2023年3月13日月曜日

病理の話(755) ねばらない病理医

研究会と呼ばれる医者の集まりで、「病変の細かな違い」について解説や議論をすることがある。

それは、ロバとラバの違いを見極めることに似ている。あるいはロリアンブルーとシャルトリュー(ネコの品種)の違いを見極めるようなものでもある。明石家さんまとほいけんたくらいわかりやすいこともあれば、ザ・たっちのどっちが兄か見分けるくらい難しいこともある。

たとえば、「大腸がん」と「大腸がんに似た、がんではない小さな腫れ物(放っておいても誰もこまらない」なんてものを、我々医者は必死で見分けなければいけない。当然のことだ。あるできものをがんだと思って患者を入院させ、麻酔をかけて病気を切り取って、患者が退院してから「じつはがんではありませんでした」と言ったとして、患者が「ああがんじゃないなら良かった!」とニコニコ帰って行くと思ったら大間違いだ。そりゃあそうだろう。時間、金銭、精神、さまざまなものを奪っているのだから。

とはいえ、病気の診断というのはとにかく難しい。

「PCRさえすれば100%わかります!」みたいなことは、現実の医療においては存在しない。偽陽性も偽陰性もない完璧な検査というのは(理論上作り出すことができても)現実にはありえない。どんな検査も漏れや抜けがある。したがって、診断も「精度100%」ということはない。

だから医者は、あらかじめ患者に、「これはがんである可能性が高いですが、とってみたらがんではない、ということも十分ありえます」と説明する。しちめんどうくせえことを言うなあ、とか、オッ責任逃れか? と思われることもあるだろう。しかし、診断の難しさというものを医者と患者が共有することはかなり大事なことだと思われる。




さて、ああでもないこうでもないと病変の細かなちがいについて議論をしていると、(おそらく飽きたのであろう)比較的若い臨床医や病理医から、「それを分けることに意味があるのですか?」という質問が出ることがある。

かなりある。「エピソード」的なものではない。日常と言っていい。

この質問に対し、細かい違いを説明しがちなタイプの指導医(例:ぼく)が、やっきになって「もちろん意味がある」とか「素人目にはないと思えるかもしれないが、玄人から言わせてもらうと、ある」みたいな回答をしては、ダメである。

なぜなら、質問者の側も、意味はまああるんだろうなとわかって聞いているからだ。「意味があるんですか?」という質問を、字義通りに受け取ってはいけない。

その裏にもっと違うニュアンスが仕込まれている。

「その違いを見極めるのは好事家同士でやってください、ぼくにとってその違いを見分ける意義が感じられないです。つまらないなあ。」

質問者はこう言いたいのである。


短くまとめれば「わからない、つまらない」なのだ。こう言わせてしまった時点でぼくらは敗北である。その研究会をおもしろく運営できなかったということ。若い人たちに勉強する気力を失わせてしまったということだからだ。


だからほんとごめんなと思う。


ところが、ごく一部の人が、二言目に次のようなことを言う場合がある。


「どうせそのA病とB病を区別したところで、どっちだったとしても、患者に対してやることは変わりませんよね。手術で取り切れたら根治、ですよね。だったらその病気2つを区別する必要はないんじゃないですか?」


ああ~こうなってくると話は変わる。これはさっきまでの「おもしろさがわからない、つまらないことを不満に思っている医者」とはニュアンスが違う。これは「ねばらない医者」だ。自分という小さな一人の人間が、電子カルテのどのキーをどういう順番で押したらいちばん患者から訴えられないかばかりを考え、A病ならCという薬を、B病ならDという手術をすれば自分の給料は保証されると考えているタイプの医者。医学と医術が渾然一体となった末に練り上げられて産み出されてくる医療というものの、複雑ゆえに慎重に取り組まなければならない我々医療者の営為の、「作業」とか「処置」の部分までしか理解できておらず、医学の裾野の膨大さから目を背けてしまっている医者。それはもはや医師免許を必要としない。あなたのやっている仕事はペッパー君にやらせれば十分である。


おもしろくない、わからない、はしょうがない。しかし、複数の人間が目の前で、テクスチャの微妙な違いに過去の医療者・研究者が見出せなかった意味を創出しながら、臨床行為への応用を慎重に探っているところに後からやってきて、学問も臨床もどちらもさほど知りもせずに「意味が無いですよね、必要が無いですよね」と軽々しく発言できてしまうというのは、知恵が足りないとか機転が足りないという以前に、思考にねばり気が足りない。


そういう人は今のところ病理医には向かない。これから病理医になれたらいいですね、と心の底から願っている。


その程度の「ねばり」だと、今後何度も何度も、難しい診断の崖からすべりおちるであろう。ガイドラインの通りに絵合わせをしているだけで病理診断が終わるというのは大きな勘違いだ。おそらくすでに小さな誤診を何十回もやっている。しかしダブルチェックを担当する上級医のおかげで救われているとか、あるいは、そもそもそういう「ねばらない病理医」の書く病理診断報告書は、臨床医にまともに読まれていないということもある。「こいつはがんだって言ってるけど、いつもわりと適当な診断を書いてくるし、今回も念のため、ようすを見てみるか」くらいの……病理診断があってもなくても変わらないような対応をひそかにされていたりする。これは病理医としてはかなり悔しいことであるが、本人は、悔しい目にあっていることにそもそも気づかず、半端に自信を持った状態で病理医人生を終えてしまう可能性もある。


「なぜだろう」のねばりが足りない医者はだめだ。それを教えてくれる人がこれまでいなかったのだとしたら、かわいそうなことである。