2021年10月21日木曜日

ぞうよぞうなのよ

岸田奈美さんがなんでも手伝ってくれるというので、ぼくはいろいろ考えた。noteの好意的読者数が日本一多い作家である岸田さんがひとたび「推す!」と言ったらば、ものすごい宣伝効果になるわけで、こんなありがたい話に、その場でスッと「じゃああの医療系イベントの広報を手伝ってください!」と言えればよかったのかもしれないけれども、具体的なイメージを膨らませようとしてもなぜかイメージが途中でブロックされるような感覚があり、しのごのと言いよどんだ。

他人が躊躇する心持ちを察するのが極めて早い(人生ランキングでいうと第2位、1位はぼく)岸田さんは、すかさず、

「たとえば、副音声とかどうです?」

と具体例を挙げてくださった。副音声? なんだそれは? とはぼくは全く思わない、このとき岸田さんの脳にあるイメージは過不足無く伝わった。ぼくは自分の気質の部分に「岸田分」(栄養分と同じ発音で)を40%くらい含んでいるから、岸田さんの想定した光景をそのまま理解することができた。「ノールックで脳内コンパネのスイッチをパチンパチン指で倒しながら、ゼロコンマ数秒で周囲360度から飛びかかってくるミサイルを迎撃するようなしゃべり」ができる岸田さん(とぼく)は、UIもCPUもメモリも、副音声解説という芸に向いている。わかる……と思った。それは強力だ……とうれしくなった。しかし、次の瞬間には、「岸田さんを『副』においておくなんてもったいない、この方はほんらい『主』であるべきだ」という正義感のようなものにせき止められて、風船のようにふくらむイメージの元栓をひねってとめるのであった。どうでもいい話だが、かつてnote社がイベントを開いたときに、岸田さんを出演者にせずに「遊撃隊」にしてもっぱらツイッター担当をさせたことがあった(と思った。勝手にそう見ていた)のだが本当におろかな話だ。岸田さんを広告塔にしか使えないなんてクリエイティブという言葉をはき違えていると思った。閑話休題。

そんな岸田さんが与えてくれたチャンスにぼくはなぜ即答できないのか。理由についてはひとまずその場で言語化しておいた(ただし口には出さなかった)。端的に言えば「ぼくの活動を岸田さんに応援してもらうことで岸田さんにとって何かいいことがあるのか?」というところが気になるのだ。いや、わかる、情けは人のためならずという言葉もある、剣道部の先輩もかつて、「俺がおごった金額は俺に返さなくていいから、お前の後輩にその分おごってやれ」と言った、それと一緒なのだ、このように申し出てくださる人というのは「自分のためになるかどうか」というのを同じ時間軸で考えていない。利潤を活動と同じ平面上に載っけない。レイヤーが違う。だから岸田さんが何かしてくれると言ったときに、「でもこの活動で岸田さんに何かいいことが起こるかというと……」と躊躇するのはピントがずれている。そんなことはぼくもわかっている。

だからその後考え直し、「贈与なんだから受け取ったらいいのに」というのはぼくの躊躇を説得できる理由にはならないのだということを確認した。ぼくは、岸田さんに何かをしてもらってぼくの活動をパワーアップすることよりも、おそらく心のどこかで、「岸田さんとぼくが組んだら何かおもしろいことがやれるのではないか」という、すでに育っている若木に水をやるのではなくて種から作って森を目指すほうがいいんじゃないか、みたいなことを内心考えていたのだ。だから、「ぼくの何かを手伝いますよ」と言われたときに瞬間的に「もったいない!」と考えてしまったのだと思う。岸田さんとならできる、岸田さんとなら可能性がある、なんてことを岸田さんの都合も聞かずにぼくのなかでここしばらく温めていたのだからこちらのほうが厚顔無恥だし無礼なのかもしれない。おとなしく「あの件の広報を手伝ってください」のほうが岸田さんにとってもかえって負担は少ないであろう。しかし……なんというか……


岸田さんに家に来てもらって掃除を手伝わせ料理を持ってきてもらってホームパーティーを華やかにするよりも、岸田さんといっしょに旅に出たほうがおもしろいんじゃないのか……(※すべて接頭語「脳内で」を付けて読んでください)


という気持ちがあった。よりおぞましい話になった気がしないでもないが、これがおそらくぼくの根本にある考え方なのだ。他人に贈与をするときの最上の形は、基本的に物ではなく旅路を贈ることで達成されるのではないかと思う。このことがわかっている医学書院のメガネのイケメンは、かつてぼくのツイッターでの(本をめぐる)やりとりを聞いて、


「エアリプでのコール&レスポンスってすごいですね。

もはや贈与でしょう、これは。」


と言った。贈与というのは返礼を期待せずにモノを贈る行為、それはまあ合っているのだけれど、贈与というのはたぶん、世界をよくするためにモノを隣に手渡し続ける、という太古の人類の風習などでは説明しきれない概念で、エアリプがいつのまにかタイムラインを作っているようなものなのだと思う。


というわけでぼくは岸田さんとそのうち旅をする可能性がある。脳だけが旅をするというブログをやっていると、こういうとき助かる、なぜならば、意味が複数用意できるからだ。