2023年4月18日火曜日

脳だけが旅をする

モンハン(モンスターハンター)をちまちまやっている。今さら? という感じだが、いいのだ。

きっかけは、十二国記を読み終わって積み本が一通り片付いたことと、出張が増えることで読みたい医学書を読む時間(≒飛行機に乗っている時間)が確保できる分、ほかの時間を本以外にあてることが可能になったことによる。

後者はちょっとわかりづらいかもしれない。感染症禍からこっち、ほぼ移動なしでZoom会議を織り交ぜながらデスクに激詰めし、珍しく家にいるときはほとんど本を読んでいたので家族にも心配された。これはもう、年を取ったからそういうモードに収まったのであって、この先もずっとそうかなと思っていたのだけれど、近頃オンサイト(現地)での出張が戻ってきて、「移動中に本を読む」という昔のルーティンも復活したことで、昔はそういえばゲームもしてたっけな、みたいにかつての生活のサイクルを思い出したのである。

しばらくぶりでSwitchのコントローラを握ると指がなれない。RとLとZRとZLが特にやばい。このままでは、楽しみにしていたブレスオブザワイルドの続編もうまくやれないだろう。なおたしかゼルダはカメラ移動の設定がモンハンと違った気もするので、今さらモンハンをゴリゴリやったところでゼルダが安心してできるようにはならない気もするが、それはまあ設定をいじってなんとかする。リハビリ中である。


書いていて思いだしたが「久々にゲームやりてぇな」と感じたきっかけはほかにもある。というか今から書くきっかけが一番でかいかもしれない。何かというと、永田泰大さんの名著『ファイナルファンタジーXIプレイ日記 ヴァナ・ディール滞在記』がKindle版で再版されたことである。なんと20年越しの復刊。巻末には追加テキストもついているので一度読んだ人にもおすすめだし、というか、これは何度も何度も読んでいいタイプの本である。絶妙に良い。たしか27万字くらいあるとの噂で実際にすごく長いがまったく気にならない。この本を読むことによって、「ゲームを定期的にやる暮らし」の楽しさが再インストールされたのだと思う。


ぼくは近頃、普通の人生というものは少しずつつまらなくなっていくものだと感じており、それをあきらめることにも慣れていた。友情、恋愛、学業、進路、訓練、労務、旅行、食事、趣味、どれもこれも、昔考えていたところにたどり着いたものはひとつもない上に(レベルがどうとか以前に方角がまるで違う)、20代ほどの派手なイベントもないしレベルアップの効果音も鳴らない。今のぼくは30代後半までに登坂したなだらかかつ雑草の激しい山を頂上からすべりの悪いそりにのってゆっくり滑走しているようなイメージなのである。つまらないというかそういうものなのだろうなとほとんど納得してしまっている。だからこそ……ゲームをやることで、あの切なく厳しかった青春の日々のいい部分だけを「古書取り寄せ」的に再び自分のものとしたい……なんていうわかりやすいモチベーションもじつのところはぜんぜんない。そんなにゲームに期待してない、今さらゲームをやったところで昔ほど無垢に楽しめるなんてまったく信じてもいない。


ただ、不思議なもので、これはたとえば「お散歩」とか「ドライブ」に似ているなあと感じるのだけれど、ゲームの際に指をちまちま動かしていくことは、足を動かすとかハンドルを握るといった動作といっしょでとっくに脳内で半自動化されているから(多少リハビリが要るにはせよ)、それ自体がおもしろいわけではない。しかしゲームをすると、指からというわけではなく「ゲームをしている時間そのものから」それなりの刺激が脳にインプットされる。レベルアップのファンファーレとかモンスターを倒した快感から刺激を得るというのともちょっと違う。何かを食べたとかどこかで写真を撮ったという個別のホルモン活性化だけが散歩やドライブの醍醐味ではないのと一緒だと思う。脳と指が、徒歩や運転と同じようにキョロキョロ・キョトキョトしつづけることで、ひとつの場所に止まっていては感じられない刺激を微妙に得ていく、「ある程度長い時間の浪費」に総体として何かが起こっているなあと感じるのである。つまらなさなんて別に解消されないまま、意識がときおりポンポンと小さくジャンプして飛び移っていく時間、これがつまり脳だけが旅をするということだよなと思った。このブログでは何度も書いてきたことではある。