2021年9月8日水曜日

病理の話(574) 医学は端だが役に立つ

今日のブログのタイトル、ほんとうは、「医学はあなたの役に立たない」にするつもりだった。しかし、いくらなんでも「逆張り」が強すぎるかなと思い、少しマイルドにして書き直す。


古典文学とか三角関数とか重力理論なんかは一般の人の役に立たない学問だ、みたいな言い方が、定期的にツイッターのタイムラインに上がってくる。

これが短絡的な良い方であるというのは、ツイッターの人びと(略してツイ人)もたいていわかっている。古典は多様な人びとを結ぶコミュニケーションの役に立つではないかとか、文学で豊穣な精神世界を解き明かしていくことは人間の本質をあかるくする行為だとか、お前が知らないと思っているだけで日常的に使っているそのスマホにも三角関数が使われているとか(いるかな?)、そういった反論がものすごいスピードで飛びかかってきて、「その学問、役に立たないよね説」をボッコボコに殴って去っていく。


一方で、「医学って役に立たないよねー」的な話はまず見ることがない。なんかすごく特別扱いされている。病院で使うじゃん、みたいな感覚があるのだろうか。



しかし普通に考えて、大半の医学は三角関数や重力理論よりも「役に立たない」ものばかりだ。



たとえば「膵臓の上皮細胞に発現しているある種の膜タンパク質が膵臓の細胞をきれいに配列させる役に立っている」みたいな話があなたや私の人生をこの先ちょっとでも「医学的に解決する」ことはまずない。宝くじがあたる確率より低いと思う。

「酵母にもゼブラフィッシュにもラットにも認められるある種の遺伝子が人間の体の中でも働いていて神経をどうにかしている」という研究はおそらく世の9割9分9厘9毛の人にとってどうでもいい話だ。

しかしこれらが「医学」の名の下にまとめられると、とたんに、「医学は人を救う学問」みたいな看板を背負う。



正直言ってそういうのあんまりいらないと思うのだ。「医学をとっかかりにして頭脳の回路の一部をギュンギュンに光らせた、楽しい!」以外のモチベーションがなくても研究はやっていける。


この話をすると、必ず、「しかし医学研究は国の予算を使って行うことなのだから、人のために役立つことをしなければ研究費が取れないだろう」みたいなことを言う人がいるのだけれど、そういう人は研究という行為を「国から予算をもらうもの」と決めつけて語っている。


在野の研究者のことを無視している。


学問は学閥にいなければできないものではない。巨額の研究費がなければ巨大な研究ができないというのは間違いだ。正確には、「巨額の研究費がなければ研究者として上の立場にのしあがることができない」と言うべきである。研究者として上の立場にのしあがる、つまりは立身出世においては研究費のことを考えなければいけないし、「誰の役に立つか」ということをウソでもいいから予算申請の書類に書き連ねる必要がある。


しかし、学問とはもっと自由なものである。丁寧に言うと、「もっと自由にやっていい学問もある」(※ぼくはちなみに予算を大量にとってものすごい数の人の期待にこたえながら縛りだらけで研究する人たちのことをめちゃくちゃ尊敬しています)。


だいたい、「学問は何の役に立つんですか」というセリフ自体が世の中の役に立っていない、しかしそのセリフをつぶやくこと自体は完全に自由だ。「学問は何の役に立つんですか警察」がいて、「学問は何の役に立つんですか」と口に出した人を連行して頭から酵母をかける刑に処すことは今のところない。学問は何の役に立つんですかという質問は筋が悪く本質的ではないが、「そのようなギモンをもってしまうこと」にかんして世の中は完全に自由ではある。とある人が「この学問は何の役に立つんだろう」というしょーもないギモンを平気で口にする自由を担保されているのとまったく同じ理由で、「何の役にも立たないがめちゃくちゃおもしろい医学」を研究する自由がぼくらの精神世界においては保証されている。