2022年9月1日木曜日

やふー

メールの送信者欄に自分の名前を書いていない人から連絡がくると、ああ、SNS世代だなーと思う。


なんだ「やふー」って。

ああ、複数使っているメールのクライアントごとに、「やふー」とか「じーめーる」とか表示させている感じかな?




たとえばGmailウェブクライアントを使っていると、同じ人から届くメールは一連のスレッドになる(ことが多い)から、「やふー」氏のスタイルでもなんとかなるのかもしれない。LINEでもSlackでもなく未だにE-mailを使い続けている我々の仕事スタイルに問題があるという自己批判も可能である。

しかし、システムはともかく、仕事相手が4桁いるぼくの元に、署名も過去のメールの引用もついていない連絡がくる確率はいまのところ1%未満だ。となるとまあ、なんか、今日のところ、「ひとまずこの人がなんとかしてくんねぇかな……」と考えてしまうし、ひるんでしまう。



医者は初期研修が終わると最も若くても26歳、ぼくとメールのやりとりをするような世代となると一番若くて30歳くらい。SNSネイティブ世代がついに30代に突入した、という理解でよいのだろう。こうして緩やかに世代交代する。

30代前半の人間たちがもたらす違和感の裏側、写真に対するネガのようなものをきちんと見ると、「若い人によってもたらされたように見えるこのやりづらさは、じつは自分たちに内在している何らかの特性によるものかもしれない」と考える機会が与えられる。知らず知らずのうちに自分が「当然」としてしまったものが、おもいのほか「偶然」の積み重ねでたまたまそうなっただけで、理屈もなければ筋道もなかったりすることがままあるので、いったん自己を振り返ることは大事だと思う。いっぽうで、多くの人間たちが10年以上かけて作り上げて今残っているシステムは、「ボールが高い所から転がり落ちた結果、どうやってもここにたどり着く」みたいにそれ以外のルートが選べない場合もままあるし、経年による選択圧を超えてなお残っているだけあってそれ以外のシステムより世界に適応する何かが含まれているかもしれない。いつもいつも「古いシステムが悪い」とだけ言っていてもだめなのだろうなという気持ちもある。



でも宛名「やふー」はねぇよな。「あいみょん」とかならまだ許せるんだが「やふー」はない。そこはセンスの問題だ。しかしセンスという言葉ほど根拠の乏しい、複雑系の出力だけを見ているような、ある意味AI的な言葉もなかなかないな、という気もしないではない。