2022年4月13日水曜日

病理の話(646) グレーの領域の診断

ストレスが加わった体にはいろいろ変化があらわれる。

そういうものだ、とわかっていれば、体に何か変化が出たときに、「なるほど今のぼくはストレス環境にいるんだなあ」と納得できて、「便利だ」。


たとえばぼくの場合、仕事が立て込んでいていつまでも働いているとき、無意識に奥歯をカチカチと噛み合わせている。これは癖っぽいけれど、たぶん、ストレスに対する体の変化としてとらえるべきものだ。

アゴのあたりから伝わる振動で定期的に自分をポンポンさすっているような感覚がある。


人はしばしばこういったものをまとめて「チック」と表現する。ただし、厳密に言うと、チックにはいろいろ定義があり、専門家による対応もある。小児~思春期にこういった動きがあるばあい、つい我々は気軽にチックと呼称してしまうが、そこにはおそらく、医療の介入が必要な「真のチック」と、なにかストレスがかかったときに自分が意識的・無意識的にこうなりがち、という「傾向」みたいなものが両方紛れ込んでいる。

ここでいうぼくの「奥歯をカチカチ鳴らすこと」を、「チック症」のように「あえて診断」すべきとは、少なくともぼくは思わない。



医学の分類は、ここからは病気でここから健康と、線を引くことを大切にする。しかし実際には、人間の体というのはもっとグラデーションだ。ぼくは自分のアゴがストレスでカチカチ鳴るのを医学的にチックだとは考えていないし、これを仮にチックと言われてしまうと、「診断してその後どうするつもり?」とつっこみたくもなる。ぼくの場合、これを「ストレスのバロメータだなあ」と把握していればそれで十分なのだから。




診断とは対処とセットであるべきものだ。真実探しではなく、「対処のために案件に名前を付ける行為」である。

たとえば、ぼくら人間はだいたい85歳くらいで平均的な寿命を迎える生物だが、これを「85歳くらいで死ぬ病」と名付けたとして、何か意味があるだろうか? 「だって、そうじゃん。正しいことじゃん」ではない。名称を付けたところで対処は変わらない、状況を変えようがないのだから、診断すること自体に意味がない。

名付けは気持ちでやっていい。しかし、「診断」というのは用途がある。


とはいえ、ここからが難しいところで、たとえばぼくの奥歯カチカチが、周りの人にとっての「騒音公害」になっていたり、ぼく自身も奥歯を鳴らしすぎて歯が欠けてしまうとか、アゴに気が行ってしまい集中できないとかいう「実害」が出始めたとしたら、ストレスのバロメータだから便利じゃん、では話はおさまらなくなる。

そこで、「診断」を、ゼロかイチかという二択にするのではなくて、「0.02」とか「0.8」とか「0.335」などのある世界に持ち込むというやり方がある。「チック」と診断するのではなく、「15%くらいチック的」ととらえるのだ。厳密な医学としては間違えているのだけれど、対処としてはかなり幅が広がる。


医学と医療との間にもまたグラデーションがあるのだ。


グレーの部分を、丁寧に、機(はた)を織(お)るように扱っていくのが、真の診断者である。知識という言葉は「知織」と書いてもよいのではないかとかねがね考えている。