2021年4月13日火曜日

読み終わらない本のこと

ぼくは日ごろから「本を読むのが速い」と言われる。でも、ゆっくりじっくり、長々と本を読んでいることもしょっちゅうだし、自分ではあまり速読しているとは思っていない。速く読んでいるのではなくて、読書の時間が長いだけだろう。


先日、『眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ「シネマ」』という本をようやく読み終わった。この本を読むのに3週間ちょっとかかった。毎日読んで3週間。コツコツ読んで20日以上。決して速いとは言えないだろう。


この間、仕事に使う医学書や医療系の雑誌を読んだり、定期購読している書評の雑誌を読んだり、マンガの新刊を読んだりもした。たいていのものは「シネマ」より先に読み終わってしまった。「シネマ」だけが遅々として進まなかった。きつい読書だったのである。


とにかく頭のめちゃくちゃいい人が書いた本だということはよくわかった。そして、大変に難しかった。書いていることの1割もわからない。けれどもその「わからないけれど何かゾクゾクとする感覚」が気持ちよくて、いつまでも読んでいたいと思った。結局この本は読んでいる途中に何度かツイートしたけれど、読了報告はしなかったはずだ。これを人におすすめできるほど、ぼくはこの本を読めていないのではないか、と思ったからだ。たまにそういうことがある。おもしろかったけれど、読み切れなかったな、という本。


読んでいて挫折し、いつかまた読もうと思って本棚に挿している本もいくつかある。ベルクソンの『物質と記憶』(講談社学術文庫)はそのひとつだ。ざらりと低解像度で完読するくらいの気持ちで読み始めたのだが、半分ほど読んだところで、ページの中に出てくる言葉の半分くらいがわからなくなってしまい、そこでリタイアした。


医学書院のメガネのイケメンにそのことを告げると、彼は「ベルクソンは解説書がいっぱい出てますからそっちから読んだらいいですよ」とこともなげに言う。哲学の本を原著から当たるのは危険だということを、そのときはじめて知った。お説に従ってその後、いくつかの哲学書を「解説書から」読み始めたのだが、『ジャック・デリダ入門講義』(作品社)は入門書と書いてあるのに歯が立たなかった。話が違うじゃないかと思った。


今回の「シネマ」だってそうだ。ゼロから読む、とあるが、うそだと思う。この本を読めるのはおそらくゼロではなくてすでに10万くらい持っている人だ。ぼくはまだ2,3しか持っていない。しかし魅力的な本だった。これをまともに読めるようになる日は来るのだろうか?


けっこう前の話。ぼくが「哲学の本を読んでいると、途中で挫折することがあるんですよ」と言ったところ、「そもそも、本というものを、これまで、スイスイ読んだことがないですね」と返した人がいた。その人は自他共に認める読書家だったので驚いた。「スイスイ」の定義が違うのかしら、そう思って尋ねると、「どんな本でも、ためつすがめつ、行きつ戻りつ、途中でいったん伏せては深呼吸をし、しおりを挟んでは他の本に浮気し、関連書籍を思い出して本棚をあさり、ここぞというタイミングでは紅茶を入れ……とやりながらでないと読書ができないのです」と言って、笑った。ああ、なるほど、こういう人に比べたらぼくは確かに本を読むのが(たいてい)速い。そしてぼくは、自分が速い読書をできなくなるときに、なにか、猛烈な居心地の悪さ、ストレス、そして同時にけっこうな「期待」を抱えていることに気づいた。それなりにわかりやすくこじらせた感情。


ぼくはなかなか読み終わらない本のことを別に愛してはいない。しかし、なかなか読み終わらないのに満喫できる読書というものが、おそらくぼくにとっての理想なのかもしれない、ということを、その読書家の前で、つらつらと語った。するとその人は少し遠くを見ながら、こう言った。

「本を好きで居続ける必要すらないんですよね、私自身、ときには、本なんてじつは嫌いかもしれない、って思ってしまうこともある。それでも忘れた頃にまた本を開いている。そういう話がぜんぶ、いいものですよね」

なんだよ、ぼくの言ったこととぜんぜん関係ない話で勝手にまとめやがって、でも、これ、ぼくの言ったことと全く同じ話であるとも言えるなあ、と、ぼくはそのとき、絡まった糸くずを解きほぐすような指の動きをしながら考えた。