2021年4月5日月曜日

チャーシュー力

仕事のタイミングがうまく合わなくて、とある金曜日の午後、やることがなくなってしまった。めったにないことだ。あわてる。


本当はやるべきことがごっそりあるのに忘れているのではないか、と、まずは自分を疑う。手帳を見て、WorkFlowyにまとめているto do リストを探す。しかし見事になにもない。

正確には、4年後に出しましょうと言われている大著(笑)の原稿書きという仕事があるにはあるのだが、この仕事はまだ一行も書けていないし、目次すらほとんど思い浮かんでいない状態である。たかだか金曜の午後ひとつくらいではどうにもならない。今日のところは無視していいだろう。もう少し言語化する前の段階で思考を暖機運転しないと動けない。


これまで書いた教科書や一般向け書籍はいずれも依頼される前から頭の中で考えてきたことがベースになっている。書いている途中でいろいろと新しいことが引き出されてくるから、書き終えるころには「へえ、こんなことになったのか」と自分で感心するのだけれど、真の意味でまっさらの状態から「書き下ろし」たことはないと思う。そして、4年後の本は、今はまだまっさらだ。あと3年は書かずに温めておく。そうしないと書けない。


というわけで、今日ここにある暇をどうするか。


返事していないメールはない。出なければいけない会議もない。数週間後の研究会の準備でもするか、と思ってフォルダを開くと、なんと先週のぼくがすでに作り終わっているではないか。い、いつの間に。芝居がかって天を仰ぐ。頚椎症が悪化するのですぐまた元の位置に戻す。パワポを開いて中を見る。やはり完成している。作った記憶は曖昧である。寝ている間に小人が作ってくれたタイプの仕事かもしれない。そんなことではプレゼンを提示する際に言葉が出てこなくなって困るだろう、と思って、読み進めていったら確かにぼくが作ったものだ。作り上げた記憶はないが作り上げた物がたしかにぼくの体温を持っている。


依頼されていた論文の病理パートも書き終えている。著者校も昨日PDFで送り返してしまった。依頼原稿は2か月先の締め切りの分まで書き終えてある。対談の企画書も書いた。共同研究の倫理審査も通した。委員会資料もぜんぶ揃っている。学生講義の準備も万全だ。


いよいよやることがない。もう帰りたいなととっさに思った。でも夕方からは会議がある。あと3時間くらい、どうやって過ごそう。


職場のデスクにひそかに隠してある『映像研には手を出すな!』のブルーレイを見て過ごしたら楽しいだろうな、と思ったけれど、さすがに業務時間内にそこまで自分の時間に没入することはできない。これは「お守り」だ。開いて中身を見るのは御利益を吹き飛ばす行為である。そもそも、いつ突発的に仕事の電話がかかってくるかもわからないし、外界を遮断するような時間の使い方はできない。


迅速組織診の予定がないことを確認して、医局に歩いていって、自分宛の郵便を受け取った。医学系の雑誌が1つ届いていた。よかった、やることがあった。これを読もう。いつもなら業務のスキマスキマで無理矢理読む雑誌を、今日はわりとゆっくり読める。ソファでコーヒーでも飲みながら雑誌を読めばいい。ほかの臨床医だって、総合医局のソファスペースでよく休憩している。あれと同じようにやってみよう。


……でも、だめだった。ソファに座ろうと思ったけれど、なんだか恥ずかしくて、また病理のデスクに逃げてきてしまった。ぼくは「誰もが見てわかるタイプの小休憩」をとることができない。


うすうす気づいてはいた。普段のぼくは、「どうだ、この見事な働きっぷりは」と、オシャレな服をみせびらかすように自分の多忙さを見せびらかしているということに。いざ、暇な時間が訪れると、それを周りに知られることに、まるで服を脱ぎ散らかしてスウェットでダラダラしているところを見られたかのような恥ずかしさを覚える。


当たり前だけれど反復する毎日でぼくはいろいろ歪んでしまっている。多忙に案件を打ち返していくことはメトロノームのようにぼくのリズムを整えているし、雨垂れとして心の中にある石を穿っている。ああ、もっと暇になればなあ、なんて望み続けることまで含めてひとつの人格なのだろう。患者がしばしば「長年付き合った病気が治る感覚に頭がおいつかない」と無意識で感じているのと似ているかもしれない。


もっとダラダラ働いていいんだと思う。本当は。そうしないと若い人が夢を持ってここにやってこられない。でもぼくは、「バリバリ休み無く働くことを夢見て医者になった人」のほうが偉いと心のどこかで信じ切っていると思う。もちろんそういう考え方は古い。脳の回転数と指先の回転数とは必ずしも比例しない。睡眠時間を削れば削っただけ偉いという価値はぼくらの世代で破壊しておくべきだ。わかっている、わかっているのだけれど、他人については、世界についてはよくわかっているのだけれど、それでもぼく自身はいまだに、「バリバリ働いている自分」のほうが、「だらけながらいい仕事をする自分」よりも絶対にカッコイイと盲信しているフシがある。そうやって自分をヒモで縛って醤油ベースのつけだれで煮込んでおかないと味がしみ込まないと確信している。ばかばかしい。圧力鍋で5分もアレすればどんな具材でもいいカレーになるというのに……。ま、ラーメンにはならないけれど。