2023年1月23日月曜日

病理の話(738) ハイオクとレギュラーくらいの差と言っていい

若い病理医の書いた診断書や、大学の研究者がバイトで書いている診断書を読むと、ときに、「正常と異常の線引き」が甘いなと感じることがある。

例として、大腸の粘膜をチョンとつまんでとってくる「生検」という検査のことを書く。

腸炎がひどいときに、これはどうもふつうの「食あたり」とは違うんじゃないか、何か特殊な病気があるんじゃないかと主治医が疑って、大腸カメラをやって粘膜をつまんでくることがある。患者からすると、下痢に苦しんでいるときにさらに肛門からカメラを入れられるわけで、たまったものではないが、そうやって原因があきらかになれば治療法が変わるかもしれないので、申し訳ないのだけれどちょっと我慢してもらうことになる。

患者にけっこうな負担をかけて採取してきた「粘膜」をプレパラートにして、病理医が顕微鏡でみる。するとそこには、上皮という種類の細胞が輪郭を形作っていて、陰窩(いんか)とよばれるミクロの穴ボコがいっぱいあいた構造を形成している。さらに、上皮細胞におおわれた間質と呼ばれるスペースに、いくらかの白血球がコロコロ認められる。この白血球、すなわち炎症細胞が、なにか悪さをしているのではないか、それによって粘膜に炎症が起こって、下痢を引き起こしているのではないか、と考えていく。

ここで、あまり経験のない病理医は、白血球がちょろちょろ見られた時点で、「ああこれは炎症ですね。腸炎です。」と診断を書きがちだ。なにせ、主治医が「腸炎だ」と言っているので、病理医としても炎症細胞がみられたら「なるほど腸炎だ」とつい話を揃えたくなるのである。

しかし、じつは、健康で下痢などまったくしていない人の大腸粘膜を見ても、ある程度の白血球は認められる。つまり、「白血球がいる=炎症」とは言えない。

ゼロイチでいるかいないかを見るのではなくて、量を見なければいけない。

そもそも正常の大腸だとどれくらいの炎症細胞がいるものなのか……どれくらいなら「いて良いのか」を知っている必要がある。たとえば、大腸がんに対する手術でとってきた大腸の、「がんから遠く離れた粘膜」を病理標本にして観察すれば、ほぼ正常の大腸粘膜のようすを見て覚えることはできるだろう。そういうことをどれだけ積み重ねているかという話だ。

「がん細胞がそこにいる・いない」のようなデジタル診断のほうが、言い方は悪いが、少し簡単である。腸炎のほうが病理診断が難しいということはままある。ある細胞がどれだけ多く存在すれば異常か、を見極めるには「ものさし」がないといけない。そのものさしは教科書を読んでいるだけだとなかなか手に入らない。


では、そのような「量的な評価のあまい病理医」が見て書いた診断によって、誰かが困るかというと……実際にはあまり困る人がいない。主治医は患者の全体をみながら、この人は腸炎だな、それも軽症だな/中等症だな/重症だなと、病理診断以外の部分できちんと評価をしているので、病理医が多少ずれた診断を書いたところで、主治医も「あれ? 思ってたより炎症が強かったのかな? でもまあ、病理に見てもらった粘膜はほんのひとつまみだし、一部しか見ていないから微妙にぼくらの見立てとずれたのかな」くらいにしか思わず、大勢に影響はない。

でもそういう主治医が、転勤によって違う施設の病理医の書いた報告書をみると、途端にキレ味の良さに驚くことになる。自分の思った通りの、いや、思った以上のニュアンスが病理診断書から得られて、臨床のさまざまな判断が少しずつ改善されていく。

これらは「誤診」ほど派手で患者に迷惑をかけまくる話とは違うのだけれど、「加湿器を部屋に置く」みたいな「長年丁寧にやっていると必ずいいことがある」的な話に近い。あるいは、ハイオクもレギュラーもどっちもガソリンだけど、ハイオク推奨のエンジンにレギュラーガソリンを入れるといずれ壊れる、みたいな話と言ってもいいだろう。「量的な評価」は病理医の仕事の中では地味なのであまり重要視されていないきらいもあるが、量的なセンスをきちんと身につけることで主治医や患者にとっていいことがいずれ必ず出てくるのである。