2016年10月18日火曜日

読書は思い詰め将棋

自分では絶対に買わなかったであろう、哲学者の書いた本を読んでいる。まだ読み途中だ。

もらいものである。

ときどき、本をもらう。たいてい、本をくれるのは出版関係の人だ。

出版関係の人は、ぼくなんかよりずっと、本を読んでいるから、勧めてくれる本は、やっぱりおもしろい。そして、おもしろいだけじゃなくて、今のぼくが読むべき本をきちんと選んでくれている。

そういう、「今だからこそ読んでください」みたいなことが、よくわかるなあ、と思う。

あるタイミングで読むとハマる本、というのがあるように思う。それより早く読むと、必要となる知識が足りないとか、経験したことがない感情を使わないと読めないとか、とにかくいろんな理由で、本が頭にうまく入ってこない。それより遅く読むと、もうこの内容はどこかで経験したなとか、この内容はもう心の中で摩耗してしまったななどと思ってしまい、やっぱり本をうまく消化できない。そして、適切なタイミングで読むと、書き手の選んだコトバが、なにか新しい気づきをぼくにもたらしてくれる。

本を読む順番とかタイミングというものは、人生における「詰将棋」のようなものだと思っている。どんな本をいつ読もうと自由である。選択肢はほぼ無限にある。しかし、ある流れの中で、ある意図をもって本を読んでいくと、そこにはしばしば、劇的な「一手」が存在し、強烈なカタルシスをもたらす。ただし、その流れとか意図というものは、手順1個とか3個で作れるものではなく、15手、21手、33手、とにかく何手も重ねていった上でふっと浮かび上がるような類のもので、そうとうな目利きでなければコントロールすることはできない。プロ棋士でもなくプロ読者でもないぼくは、粗製乱造ならぬ粗製乱読によって、偶然降りてくる一手に期待するしかない。


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ぼくにとって、須賀敦子という人は、ツイッターで教えてもらった大切な作家のひとりである。元々は翻訳家だ。60歳を超えてから、エッセイを中心に著作を残した。須賀敦子さんの親戚という方が、たまたまぼくのフォロワーにいたのが、読み始めたきっかけ。

見事にはまった。「なんていろいろなものを生み出してくれる言葉を書く人なんだろう」と感激した。

その後。「哲学者が書いた本」を読んでいたら、冒頭に須賀敦子の話が出てきた。哲学のことはよくわからないけれど、須賀敦子のことなら少しはわかる。いいタイミングだなあ。そう思って、読み始めることができた。

すると、この本も、やっぱりうまくハマった。

言葉というのは、何かを生み出すというよりも、「すでにそこにあったものを我々に気づかせてくれる」ものなのかもしれない。すでに読んでいたはずの須賀敦子が、ある哲学者が書いた本によって、あらたな意味をもってぼくに迫ってきた。この読書体験は、極上だった。



「須賀敦子のことを教えてもらう」→「ある哲学者の書いた本を読む」という順番は、逆であってはいけなかった。須賀敦子のことを知らずに哲学者の本を読んでも、たぶんぼくの心には響くことがなかった。また、須賀敦子を読んで10年も20年も経ってから哲学者の本を読んでも、やはり実感としてぼくの頭に本が残ることはなかったように思う。

すべてがうまくハマっていた。



それをうまいことハメ込んでくれたのは、とある編集者であったということになる。ぼくは、そういう「仕事」を尊敬するし、どうやったら「人に適切なタイミングで本を紹介する」などという離れ業をなすことができるのだろうか、と、むしろ軽く不機嫌になる。


だいたい君はいつだって、書けとは言わず、読ませようとする。それはいったい何手先を読んでのことなのか。

あるいは君も、動かせそうな駒を、ぼくの動きに合わせて動かしているだけなのか。