2021年11月15日月曜日

5案の中から

かつて『病理医ヤンデルのおおまじめなひとりごと』(大和書房)という本を出したときの話。担当編集者のWさんが「帯文、どなたかに書いてもらいましょうね」と言ったので、「どなたかというのはどなたがいいんでしょうか」と答えたところ、「そうですね……先生と縁のある人なら誰でもいいと思いますよ」みたいなことを言われた。


なるほどなあと思ってふたりで考えた結果、糸井重里さんにお願いしてみてはどうかという話になり、こういうのってお願いしていいのかどうかもよくわかんないな、と思いながら編集部から一報を入れて頂いたところ、快くお引き受けいただいた。なんかちょっとすげえなと自分でも思った。


で、今日書きたい話はそのくだりではなくてそのあとの話だ。以前にもブログで書いたことがある気もするがたぶん切り口は違うだろうからかまわずに書くと、糸井さんは帯文を、


「5種類」


送ってくださったのである。しかもそれぞれについて「この文章はこういう意図がある」とか、「これだとこのように読まれるのではないか」とか、「私はこの順番でおすすめする」というように、解説やふんわりとした序列がついた状態だった。ぼくは愕然とし、かつ、とても感心した。


このようなやり方がいわゆるコピーライティングとか広告プレゼンの場で行われている一般的な手法なのかどうかはよく知らないし、知ったところで活用する機会もないのだが、本を読んで帯の文章を書いてくださいとお願いした相手が1つ文章を練って送ってくださるだけでもうれしいのに、複数考えて送ってくださったのでなんというか撃ち抜かれた思いであった。


それ以来、果たしてぼくは今後このように、「ひとつの依頼に対して複数考えて提示して相手に決めてもらう」ような仕事をする機会があるだろうか? と、ことあるごとに考えるようになった。


たとえば、臨床医に「学会で発表したいので病理の写真を撮ってください」と頼まれたとき、写真を撮るだけではなくパワポに組んで解説を付けて渡すところまでは毎回やっていたのだが、ここでさらに、「発表する時間に応じてこの写真はカットしてもよい」などのサービス……というか、写真を受け取ったほうが選べるような仕事をできるものかとだいぶ考えた。主治医に頼まれて病理の写真を撮るという仕事は、消化器の研究会を除くと250例を突破したが、消化器系はさらにその倍以上あるのでたぶんこの14年間で700~800回くらいは臨床医の依頼に応えてきたことになる。年間50例とすれば週に一度のペースということだ。まあ市中病院の主任部長としては多くも少なくもないくらいだろう。で、「帯文事件」のあとで担当した100例くらいは、相手が写真を選べるようなシステムにしてみた。糸井システムを採用したのである。ただし、臨床医もヒマではないので、「いいから病理医のほうで決めてくれよ~」という気分になることもあるようなので、それこそ糸井さんがやったように、「おすすめの順番はこうだよ」と仮組みして提示するのがよい。このやり方だと、ただ病理の写真を2,3枚撮ってホイと渡すのに比べて臨床医の満足度が違う。結果的に、学会や研究会でどのような発表をしたのかをあとで教えてくれたり、そのまま共同研究に誘ってくれたりと、めぐりめぐってぼくの得になるようなシーンも増えた。なんだかんだで論文業績も増えており、ぼく自身の勉強にもなるので一石多鳥である。


ただしこのシステム、当然だが1案出すよりも時間はかかる。忙しい中で毎回どっぷり時間を使えるわけではないので理想と現実の落としどころが問題となる。しかし、「もてなし」的な気持ちは、秒単位であっても取り入れることが可能なのもまた事実だ。「やれるときはやろう」と気に掛けておくだけでもだいぶ違う。たとえば、新しいモノを2つ、3つと考え続けることまではせずとも、準備中に思い浮かべて最終的には棄却した「代案」みたいなものを、「メインのアイディアがあるからサブはいいや」と引っ込めるのではなく、そちらもある程度精製して相手に提示し、「いちおうこういう第2案も考えたけど第1案のほうがいいとは思う」みたいにプレゼンしてしまう。これは丁寧にやると相手にとって選択肢を増やすことになるし、思考を追体験してもらってよりよい第3案を生み出すきっかけになったりもする。


かといって、「あのとき5案をくださった糸井さんと同じようになりたい」と、本と末を転倒させるような目標設定では真に相手のオファーやコンサルタントに答えたことにはならないとも思う。相手の依頼によっては1案に絞って強めに提示したほうが全体が引き締まることもある。3000文字の原稿依頼がきたときに、相手が選べたほうがいいだろうと言って記事を5本書いて「この中から選んでください」というのはやはり違うような気もする。さまざまな案の中からひとつに絞り込むためのプロ意識というのも時と場合によっては必要だ。


世の中には「選択」という言葉があふれすぎていて、まるで人間は選択ばかりくり返す生き物みたいな気分になる。実際にはもっと「A or Bでは片付かない、AとBの中間付近で微調整をくり返すやりかた」がいっぱいあると思うのだけれど、それでも、人はありとあらゆる現象に対して無限に思考を続けられる脳を持ってはいないので、ときには事象を簡略化して、「ヘリ」の部分はそぎ落として、A or Bという選択でビシッと物事を前に進めたくなるときもある。選択か、微調整か、そのあたりのニュアンスは、あるいはぼくらの人生に、交互に訪れるくらいでちょうどいいのかもしれないなあと思う。思い返してみると、「5案を提示するけれどこれらにはふんわりとした序列があり、そしていろいろ調整してみていいよ」というのは、選択だけでも微調整だけでもない、絶妙のバランスの上に成り立つ仕事のやり方だったのではないか、と今さら腑に落ちるのである。なお、ぼくはその後いくつかの本から帯文を書くように頼まれたが、どれに対しても必ず5案ずつ提案した。長々と書いてきたがこういうところはわりと正直に真似していく。