2018年9月12日水曜日

病理の話(242) お金でわかった病理診断の現状

医療行為には金がかかる。そして、その金は、ヤマイに苦しむ一個人にとっては非常に厳しい金額だ。

それはそうだ。

医療というのはその時点での科学の粋を集めたものである。最新の科学をもとに作られた薬も、手術用の道具も、いずれも高価だ。マックの新しいパソコンが2万円で売り出されることが絶対にないのと一緒である。

だから日本には医療保険の制度がある。

医療にかかるお金を、患者個人がその場で全部負担しなくてもよいような仕組みである。




で、今日したいのはこの「医療保険」の話ではない。

医療保険制度があるために、日本では、「どの医療にどれだけ金がかかっているか」を計算することが、ある程度可能となる。

病院がそれぞれ勝手にサービスの額を設定して、患者から好き勝手にお金をとったりとらなかったりしていると、日本全国でどのような医療が行われているかを把握することは極めて難しくなる。それこそ病院とかクリニックを一軒一軒、しらみつぶしに調査しないとわからない(してもわからないだろう)。

でも、患者がお金を払うときに、保険を使っているならば話は別だ。

保険によって患者の負担の一部を肩代わりしているのだから、保険で支払われた額をみれば、どれだけの患者がどのような医療を受けたのか、だいたいはわかるのである。



さて、この、「医療保険という窓を通して医療の実態をみる」というやつを、病理の世界で調べた人がいる。

その結果をみてぼくは、少しうなっていた。うーむ。






もともと、ぼくは知っていた。病院における「病理」には二種類のニュアンスがあるということに。

ひとつは、「病理検査」。

もうひとつは、「病理診断」である。

これらが保険診療上区別されたのは、実は、平成30年のことである(つまり今年だ)。

今年はじめて明確にふたつが分けられた。だから、現在医療者として現役で働いている人の大半は、この区別をよくわかっていない。病理には、検査というやり方と、診断というやり方がある。



前者の「検査」は、小さめの病院で手術を行ったとき、患者からとってきた臓器の一部や全部を、いわゆる検査センター(登録衛生検査所)に送って、そこで顕微鏡による細胞検査をしてもらい、最終的に検査を提出した臨床医が紙に書かれたレポートを受け取ることで完成する。

「というか、それは病理診断そのものでは?」

と思っている医療者は多いだろう。

けれどもこれは、「診断」ではない。「検査」だ。

最初に患者がかかった病院内で診断が完結しておらず、外部の検査センターに「外注」しして行われる医行為。「外注検査」の扱いである。

言葉の定義を問題にしたいのではない。検査と診断では、お金のかかり方も、誰が責任を負うのかも、まるで違うからだ。

外注先である検査センターが、患者に対して本当の意味で責任を負うことは難しい。見てもいない患者、話を聞いてもいない患者の、ごくわずかな体の一部分のみを顕微鏡で見ただけで、その患者のことを「診断」できるなんておこがましいにもほどがある。

だから、「病理検査」を検査センターに外注した場合、そこから帰ってくるレポートをみて診断を決めるのは、実は臨床医の仕事だ。検査センターの病理レポートはあくまで「参考意見」。血液データなどと同じように、すべては臨床医が考えるためのデータにすぎない。




では、「病理診断」とは何か。検査ではない診断というのは何なのか。

「診断」は、病理診断医が常勤で勤めている大きめの病院にのみ存在する。

臨床医が患者から採ってきた臓器の一部もしくは全部を、外部の検査センターではなく、「同じ病院に勤める病理診断医」(平成30年時点の原則)が、臨床の医療者たちと会話をしながら、臨床情報を十分に把握した上で、

 病理専門医として診断名に責任を負う

ことを病理診断という。




勘違いして欲しくないのは、検査センターで行われている「病理検査」が悪、病院で行われている「病理診断」が正義、というくくりをしたいのではないということ。

病理専門医の実数が少ない以上、臨床現場をうまく回していくためには、どうしたって検査センターが必要となる。

病理に関する情報収集を、検査というかたちで外注し、それをもとに臨床医が考えて診断を決めるという流れは決して間違ったものではない。




しかし、病理検査と病理診断、どちらのほうが「診断学」に対して複数の視点を提供できるか……。これはあきらかに「診断」のほうである。

 1.臨床情報をもった臨床医が、細胞のことをあまりわからないままに病理レポートだけを参照して「総合診断」をするシステム

と、

 2.病理診断医が細胞情報に臨床情報を加味して「病理診断」をするシステム

の、どちらが多角的な診断システムであるかはいうまでもない。






冒頭、ぼくは、

 ”「医療保険という窓を通して医療の実態をみる」というやつを、病理の世界で調べた人がいる。その結果をみてぼくは、少しうなっていた。”

と書いた。この話の続きをしよう。


厚生労働省のNational Data Baseによると、 平成27年4月から平成28年4月の1年間に、病理組織標本作製が行われた8,013,874回のうち、検査センターに標本が提出された割合は46.7~54.4%(病理と臨床 2018 Vol.36 No.7, 黒田一先生のリレー連載原稿より)。

つまり……。

全国で行われている「病理」の、約半分は、検査センターによって行われる「病理検査」であり、常勤の病理診断医によって行われる「病理診断」は残り半分しかなかった、ということ。



ぼくが日頃から、「病理診断というものは臨床情報を存分に加味して行うのがいい」とか、「臨床医ときっちりコミュニケーションをとることがだいじ」とか言っていた、「病理診断」なんてものは、病理検体総数の半分にしか行われていなかった、ということなのである。




繰り返すが、「病理検査」は別に悪ではない。

病理検査にも醍醐味はある。もちろん社会的意義も大きい。

しかし、ぼくがときおり若い人たちに「病理専門医はおもしろい仕事だよ」というときのニュアンスはもっぱら「病理診断」のほうだ。

それなのに病院が用いている病理の半分は診断ではなく検査なのだという……。



病理のことを知らない臨床医が「病理なんて何がおもしろいの?」と言ってくるのを、単に無知のせいだろうと片付けていたぼくは甘かったのだ。

「臨床医がつまらなそうに眺めている病理」が半分も存在するのだということを、ぼくは知らないでいた。せいぜい2割くらいだろうとたかをくくっていた。



そして、なんというか、メラメラと、燃え上がるものを感じた。

そうかそうか。国を変え、医療を変えるというのは、こういうことなのか、と。