2016年10月21日金曜日

病理の話(10)

解剖を、若い人に見せることがある。

解剖は、今や、ほとんど必要のない技術だと言われることすらある。古い。

解剖でわかることは、患者の死の直前まで頭をひねった医療者が本当に知りたいことの、ごく一部でしかない。

その程度のことなのに、解剖が、ときに病理医のアイデンティティの一つとして語られることがある。

ぼくは、そういうのは、あまり好きではない。

ぼくは、解剖が嫌いだ。

解剖は、とても残酷だ。

そこに横たわる、ついさっきまで心臓が動いていた方に、メスを入れる瞬間、きつくて、うんざりする。ただ目を閉じている人に刃物を入れるのと、感触的に区別がつかない。心がねじきれそうになる。

そして、いざ、おなかの中を探り出すと、目の前から、「人間のもつ表情」や「けれん味」、「死への畏怖」といったものが、すっかり消失してしまう。

不思議なのだ。すべてを超えて、好奇心が勝ってしまうのだ。

かつて、学校に人体模型があった。筋肉とか骨の有り様を雄弁に、ときにグロテスクに語ってくれる人体模型のイメージが、多くの人が想像する解剖というものだ。

あるいは、ゾンビ、スプラッタ映画……血まみれに描かれる、しかし決して現実的ではない、せいぜい小腸をはみでさせた程度で人を驚かせようとする、安いびっくり箱。不思議なことに、医学生であっても、はじめて解剖を見る前には、ああいう「気持ち悪さ」を想像してしまう。

しかし、解剖で見るのは、まず普段は目にすることのない、精巧すぎる臓器、計算され尽くした配置。まず間違いなく「はじめてみる光景」に、たいていの人は気持ち悪さよりも驚きが先にやってくる。創造物への知的好奇心に全身が支配され、先ほどまで心に満ちていた
「医学で死を語ろうとすることへの申し訳なさ」や、「人の体に傷を付けることへのおびえ」などを、きれいさっぱり忘れてしまう。

解剖は、情報を、濁流のようにぼくに流し込んできて、良心を全て洗い流し、精神を学術探求心で満たしてしまう。

ぼくは、そういうのが嫌なのだ。

ぼくを学術マシーンにしてしまう、解剖という儀式は、最悪だ。

解剖は大嫌いである。



あ、あと。

解剖を見学するならば、部屋の隅っこから見ていてはだめだ。

遠目に見ると、人体に刃物をたてているように見える。不気味そのもので、めまいがしたり気持ち悪くなったりしてしまう。

見るならば、絶対、一番近くがいい。

科学的な目で、至極ドライに、生命の奇跡に触れることができる。あたかも、テレビを分解して喜ぶ男の子のように。目を輝かせることができる。

人の体に、そんな好奇心を向けてしまうなんて……という罪悪感も、博物館のガイド音声を聞くような気分でぼくの話を聞いているうちに、だんだん生命への尊敬の気持ちに上書きされていくことだろう。

解剖室を出る頃には、医学に侵略された自分に驚くことだろう。死者が生者に施す、最高の講義に、感謝すら湧き上がるだろう。

死者と、家族、担当医、担当スタッフ、みんなの無念に焼かれるのは、ぼくたち解剖執刀医だけでいい。

ぼくは、解剖が大嫌いだ。そして、たいていの医療者は、「また解剖を見学してみたい」という。