大学院を出て、病理診断医にでもなろうと思ったぼくは、札幌の市中病院に就職した。そこには、とても温厚な「ボス」がいた。
ボスは、ぼくといっしょに毎日昼ご飯を食べる。患者を直接みない病理診断科の人間は、昼飯の時間を自由に設定できるから、食堂が混雑する時間より前に、ささっとめしにする。
それはかつて、「11時32分」だった。おそらくボスの時計では「11時30分」なのだろう。いつもきまって32分になると、ボスが席を立ち、ぼくに声をかける。
「ひるめし、行きますか」
ぼくはそれにはいと答えて、地下にある食堂まで一緒に歩く。
ボスは、とにかく食べるのが早い。カウンターから、先にボスの食事が出ようものなら、ぼくの飯が来る前に食べ終わってしまうこともある。メニューをそろえて、同時に受け取って、いっせーので一気にかきこまないと追いつけない。昔、うちの病院は、今の何倍も検体が多かったらしく、昼飯を食う時間はおろか晩飯を食う時間もなかったと聞くが、そのときの名残なのだろうか。あまりの食事の早さに、ボスの胃には歯がついているのだろうなと半ば本気で信じていた。
時間を巻き戻す。ぼくがこの病院に就職を決める前、大学院時代。バイトで週1回、この病院にやってきて、「切り出し」という作業を担当していた。
切り出しについて、多くを説明するのはまたの機会にゆずるが、この仕事、普通は1日に2時間も従事すれば長い方であろう。平均してそれくらいの業務、それくらいの負担だと思っていればいい。
ところがこの病院では、ぼくが1時から切り出しをはじめると、たっぷりと4時半までかかった。3時間半である。しかも、これとは別に午前中に「切り出しの下見」と呼ばれる作業を1時間半やっている。合計5時間。あまりに検体が多い。切っても切っても終わらない。なるほど、これはバイトを頼みたくなるのも当然だ。
ボスは、切り出しの下見をぼくといっしょに済ませたあと、切り出しの本番が始まる前に、ぼくを食事に誘う。食事をさっさとすませると、ぼくにこう言う。
「さあ、休憩休憩。午後はがっちり切り出ししてもらうから、休んでおきなさい」
ぼくはそれに従って、医局でコーヒーを飲む。ボスは一足先にデスクに戻り、仕事を続けているようだった。
バイトは朝の9時から夕方の5時まで。5時になったらぼくは大学院に戻って研究の続きをする。8時間のうち、1時間半を昼飯と休憩に、5時間を切り出しに使うと、残りは1時間半しかない。
この1時間半を使って、手術検体の標本を1件みせてもらっていた。たった1件である。胃癌とか、大腸癌の手術検体。プレパラートを見て、癌がどこにあるかを確認し、臓器の肉眼写真にプロット(マッピング、という)して、診断を書く。……書くとは言っても、当時、ぼくはまだ病理専門医ではないし、下書きしたものをボスに見せるだけ、赤ペン先生の指導を受けるだけの「仕事」であった。
このころのぼくは、胃癌や大腸癌のプレパラートであれば1件につき平均20分くらいで見終わっていた。1時間半もあるなら、時間はたっぷり余ってしまう。なるほど、あまりバイトにひっかきまわされたくないんだろうな。勝手にそう納得して、じっくり、ゆっくりと標本を見て、教科書をたぐったり、取り扱い規約をひっくり返したりしていた。
バイトをはじめて1年ほど経ったある日。午前中、切り出しの下見が始まる前に、ある「癌」の標本を1件だけ見た。ボスにそれを渡して、ぼくが切り出しをしている最中に、チェックしてもらう。切り出しを終えたら夕方4時半である。大学院に戻るまであと30分。のんびり本でも読んでよう。そう思ったら、ボスに呼ばれた。
「ちょっといいかな」
午前中にぼくが見た標本を出してきた。リンパ節と呼ばれる部分のプレパラートを、集合顕微鏡(複数人で同時にみられる顕微鏡)で、一緒に見ようと誘われた。
「ここに、癌細胞がある。見逃しているよ」
ぼくは、午前中の診断時に、「癌のリンパ節転移」を見逃していたらしい。なんてこった。いけねぇ。ちゃんと見たはずなのにな……。どこを見ていなかったんだろう。
ボスと同じ視野を見る。
見つからない。癌が、見つからない。
瞬間的にぼうぜんとした。
「ここだね」
ボスが顕微鏡の拡大を上げていく。対物4倍レンズから、10倍。20倍。そして、40倍。
そこには、小さな低分化腺癌の細胞が、1個だけあった。
1個である。大きさにして、10マイクロメートル程度。対物レンズ40倍、接眼レンズ10倍、かけあわせて400倍の拡大にして、かろうじてわかる程度。それも、周囲のリンパ球やマクロファージにうずもれており、すぐには癌かどうかがわからない。
えっ……これ……だけ……。
「この癌は、まれにこういう転移の仕方をするね。でも、ま、これを見逃すようだと、病理医がいる意味はないわなあ。グフフ」
見ていなかったんじゃない。プレパラートのこの場所は、確かにサーチしたはずだ。
見えなかった。
目に入っていたけど、「小さすぎて」、見えていなかったんだ。
これを、ぼくは、今まで、20分でこなしていた、つもりになっていた。
あれから、13年経つ。
今のぼくは、切り出しを2時間程度で終わらせられるようになった。ちなみに、胃癌や大腸癌の診断には、1件平均20分かかる。
癌細胞1個を見逃したあの日から、標本をみるスピードは激烈に遅くなった。何か見逃しがあるかもしれない、思いもよらない所見が隠れているかもしれない。それまで15分、20分で見ていた標本は、1時間半かけても見終わらなくなった。13年かけて、ようやく、1件平均20分まで戻ってきた。今でも、何かおかしいと思った症例については、もう本当に何日もかけるようにしている。
ボスは一度定年退職をしたが、嘱託職員となって、今もほぼ毎日通勤して、ぼくらの標本をチェックしてくれている。昼飯も相変わらず毎日一緒だ。A定食とB定食、どちらも好みの場合にはたいていB定食を選ぶ。麺類があるとほぼ必ず麺類を選ぶ。鶏肉が嫌いなので、A定食に鳥が使われていればB定食を選ぶ。ラーメンのチャーシューはぼくのどんぶりに移す。
ボスに聞いてみたことがある。
「当時、なぜぼくを、あんなにのんびりとバイトさせてたんですか」
「さあねえ、なんでだろうねえ、グフフ」
彼はとにかく答えを急がない。飯を食うのは相変わらず早い。そして、最近彼が昼飯に行こうと声をかけるのは、「11時36分」になった。
そろそろ時計を直した方がいいのではないかと思う。