2023年3月24日金曜日

病理の話(759) つまらーんと思っていた講義の思い出

大学で医学を学んだとき、「うわあ、医学だなあ! 今ぼくは医学を勉強しているんだなあ!」と実感できた科目といえば、真っ先に勉強した解剖学である。

これはやっぱり小学校とか中学校に置いてあった骨格標本の影響だろうか。皮膚をとりはずした人体に筋肉や骨や臓器がいっぱい詰めこまれているという漠然としたイメージを、あらためて「骨学(ホネガクではなくコツガク)」から順番に学んでいく過程は、いかにも「医学の階段の一段目」という感じがした。


ただしその次にやってきた「生理学」はとっつきづらかった。生理学というネーミングは一瞬女性の生理の話かと思ってどぎまぎしたが(ここでどぎまぎするというのも性教育の失敗のひとつではあるが)、生理学とは「生きる理(ことわり)の学問」であって、女性の月経も含まれるけれどそれだけには留まらず、正常の人体がどうやって稼働しているかを学ぶのだという。おお、ならば、「科学の子」にとってはご褒美みたいな時間じゃん、たのしみー! と期待してはじまった講義は、残念ながらサーカディアンリズム(概日リズム)がどうとかタンパク質とタンパク質が相互作用でどうとかミトコンドリアがどうとかいう話ばかりでがっくりしてしまった。試験も覚えることが多く難しかった。

生理学は人間の生きている理(ことわり)を探るといいつつ、解析するにあたって人体をどこまでも拡大して調べるタイプの学問である。日常ぼくらが目にする「生きている人間」、もしくは理科室の骨格標本と、生理学におけるタンパク質動態とはスケールの隔たりが激しく、いきなり遠いところにポンと置いてきぼりにされるような感覚があった。試験や進級というしばりがなければまじめに勉強し続ける気もしなかったろう。ああ、専門科目にこういうとっつきづらさがあるから、医療系の大学以外で医学を学ぶのは大変なんだ、つまりぼくらの「役得」みたいなものはこの生理学以降にあるのだろうなと変に納得したりもした。


そして病理学である。これもまた実につまらなかった。学生時代のぼくにとって、解剖学(おもしろい)、組織学(そうでもない)、生化学(きつい)や生理学(つらい)などをひととおり学んだあとに、「いよいよ病気の勉強をできるんだ、この先に医者が見えてくるのだ」とワクワクしかないネーミングでやってくる「病理学」。とうぜんケガとかがんとか重病の類いを紐解いていくに違いないと予想する。しかしそこではじまる話が「炎症」、「遺伝子異常」、「代謝異常」、「循環動態異常」などの基礎理論で、またも肩すかしなのだ。

具体的な病名を取り上げてくれたらもうすこしわかりやすいはずなのに、と、授業の構成をうらみこそすれ、病理学に感動できるところがあるとは思えなかったし、病理学者に対する共感の念も唯一の例外(※)を除いて全く湧かなかった。

(※)亡くなった長嶋和郎元教授の「伝説の病理学講義」だけがそこを打ち破ったのだが、この話はブログでも何度も書いたし、『病理医ヤンデルの医者・病院・病気のリアルな話』(だいわ文庫)などでも書いているのでここでは省略


いわゆる「基礎医学」(生理学も病理学もここに含まれる)のつらさである。

その後学ぶ「臨床医学」(内科学とか整形外科学といった、いわゆる一般的に想像できるタイプの医学)では、基礎医学の知識を用いて具体的な病気についての勉強をする。だから下準備として医学部の前半にしっかりと基礎、専門用語、概念、考え方を学んでおく。そんなことは講師陣に言われずとも学生ながらしっかり察していたつもりだ。大学受験で微分積分をバリバリこなすために、小学校で足し算やかけ算を習い、中学校で因数分解をやってきた経験があるからわかるのだ。「あれってなんの役に立つの?」が後ほど大きな応用となって戻ってくるというのは医学部生にとっても理解できる話だった。したがって、生理学や病理学がクソ学問だなんて全く思っていなかったし、ぜったい将来役に立つだろうとわかっていた。しかしそれがクソつまらないというのもまた偽らない本心だった。後で役に立つからといって気軽に愛せない。


それから20年以上の月日が経ち、今のぼくの目で病理学のカリキュラムを見ると、本当によく計算されていて「この順番以外で医学を学ぶのは無理だろう」という感覚すらある。わかりやすいところから、インパクトのある順番に学んでも絶対に医学という高山は登坂できない。三合目までのハイキングでいいなら、有名な病気をあちこちつまみ食いして学ぶだけである程度の知識はつくのだ、しかし八合目を超えるためのアタックをしようと思うなら最初にこれくらいの下準備を(全部が学生の頭に入るわけがないとわかっていても)目の前に広げておくしかないとわかる。

そして、今のぼくが「わかる」からといってそれが真理ではないんだよなということを、まだかろうじて想像する余力がある年齢でもあるのだ、今のぼくは。たぶんもうちょっと時間が経つと、「しのごの言ってないでこれを全部暗記できたらその先がめちゃくちゃ楽になるんだから、ダマされたと思ってがんばりなさい」と言うタイプの講師になるだろう。でも、うん、そういうことではないのだ。カリキュラムはこれ以外にどうしようもないにしろ、まだまだ教え方の可能性はあるはずで、Robbins Pathologic Basis of Disease(病理学の有名な教科書)に書いてある順番だから合っている、みたいな教え方では必ず多くの学生が振り落とされ、結果、10年後とか20年後に、「病理学の知識が中途半端な状態のために現場で困っている医療者」が大量発生することになるのだろう。