売に限った話ではない。そして、ファンベースは囲い込みだということをあらためて最近感じる。それの何がいけないか?





「それでは全員は救えない」





と最澄みたいなことを思うのだ。これはいい悪いではない、ファンベースは医療の一部しか担えない、そのことをわかった上でその戦略をどこまでとるか、という話。