2023年9月26日火曜日

病理の話(820) 採算と診断と自腹

病院にも経営という概念がある。たくさんの専門家を雇うための人件費が必要だし、医薬品や医療器具を買ったりメンテナンスしたりするのにもお金がかかる。

そのお金はどこから出てくるのかというと、当然患者が払うわけだが、自分にかかったお金を全部払おうと思うととんでもない額になる。お腹を壊して病院にかかってちょっと点滴打ってもらっただけでも、仮に全額払おうとすると何万円とかかる。びっくりするかもしれないが、それだけの試薬とシステムを使っているのが現代の医療だ。

それでは大変なので、日本では、病気になった個人がその場で全額を支払わなくてもいいような仕組みがある。国民が支払っている健康保険料をプールして、本来患者が支払うべき額の7割~9割をまかなう財源とする。

社会が個人を支えている。

マンモスに跳ね飛ばされた狩人が自分の体力だけで生きるか死ぬかとやっていた時代とはわけが違う。

ひとりがくるしんでいたら世間で支える。ひとりひとりが社会の一員として未来の誰かを助けている。



したがって病院の収入もざっくりと7割くらいは国民全体に支えてもらっていることになる。(※ほかにも税制の優遇とか行政からの支援金とかもあるけど、ここでは雰囲気で話しているので正確性については大目に見て欲しい)

となれば、医療従事者はちゃんと節約すべきだ。社会に助けられて医療を担わせてもらっている以上、社会のために無駄遣いは削っていかなければいけない。

そのためには個々の医療従事者がちゃんと経営感覚をもって日々診療にあたる必要がある。人助けならいくらお金を使ってもいいというのは発想が貧困だ。あるひとりに湯水のようにお金を使ったせいで翌日やってきたべつのひとりを助けられないかもしれない、というジレンマに敏感であったほうがいい。


たとえば、やってもやらなくても診療方針が変わらない検査をポンポンオーダーしてはいけない。患者のためになるならばまだしも、「その検査値を医療従事者が見てみたいから」というだけで検査を出してはだめだ。

とはいえ、病理診断学をやっていると「経営的にはだめなんだけどこの検査はやっておきたいなあ」という場面がたまにある。

この検査の結果が白と出るか黒と出るかで、患者の治療が大きく変わるわけではないし、患者がこの先どうなるかという未来予測にもさほど役に立たないのだけれど、病気の正体に半歩くらい近づける、医学の進歩に貢献できる、みたいなシーンが難しい。100%進歩するというならいいが、2%くらいの低確率で2 mmくらい前に進むかも……くらいの話に患者や社会から預かったお金を注ぎ込むのはバランスとしてちょっとなーという感じである。

例としては「腫瘍細胞を切片から切り抜いてきて、病気の中だけに存在する異常なタンパク質や遺伝子の変化を特殊な方法で調べる」みたいなものだ。

1回調べるのに数万~数十万円かかる。患者の治療に直結するわけではないので、医療保険で国が負担をカバーしてくれるわけもなく、患者にもお金を請求することができない。

ではそのお金はどこから出るのか?

ひとつの回答が「研究費」だ。

研究費の出所はいろいろあって、科研費のように国が別の予算を立てて「このお金は科学の進歩のために使おうね」とあちこちの了解を得たお金であったり、病院が経営判断の中で「これくらいのお金は医療スタッフの研究にあてよう」とあらかじめよけておいてくれたお金であったりする。いずれも診療で動く金額に比べるとスズメの涙であるが、まれに、大型の研究予算なんてのもあって、もちろん競争率が激しいし優秀な研究者のもとにしか届かない(大須賀覚あたりはそういう予算をときどき引っ張っているから偉い)。

米国では民間から病院への寄付が膨大な金額になっていて、寄付金を用いて潤沢な研究を行っている場合も多い。しかし日本ではそういう関係性は少ない。

あわてて現場の研究者たちがクラファンをはじめたりしている。ただしクラファンはピンキリなので応援しやすいものとしにくいものがあるけれど。


ぼくも、たまに研究費を使って、病気の解析を少し深く行ったり、似たような症例をいくつか集めて解析をやり直したりということをやる。

ただ、研究費だけでやりたいことができるわけではない。

日常に潜む細かな検査、ひとつひとつは数千円くらいだったりする、そういったものを毎回研究費でなんとかできるかというと、少額なためにかえって面倒になったりもする。

あるいは、診療を続けていくための勉強にかかるお金。本とか出張とか。それもぜんぶ研究費でなんとかする……というのは実際むりである。

そこで「自腹」となる。教科書を買い、研究会や学会に通い、まれに簡易な遺伝子検査にかかる数万円を自分で支払って結果を確認する、みたいなやりかた。

これは下策だ。よくないと思う。医療従事者や研究者の仕事は社会と互助関係にあったほうがよく、個人の気持ちでなんとかしてしまうとシステムが腐っていく。

なので若い人には同じことをやらせたくない。なるべく研究費を取っておいて、若い人がやりたいこと、勉強したいことを病院の予算で応援できるようにあちこち奔走する。結果、自分のために使える予算がなくなるので、また自腹を切るのだが、若い人が上にあがってきたときに困るので、根本的に研究費を増額できるように別の手段を考えて少しずつ調整を進めていく。

こういうことをずっとやっている。



「自腹構造」のような歪みを見つけて、「よくないよ! なんとかお金をもってこないとだめだよ!」とやいのやいの言う人がときにあらわれる。

そういう人たちが、実際に現場に何か役に立つ提言をしてくれたり、財源を付けてくれたりすることはない。善意からの発言だろうけれど、申し訳ないが言いたいだけなのだろうなと感じる。

ぼくだってそんなことはとっくにわかっているのだ。だから、歪んだ構造を少しずつ少しずつ直しながら、「修理が追いつくスピードよりもすばやく研究したがっている自分の心」を癒やすために自腹を切ることもまだ続いている。

あとに続く人には同じことをさせたくない。しかし、ぼく自身がそうすることを、外野から止められても困るのだ。ぼくが何かを追究したい心だけがストップしてしまうことに、外野の人間が責任を取れるわけではない。ぼくが最後の自腹世代だと言われることが目標である。