2023年9月25日月曜日

軽自動車館の全国的知名度が気になる

毎日むさぼるように他人の人生を読んでいる。自分と同じ考え方をする人は少ないんだな、とか、誰もが違う考え方のまま摺り合わせているんだな、とか、自分と同じ考え方をする人も意外とあちこちにいるもんだな、とか、日によってさまざまな感想を持つ。どれかひとつの本を読んですごく良かったとか良くなかったとかいう気持ちになることもあるが、「この時期にこれだけの本を読んで全体として浮き上がってきた感想」みたいなものをぼんやり抱えたりもする。



話は変わるがそろそろ車を買い換えたい。中古で購入した、ワゴンともセダンとも付かない微妙なサイズの車をさんざん重宝して乗り潰してきた。走行距離が16万キロに達そうとしており、次の車検では膨大な金額がかかる。タイヤを買い換える時期も迫っていて、さすがにそろそろ手放す。ライフスタイルも変化していて、大きな車にテントを積み込んでみんなでキャンプみたいなことも今後は少ない。次の車は小さくする。

しかし小さすぎるのも辛い。札幌市はそれなりの積雪がある町だ。冬の轍(わだち)にタイヤをもっていかれるのがしんどい。四駆のほうが安全だ。タイヤが小さいと制動性が悪くなるからタイヤはそこそこのサイズがいい。車高が低いといわゆる「亀の子」状態になるリスクをはらむから少し高めのほうがいい。いずれも凝り性や心配性で言っているのではなく、札幌に住む人が多かれ少なかれ気にしていることだ。ジムニーがすぐ売り切れる理由でもある。

若い頃は、道に車がハマっても自分たちでなんとかするだけの体力と鷹揚さがあった。友だち同士で車の後ろをエッサエッサと押してスリップから抜け出しながら、二駆の軽自動車で何冬も過ごしたものである。しかし今は車なんて押せない。手首から肩までの全ての骨が粉微塵になる。吹雪の夜に車の外に出るだけで失望して失神するだろう。車ハマるイコール死ねるである(脚韻4連)。

「職場と家の往復だけなら最悪大きな道を通ればなんとかなる、山中ならともかく札幌の市街地なら軽自動車でも行ける」というのは昔の人の考え方だ。幹線道路のような2車線以上の道だけ通行して生活できるならばまだしも、除雪の予算が削減された今、ちょっとでも郊外に出ると、あるいは小路に入ると、除雪が追いついておらず、悪路っぷりは昔の比ではない。車線は基本的に片側につき夏マイナス1がデフォ(片側1車線ならば道はなくなる)。雪を最後まで持っていかずにちょっとだけ路上に残すエコなシステムも導入されており以前よりも深い轍。路肩に雪を積んだまま運ばないので全体的に視界が悪い。軽自動車の恐怖は令和になって増悪している。

小さい車を買う気がしなくなる理由がもうひとつある。値段だ。いまどきの軽自動車は別にそこまで安くはない。あえて小さい車に乗りたい人がきちんとお金を払って乗るものであって、「軽イコール安い」という図式がそもそも成り立たない。



と、自分の考えを延々と書いてきたが、車選びについては人によって価値観がまるで違うので、一見筋道を追って書いているように見える上記の文章も、他人が読むと「そんなことないよ」「俺とは違うな」「そんな考え方もあるのか」くらいにしか思われない。車そのもの、あるいは車のある暮らしに対する人それぞれの考え方の違いがありながらも、道はすべての運転者を受け止め、町はあらゆる消費者を支える。それでそんなにケンカもせずにやっていくのだから、社会というのは本当に包容力がある。ぼくは軽自動車に乗りたくないのだけれど軽自動車は今日も町にたくさん走っている。