2023年4月27日木曜日

病理の話(771) アンクラシファイドファイヤ

「山火事」の映像を見たことがあるだろうか。あるいはティッシュを燃やすとかでもいい(サイズ感がずいぶん違うけれど)。

炎が燃え広がっていくにつれて、灰になった領域がじわじわと面積を広げていく。

ろうそくや焚き火のように、一箇所に燃やすべきものを集めて付けた火と、山火事や焼き畑のような「移動しながら燃えていく火」では何かがちがう。焼き畑では、駅伝のゴールテープのような細い幅をもった面の部分が炎につつまれて、そのテープ状の炎が外側に向かってじわじわと移動していく、その過程には「塗りつぶし感」がある。そのつど燃料を供給され、同じところで煌々と燃え続ける火とはニュアンスが異なると思う。

キャンプファイヤを見ているとみんな「落ち着く」という。でも、焼き畑だとなぜか焦燥感をかきたてられる。これは単に火に対する根源的な恐怖があるからとかではなくて、決まったところが燃えていない、この先どこがどう燃えるかわからない、不安定で未定なイメージによるのではないか。

そして炎が通り過ぎていくと一気に「静寂」となる。メリハリが利いている。ティッシュを燃やした場合は火が通り過ぎたあとには空隙しか残らないが、焼き畑の場合は、焼けた雑草が灰となって折り重なって、色を失って、凪ぐ。安定する。「決着した」、と感じる。




話は一気に変わって、ここからは医療の話である。

人は具合が悪くなると病院に行く。あるいは、調子はさほど悪くなくても、検査などで病院に行ったほうがいいよとすすめられることもある。いろいろな理由で病院を訪れたあと、何をするかというと、自分の中に生じている不具合を医者に「名付け」てもらう。これを診断という。

病気に名前がつくことで、その名前に応じた治療がわかる。A病ならばBという薬が効く、C病ならばDという手術が効果的であるというように、診断と治療とのあいだには対応がある。

だから診断はビシッと決まるべきだ。

しかし、この、「診断」というものは、じつは確定した概念とは限らない。どこかの分厚い教科書に事実として書き込んであるとか、すごい権威を持った医者が「こういうときはA病としなさい」と定義しているわけではないのだ。

医学は長年研究されているから、たとえば、「がん」のような病気の診断にはある程度決まったやり方がある。CTや内視鏡、あるいは病理によってこのような形が見えたら「○○がん」と診断する、という流れはわりと安定している。

しかし、「がん」になる前の病態、いわゆる「前がん病変」と呼ばれるものは、まだまだ研究が行われている最中だ。体の中にどれくらいの異常があれば、それを「がんの芽」と呼んでいいかに関しては、まだ決まった説がないことも多い。

ぼくはこういう、診断の根拠が決まっていないジャンルを目にすると、ふと、焼き畑のイメージを思い浮かべる。この火がどこまでを灰にするのか、燃え切った灰が肥料になることで、次の畑の肥料として使えるようになるのがどこまでなのか、面積が決まっていない感じ。

真ん中は、すっかり燃え終わってだいぶ経つ。そこは「安定」している。がん研究の中心部には「すでにわかっていること」が多く存在するということ。

しかし、へりの部分ではまだまだ炎がぱちぱち言っている。今燃えているところはいずれ灰になるだろう、つまり今「激論」が行われている領域はそのうち安定する。がん研究の最先端の成果もいつかおそらく安定するのだ。研究は必ず前に進むのだから。

しかし、これからどちらに火が及んでいくかは完全に未決である。ほんとうはもっとあっちの方にも畑を(火を)広げて行きたいと思っても、うまく火がつかないこともある。研究の火はどんどん広げなければならない。それは黙って見ているだけでは思い通りにならないことでもある。

「診断」は非常に大事な行為であり、先人達の研究によって多くのことがわかるようになってきているが、フィールド全体を見渡すと、「未決」の領域がまだまだたくさんある。おそらくいつまでもあるだろう。



病理診断でたまに用いられる言葉に、Unclassified lesion(アンクラシファイド・リージョン)というのがある。日本語になおすと、「未分類の領域」。「がん」ほどには診断学が確定しておらず、なんと名前を付けてよいかまだ決まっていない病気、くらいの意味だ。

この先の研究でどちらに転ぶかまだわからない、そんな病変。

そこに「火を付けて」、将来の役に立てることができるのか、それとも火が途中で消えてしまうのかは、ひとえに、心に炎を宿した病理医がその領域に足を踏み込むか否かにかかっている。