2023年1月30日月曜日

医師が選びとるべきセリフについて

けっこう偉い人から、学会の広報仕事に関して、

「学会の仕事にはお金が出せないけれど、医師が学会の仕事をするのはあたりまえのことだ。むしろ、○○学会で仕事をしたという名誉と実績が得られることを喜んでほしい」

みたいなことを言われたことがある。

バカじゃないの、と思った。どんなやりがい搾取だよ。令和にもなって……と。



しかし、その後、自分のこの反応をふりかえって、「言い過ぎかも」と思うようになった。



「バカじゃないの」や「仕事なんだから金を出すシステムを用意しろよ」というのは、ぼくの物語からとうぜん出てくるべきセリフである。

しかし、ぼくの物語は、偉い人たちの物語と同じではない。

物語ごとに倫理や正義がある。

バカかどうかは物語によって決まる。




ある物語を用いて生きている人、生きてきた人を外からみると、欠点や難点が目に付くものだ。

「もっといいやり方があるのに」「さほど意味のないことを熱心にやるんだな」「それだと誰かが傷つくだろうに」「もっと上手にやれるはずなのに」。

そうやって、自分の持っている物語と誰かの歩んできた物語とを比較して、自分のほうがいいのにとやる仕草に、少しずつ飽きてきた。

その人として歩んで、その人の目で何かを見て、感じて、それをくり返して、積み上げたところから出てきたセリフを、外部の物語を生きる人が早急にバカにするのは、いかがなものかという気持ちがここのところ強まってきている。



「老人のわがまま」のような、わりと簡単に行使されがちな理屈で、自分の物語のほうが正しいはずだと瞬間的に断言するのは暴力的なのではないか。




必要以上にノーマスクノーマスクと宣言してまわる人たち。ワクチンが打てない理由があるならともかく、不特定多数の他人に向かってワクチンを打つなとシュプレヒコールして回る人たち。標準治療を否定してあやしい医療に誘導しようとする人たち。そういう人たちに対して、近年、医師の側から「バカじゃないの」という声がもれてくることがある。

でも、医師が選びとるべきセリフがそれでいいのだろうか。

エビデンス、科学、統計、そういったものに照らし合わせて「向こうの物語が間違っている」と感じることはいい、それ自体はぼくも妥当だと思っている。

しかし、かけるべき言葉が「バカじゃないの」でいいのだろうか。

向こうの物語を必要以上に尊重すべきだとは思わない。ぼくらにはぼくらの物語がある。

しかし、物語間の断絶を、科学のひとことで埋め尽くす仕草は、はたして知的営為と言えるのだろうか。

それは暴力ではないのか。

きれいごとなのは承知の上だ。

言葉のこと、気持ちのこと、こころのことを考え足りないままに、倫理や正義を語っても、それはぼくらの物語に過ぎないのではないかということを、ぼくは何度も考えているのだが、こうして言葉にして、自分で読み直してみると、うーん、まだまだ考えたりないかもしれないなあと思う。