2022年9月8日木曜日

病理の話(694) 仕事で忙しいときに教育をするということ

初期研修医(医学部を出て1年目、2年目の、医者になりたての人たち)を対象とした勉強会をやっている。


もともと、10年くらい前にはじまったこの勉強会は、長い間ぼくが司会をやっていた。ぼく(患者を直接診ない病理医)が、(患者を直接診る医者を目指す)研修医たちのための勉強会をやる理由は、毎週水曜日の朝8時~8時半という多くの臨床医たちにとって激烈にいそがしい時間帯に、定期的に研修医を集めて会を開けるのが当時ぼくしかいなかったからである。


勉強会では、「診断」(病名を決めたり、病気の広がっている範囲を確認したりすること)については教えることができる。しかし、処置や治療については、そういった普通の医者の仕事を日頃から一切やっていないぼくはまるで教えることができない。


そこで、多くの科の医者たちがかわるがわる、「ちょっと頼りない病理医が開く勉強会」に交代で出てくれたのだ。そうやって複数の上級医たちに支えられて、なんとかかんとか、若手医師を教育してきたのである。




医者はほかの社会人と同様に普通にいそがしい。自分の仕事、自分の勉強で手一杯だ。したがって、他人を教えることに時間を使えるかどうかは、本人の熱意とかはわりと関係なく、「仕事がそもそも終わっているかどうか」に依存する。しかし、そんなことを言っているといつまでたっても若手教育などはできない。また、昔の技術職のように、「教えないから背中を見て盗め」では、膨大な医学の知識や繊細な医術の知恵はとてもではないけれど学びきれない。

したがって、現代の医療職はある程度、「忙しい者同士がみんなで補い合いながら若手を教育する」ことに自覚的でなければいけない。そこで、まずはぼくのような、患者が目の前に現れない仕事をしている分、自分の裁量で仕事時間を自由に定められる人間が、朝に研修医たちを集めておき、司会という名の役割で実際には研修医たちと一緒になって、医療のあれこれを学んでいくという機会を設定したのであった。



これがすごくよくて……という程ではなかったがまあわりと、それなりにうまくいって、長年この勉強会は存続してきた。そして1年ちょっと前に状況がかわった。熱心な臨床医たちのひとりがぼくに代わって司会を担当してくださることになったのだ。忙しいはずなのにありがたいことである。そして、結局はこの臨床医のような、「属人的な献身」に頼らないと、研修医教育というものはうまく回っていかないので、なんというか、ありがたいし、もう少しなんとかみんなを楽にできんかなあ、なんてことを考えている。




最近ぼくは勉強会をちょっとサボり気味だったんだけど(昔も今もおかげさまで忙しい)、先日ひさびさに顔を出した。すると勉強会のレベルは確かに上がっていた。すばらしい。

会に出ている上級医が研修医に向かってたずねる。

「こないだ話した……『○○という状態にいる患者が菌血症になったとき、まずはどんな薬を投与するべきか』、という話題について、調べてみた?」

すると研修医はこう答えた。

「はい、ガイドラインを調べてみたんですが、詳しい記載はありませんでした。」

すると別の上級医がそれに応答する。

「ガイドラインは大事だよね。だからまずそこから調べるのはとてもいいことだ。ただし、ガイドラインは、日常診療の最大公約数的なことまでしか書かれていないことが多い。現場の実運用では、多くの医者に幅広く用いられるガイドラインよりも、もう少し詳細な例にコミットした、いわゆる『有名な教科書』まで探ってみたほうがいいよ」

そして別の上級医も言い添える。

「そうだね、たとえば青木眞先生の本とかね。あれは読んでおいたほうがいいな」


みんなこうして、お互いに忙しいんだけど教育をするのは、たぶん、言葉を投げかけて学んでほしいと思う先に、若い研修医だけではなく、「今の自分の分身」みたいなものがいるからかもしれないと、ふと思った。上級医たちが口にした内容は、必ずしも研修医だけに向けた話ではなく、自分たちの勉強にもなる話なのだ。他者のためだけに勉強会をやり続けられるほどぼくらはヒマではないし体力があるわけでもない。どことなく、「自分のためにもなる」という利得……インセンティブ……があるからこそ、こういう教育を続けていけるんだろうなあと、ふと思った。