2017年7月31日月曜日

病理の話(105)

「1つのものが10個に増える時間と、10個のものが100個に増える時間は、同じであると考える」。

……なんて話を、たとえば和菓子職人の前ですると「そんなわけねぇだろう」と怒られるだろう。

だって、前者は「9個増えた」、後者は「90個増えた」である。増えた量が10倍違う。労力だって10倍、時間だって10倍かかるに決まっているではないか。

けれど、今の話を、細胞生物学職人(?)の前ですると、「ああそうだよね」となる。

細胞は倍々ゲームで増える。足し算では無くかけ算で増える。

だから、1が10になるとはすなわち「10倍になった」、10が100になるのも「10倍になった」。どちらも同じだ。

細胞1個が10個に増える時間と、細胞10個が100個に増える時間は変わらない(至適栄養が保たれているなどの条件があるが)。



このことは、病気を考える上で、とても大切なのである。

細胞1個を見極めるというのは顕微鏡を使わないととても無理だ。

10個も厳しい。

100個でもきつい。肉眼では細胞100個くらいだとまるでカスでありゴミである。

けれど、細胞が1000個もあると、おぼろげに肉眼で小さく見え始める。

細胞が10000個もあれば普通の人なら小さく視認できるだろう。

100000個となると、立派な「かたちあるカタマリ」として、人の目で認識できそうである。

細胞が「正常の細胞」だと、こんなに再現なく倍々ゲームでは増えない。

正常の細胞というのは、増える量がきちんとコントロールされているのだ。

もし、細胞の増えるスピードがきちんとコントロールされていないと? 右手の人差し指だけ妙に長くなってしまい耳くそがめちゃくちゃいっぱいとれる、とか、まぶたが目を覆うくらい大きくなってしまい日中よく寝られる、みたいな、ちょっと不都合なことがいっぱい起こってしまうだろう。

しかし、「がん細胞」は違う。

がんというのは、空気を読まないのだ。栄養がある限り、倍々ゲームで増えようとする。



倍々ゲームだから、たった1個のがん細胞が10倍になるのにかかる時間と、1000個のがん細胞が10000個になるのにかかる時間が、理論上、同じになる。

すると、昨日までカタマリが何も見えなかったところに、今日とつぜんカタマリが出現するということが、実際にありえる……。



実際には体の中にはがん細胞に対する抵抗勢力(免疫)があり、ことはそう単純には進まないにしろ。

去年検査で何も見つからなかったのに、今年突然カタマリが出てくる、ということは、往々にして経験される。



以上の話は、「がん細胞を早期に発見する」ことを考える上で、キーとなる考え方である。

「増殖異常」という言葉の重みを知ると、人間の体のすさまじさと、その統率をかいくぐるがんの巧妙な生存戦略の一端が、腑に落ちる。




腑に落ちるという言葉を、病理の話で用いるのは、ハマった感がすごくて、なんか、アリだと思う。

2017年7月28日金曜日

そうかんたんにわかるんですか

パソコンのキーボードが削れている。

特に、「K」と「M」と「N」と「A」のあたりの劣化がすごい。「O」もなかなかだ。

「S」に至っては完全に穴が空いてしまったので、「|」(画面右上にある縦棒)と入れ替えて使っている。




この記事を作る前、ほかに記事を3本書いた。3本目に至っては、

「この記事を作る前、2本記事を書いたが、消してしまった。あなたがこの記事を見ているということは、3本目の記事が消されずに残ったということである。」

なんていう書き出しでスタートしていたのだが、結局消してしまった。

今日は、アウトプットが荒く、自分のために、自分のためにと書いては消し、書いては消してしまっている。




キーボードを見ながら、ときおり、

「キーが削れるくらい発信してきたんだなあ」

と少し天狗になることもあった。

けれど、よく考えたらぼくは、書いた物をすぐ消してしまう。ブログの記事に至っては、公開する前に、2回に1回くらいのペースで全部消して書き直している。

キーが削れたほどには発信していなかった。

失ったもので得たものを量ることは出来ない。




アウトプットの量を多くすればクオリティが上がるだろうと内心思っていた。けれど、雑なアウトプットは全体の精度を上げてくれない。手癖で書く文章、反射で引っ張り出す構文、脳の大半を休ませたまま、惰性で産み出される劣化コピーのようなものばかりがころころと脳の隅に転がっている。

そういうときはインプットだよ。

アウトプットがうまくいかないときはインプットがいいんだ。

そうだそうだ、手を大きく振ってKindleに籠もり、インプットを繰り返す。

インプットの量を多くすれば何かのクオリティが上がるだろうか?

あるいは、やはり、何か別のキーが摩耗するのだろうか?



いろいろ摩耗するなら、たまにはアウトプットもインプットもしないことを選ぶ。

ただ、脳がパソコンと違う点がひとつあって、それは、「アウトプットもインプットもしていない時間に、膨大なメモリを食いながら、内部で思考が循環する」ことだ。

アウトプットもインプットもしていなくても、脳の場合は、どこかでキーが削れているということである。

興味深いことに、失ったもので失ったものを量ると、相関に気づくこともある。

相関と因果はまた別の話であるが。

2017年7月27日木曜日

病理の話(104)

生命の定義についていろいろとおもしろいことを言う人というのがいる。いまだに頭に染みついて忘れられない定義は、(かなりテクニカルであるが)以下のようなものである。

「生命とは、局所的なエントロピーの減少を持続させている状態である」

これだと、日本の字で書いてあるけれども日本語とは思えないので、言い換える。

「自然界はそのまま放っておくと必ず乱雑になり、偏りがほぐれる。しかし、生命があるとそこだけは、秩序が保たれ、偏りが保たれる」

わかったようでわからない定義なので、さらにもう少し掘り進む。




「砂漠にごま塩」という表現がある。砂の上にごま塩を振ると、振った直後は、ああ、ここにごま塩が振られたんだなと見てわかる。淡い茶色の砂粒まみれの地面に、白と黒のごま塩が、「偏って」いるので、そこだけが特別なのだなあと気づくことができる。

しかし、5分、1時間、1日と時間が経つに連れて、風やら雨やらのせいで、ごま塩は少しずつ周りの砂と混じる。仮に、砂に指で丸を書いて、その中にごま塩を振っていたとしても、数日も経てばごま塩は丸を越えて周りに拡散してしまい、いずれはごま一粒、塩一粒が砂とまぎれて、もはやごま塩とは呼べない、ただの汚い砂地になる。

ごまや塩がそれぞれ消滅したわけではないのだが、ある程度のボリューム、ある程度の秩序で、ある程度の範囲に「偏って」置かれていなければ、それはもうごま塩とは呼べないのだ。

このように、「自然界では、時間が経つと乱雑さが必ず増していく」。これを、「エントロピーが増す(上昇する)」と呼ぶ。

エントロピーは増える。しかし、基本、減りはしない。

砂漠でごま塩がふたたび集合することがないように。

汚い部屋が、ある日突然自動的に整頓されることがないように。




しかし……。

たとえば砂の上に描いた丸が細胞膜だったら。

その細胞膜の中にごま塩……の代わりに、ナトリウムとかカリウム、カルシウムといったイオンを振り、あるいは酸素を振り、とやるとどうなるか。

細胞膜が、あるいは膜に囲まれた「細胞」が生きている限り、膜の中の「偏り」は保たれる。

不必要な塩を外に出したり、足りなかったごまを膜の外から中に取り込んだりしながら、細胞が一番よい環境になるように、「偏り」を保ち続ける。

必ずしも最初振ったごま塩……最初に投入したイオンや酸素ほかの栄養の割合を保つわけではないのだが、細胞にとって一番都合がよい「偏り」が保持される。

これを、「エントロピーが上昇しないまま、低く保たれる」と呼ぶ。砂漠のある一箇所に、毎日ごま塩がそうとわかる状態で集まっている。部屋がいつまでもきれいなままである。

これはすごいことなのだ。生命とはすごいことをしている。




生命がすごくあるために重要なのは、細胞膜だ。

細胞膜がどれだけきちんと機能しているかによって、細胞の中の「偏り」がきちんと保持されるかどうかが決まる。





病理医が細胞を見るとき、しばしば、「細胞膜」に注目する。細胞膜は脂質二重膜と呼ばれる特殊な構造をしており、様々なタンパク質や糖鎖が刺さりこんでいる。

細胞膜とは単なる境界線(面)ではない。おそらくは細胞の持つ構造の中でもトップレベルに複雑である。脂肪とタンパク質と糖が全て関与するというのはまさに「オールスター」状態。

脂肪、タンパク質、糖のうち、病理医がもっとも観察しやすいのはタンパク質だ。免疫染色という技術を使うことで、ある一種類のタンパク質だけをハイライトして、その存在や分布をチェックすることができる。病理医は、細胞膜を調べるときに、主にタンパク質を調べる。

細胞になんらかの異常があるとき、膜にも何かが起きている。

通常の細胞であれば、Aというタンパク質とBというタンパク質とCというタンパク質が刺さりこんでいるはずで……しかし、病気の細胞には、Dという特殊なタンパク質が刺さっていて……という具合だ。

「Dというタンパク質をハイライトする免疫染色を使って診断する」というのは、すなわち、「生命が正しく偏るために必要な細胞膜が、何かおかしいことになっていないかどうかチェックする」ということにつながる。

※細胞膜の働きは「偏りの調節」だけではない。特に多細胞生物であれば、「細胞同士のコミュニケーション」とか「細胞の居場所を決定する」とか「細胞の機能を調節する」など様々である。ただ、その話はまた別の機会に譲る。




砂漠に固まっているごま塩が、なぜかクレイジーソルトになっていた。何が起こっているんだ。どういうことなんだ。クレイジーソルトに含まれているハーブやスパイスを観察するのはとても大切であるが、同時に、砂漠に指で書いた丸をチェックしよう。お前、何やったんだよ。CD20というタンパク質が膜に異常に刺さりこんでいる。このやろう、悪性B細胞性リンパ腫じゃねぇか。

これが診断。

CD20が異常に刺さっている細胞というのは普通ありえない。だから、「膜に刺さりこんだCD20を認識して攻撃する薬を使おう」。

こんな治療もある(実際にあります)。




「ああ、治療の役に立つの? それなら役に立つねえ」

こんなことを言われることもある。役に立つと思って頂ければ何よりである。ただ、ぼくは、砂漠の砂に何かが起きてるぞ、なんなんだ、どうしてなんだ、それが役に立つかどうかはともかく、なぜこんなことが起こるんだ、そこんところにも興味があるので、まあ、役に立つとは言えない場面でも、細胞膜についてはなるべくチェックしておこうと思っているのである。

2017年7月26日水曜日

リングを購入

「わかったふりをしない」というのは結構いろんなことのキーポイントになっているように思う。

わかったふりをしないことで何がよいかというと、話している相手に嫌われなくて済むということだ。

嫌われないままの関係でいれば、ちょっとずつ「普通、やや好き」くらいのポジションに置いてもらえる。

「普通、やや好き」くらいの人は、こちらの意図をけっこう汲んでくれる。

会話のときに、ぼくの言葉が足りなくても、ぼくの考えが浅くても、助け船を出してくれたり、こちらの表現が整うまで待ってくれたりする。

これはとてもありがたい。うれしい。

ありがたくうれしい状態を招くために、なんだかんだでとても大事なのが、「わかったふりをしない」ことなのではないかと思っている。





そういえばぼくは、誰かが何かを「わかっている」から、「好き」だと思ったことが、たぶん、あまりない。

わかっているんだと言われても、そうなんだ、すごいね、で終わる。

感情がより動くのは、適切なタイミングで「わからない」と言える人の方だ。

「話し相手に向かって、自分がわからない状態であることを告白できる性格」というのが、いい。

まあ好き嫌いの話だから、実務的な関係の相手には、どうでもいい話かもしれない。

でも、仕事のつきあいであっても、「普通・やや好き」くらいだと、いろいろありがたくうれしくなるものだ。




「それはこうだよ」と口を挟むこと。

「きっとこうなんじゃないかな」と解釈をすること。

「それは違う」と否定をすること。

これらが機能するのは、少なくともお互いがお互いのことを、嫌いではない、普通・やや好き、くらいに思えるようになってからではないか。

まずは、「わからない」を言える相手であるかどうかをチェックする。

わかったふりをしないと会話が続かないような関係になっていないかどうかを確かめる。




書いていて思ったのだが、「わかったふりをしないと会話が続かないような関係」の人を先に好きになってしまうときがあるなあ、と思った。人間の脳というのは、元来、世界のままならなさに悩むようにあらかじめ作られているのかもしれない。ほんとうのところはわからない。わかったふりをして記事にする。

2017年7月25日火曜日

病理の話(103)

顕微鏡でミクロの世界を覗いて、細胞まで見ればなんでもわかるかというと、そんなことはもちろんないのだ。

まず、ダイナミズムがわからない。体の中では生きてうごめいていた細胞も、つまんで採ってきて、ホルマリンやアルコールに浸すことで、その活動を停止してしまう。すると、「うごめき」だけはどうやっても観察することができない。

細胞内外を、水やナトリウム、カリウム、カルシウムなどが行き来する。細胞の周りを、血管が取り巻いて、酸素や栄養を運んでくる。これらは体の中で脈々と動いて、ぼくらの体を維持してくれている生命活動そのものだけれど、ホルマリンで時間停止したプレパラート上ではなかなか観察することができない。

プレパラート観察とは、とてもよく保存された廃墟を観察しているかのようだ。

廃墟にはテーブルや椅子、キッチン、お手洗いなどがあり、食器も、水道管も、トイレットペーパーもそのまま残されているから、中で人々がどのように活動していたのかを類推することはできる。

けれど、動いていた人そのものに話し掛けることはできない。

細胞を見るというのはつまりそういうことだ。ダイナミズムだけは類推しかできない。

だから、循環器内科(心臓とか血液の流れを見る科)と病理との相性は悪い。そもそも循環器系の臨床科はほとんど病理診断を用いない。内分泌・代謝内科なども同様である。

「廃墟を見ることが役に立つ科」だけが、病理診断科をうまく利用することができる。




先ほど、プレパラートに現れる組織構造を「とてもよく保存された廃墟」と書いたが、これも実は、語弊がある。

プレパラート上に見ることができる細胞の「配列」は、確かに生体内にあったときそのままなのだが、実は「間隔」が微妙に異なっている。「サイズ感」と言ってもいい。

「ホルマリン固定」という作業の際に、細胞内外の水分が失われる、すなわち脱水効果があるためだ。水を失うことで、細胞は最大で1割ほど小さくなるし、細胞と細胞との距離はもっと大きく変わることもある。

もとは8畳だった部屋が6畳半くらいに縮む。廃墟から元の構造を想像する際に、頭の中で少し間隔を開いてやらないと、うまく対応しないことがあるのだ。

……大した問題ではない、細胞の並び自体は保たれているから、病理診断には支障を来さない……。

けれども、生体内にその細胞があったときに関わっていた、多くの臨床医からすると、プレパラートを見た時に、「あれ、こんなボリュームだったっけ?」と、違和感を覚える。

病理医にとっては大して困らないけれど、画像を大事にする臨床医療者にとって大きな問題。「廃墟がちょっと縮んでいた問題」。

このことをそもそも知らない病理医もいる。自分たちがさほど困らないので、問題意識として共有できていない。しょうがない。




あと。




病理医は、細胞そのものの変化に敏感なので、そこにがん細胞があるかどうかを常に気にするし、がん細胞がどのような性質をしているかについても繊細だ。

一方、臨床医療者が診ているものは、ミクロではなくマクロである。「がんそのもの」ではなく、「がんが引き起こす現象もろもろ」を見ている。

だから、しばしば、臨床の医療者がほんとうに知りたい情報と、病理医がミクロで観察する細胞の所見とは、うまく対応していないことがある。


「なぜ造影CTの染まりがいつもと比べて少し早いんだと思います?」

「それはあれですよ、がん細胞が特殊だからですよ」


このやりとりは、うまく噛み合っていない。お互いに専門用語を用いているから、はたからみている非専門家にはちんぷんかんぷんだろうが、実は当の臨床医も病理医も、相手が言っていることを正確に理解できていない。



ダイナミズム。サイズ感。ニュアンス。

ミクロの限界とはこのへんにある。

これを知ってから病理診断を勉強し直すと、あれもこれも、不十分だ、不親切だ、不明瞭だとつっこみたくなる。

さんざんつっこんでから、昔から病理診断をしている先輩のレポートを読んでみると、なんのことはない、ぼくが今まで「これは書かなくていい情報だなあ」と思って無視していた、しかし先輩は必ず書いているという所見の中に、臨床の人間が本当に知りたいことが書いてあったりする。

知性で勝負する場であっても経験がものを言うことが、あるんだなあ、と頭を下げる。

2017年7月24日月曜日

原宿いやほん

もう6年くらい使っているイヤホンがある。高い。5000円くらいする。ツイッターをはじめたばかりのころ、「音が違うのだ」とおすすめされて購入した。

あのときはどうかしていたのだ。イヤホンだぞ。ヘタすると100均でも売っている。

職場ではずっと音楽を聴いているのだが、周囲の病理医や技師、臨床医などがいつ話し掛けてくるかわからないから、イヤホンは耳に「軽く腰掛けている程度」にしか挿していない。音量もかなり絞っている。電話や迅速診断のコールを聞き逃すわけにもいかない。

つまりは、5000円の意味なんて、なかったと思う。ほとんど無駄だった。



けれど、ぼくは、この6年間、毎朝、イヤホンを耳に挿す度に、「これはいいイヤホンだからなーあ」と、ものすごく小さく悦に入っていた。

いいものを買って働いているんだというよろこびを、毎日少しずつ、値段を思い出すことで、得ていた。

たぶん、この5000円を使わずに大切にとっておいて、ほかのいかなる5000円のものを買ったとしても、ここまで長時間に亘って、スイカに塩をかける程度の、カレーにスライスチーズを入れる程度の、ささやかな幸せを「毎日得続ける」ことはできなかったと思う。

このイヤホン、とてもいい買い物だったと思っている。



ぼくは元々、5000円をきっちりけちっていく男だ。

スーツの半額セールで、25000円の安売りスーツと20000円の安売りスーツが並んでいたら、絶対に25000円の方は買わない。

25000円のスーツは、元値50000円。

20000円のスーツは、元値40000円

このどちらを選ぶかについて、人々にはいくつかの考え方がある。

25000円のスーツのほうが、「安くなった値段がでかい、すなわちお得である」という考え方。

20000円のスーツのほうが、純粋に安いという考え方。

25000円と20000円の違いは無視して、純粋にスーツのデザインで勝負すべきという考え方。

ぼくは、「並んでいる中で一番安いものを買う」という基本姿勢である。

そのためか、今まで、数々の失敗をしてきた。買ったものが、基本ださい。

けれど、スーツがださくても、仕事がきちんとできていればかっこよく見えるからいいのだと、よくわからない言い訳でここまでやってきた。




そのぼくが、6年前に5000円のイヤホンを買ったことに、純粋に驚いているし、そして喜んでいる。

いいものを買ったなあ!




仕事が落ち着いた夜、そういえばこのイヤホンの「本気」ってどうなんだろうと、気になった。

人はいない。電話もかかってこない。

イヤホンを耳に深く挿す。

LOSTAGE「In Dreams」にしよう。スリーピースなのに音が厚い。リフが泣ける。置いたベースが響く。ドラムが沁みる。

20分。30分。名曲を聴き続ける。

……いい曲たちだ。




帰るころには、イヤホンを試していたのだということを完全に忘れていた。「イヤホンによる良さ、違い」は全くわからなかった。ただ名曲を聴いたというだけである。

5000円返してくれ。俺は100円のでよかった。

2017年7月21日金曜日

病理の話(102)

体の表面、すなわち皮膚には、扁平上皮という細胞がある。その名の通り平べったい。顕微鏡で上から見ると、まるでジグソーパズルのようにぴっちりと敷き詰められている。しかも、このジグソーパズルは1層ではなく、何層にも折り重なっている。地層みたいになっている。

扁平上皮細胞は、地層の最下層付近(厳密には最下層の一段上くらい)で細胞分裂を起こして、増える。細胞を作る工場が下の方にある。少しずつ形が平べったく変化しながら、上の層に上がっていく。最後にはジグソーパズルとなり……。

実は、ジグソーパズルでは終わらない。その後、細胞は「脱核」といって、最も大切な核が無くなり、抜け殻(燃え殻でもよい)になる。ぼろぼろになり、少し剥がれやすくなるのだが、それでもまだ、皮膚の最表層にひっついている。

これが角質と呼ばれる成分だ。軽石でこするととれる。

角質は、すでに、生きた細胞とは呼べない。それでも体の一部なのである。これが実はめちゃくちゃに重要だ。



皮膚扁平上皮細胞は、外界からの敵をはねかえす「バリバリの実のバリア細胞」である。何もかもはじきかえす。おふろに入ったときに、水を吸って太る人というのはいないように、ジグソーパズルはスキマのない完全な接着で、水すらほとんど通さない。

ただ、それにも限界があるのだ。いくら完璧なジグソーパズルと言っても、所詮は細胞、キズもつくし、細かい細菌などが表面にひっついたまま長居することもある。

だから、人間は、バリアの「最後の壁」として、角質層を用意している。これが実ににくらしい働きをする。



「三國志」などで、城の外壁をよじのぼって兵が城を攻めるシーンがあるが、あの外壁がときおりガラガラッと崩れたらどうなるか。

登ってきた兵士ごとぜんぶ落っこちてしまうだろう。結果、城への兵士の侵入を守ることができる。

扁平上皮の最外層に角質層があるのは、この、「壊れやすい外壁」の役目だと考えることができる。完全なバリアのさらに外側に、もろく崩れやすい壁を用意しておくことで、しつこい外敵を定期的に剥がれ落とすことができる。



人間を含めた全ての生物は、「境界」がある。ここからここまでが人間でーす、と、境界線を引くことができる。ただし、その最も外部は、なるべくもろく、ふわふわに作っておく。そうすることで、周囲からへばりついた外敵を簡単にそぎ落とすことができ、人体への敵の侵入を防ぐことができる。

こういう現象は他の部位にも存在する。扁平上皮が存在しない、胃や腸などにおいては、角質層はないのだが、かわりに「ねばねばの粘液」をそれぞれ分泌する。粘液はさらさらしていないので、簡単には壁から剥がれないのだが、ゆっくりと移動しながら、最外層の外敵を洗い流す役割を果たす。

……ただし、消化管は、洗い流すだけではだめだ。栄養だけはうまく取り込まないといけない。何でもはがして捨てて良い皮膚扁平上皮との違いがここにある。粘液だけではなく、さらさらの漿液、胃酸、蛋白分解酵素などを、部位に応じて様々に分泌するなどして、工夫をこらす。

消化管にある細胞は「腺上皮」と呼ぶ。腺という字は、にくづきに「泉」と書く。いかにもいろいろなものを分泌しそうではある。



今回、生体が外敵と触れる部分の話を、「外側のもろいもの」に着目して書いたが、この項目はほかにも「触手」で説明を試みたことがある。上皮と呼ばれる細胞がいかに複雑に、その場その場で役割を果たしているか、というモンダイは、語りがいがあり、病理学の根幹を為している概念でもある。

2017年7月20日木曜日

おぶせのマスコットが槍装備したよ

たとえばある趣味に入れ込んでいる人というのは、その趣味が「最高に楽しい」から続けているのか、「向き不向きで言うと向いている」ことがわかっているから続けているのか、それとも、「他にやることがない」から続けているのか。

ぼくは、ひとつの趣味に専念することがなかなかできない。

これは確かに楽しいけど、ほかにも楽しいことがあるかもしれないからなあ、と考えてしまう。

釣り、キャンプ、草サッカー、ランニング……。

どれもかじってはいるのだが、どれかに本腰を入れようとは思わない。どれもこれも気が向いたらちょっとやってみようかな、くらいだ。

そして、このまま、人生が過ぎていくのだと思う。

「よーしそろそろこのへんで、何か一本軸となる趣味を決めるぞ!」となる人をいっぱい見てきた。

ぼくも、彼らと同じように、何度か、「全力を注げる趣味はないだろうか」という目でキョロキョロしながら暮らしてみたことがある。

趣味用の雑誌を立ち読みしてみたり、趣味人のブログを読んでみたりもした。

カメラとかシューズのように、実際にお金をかけてもみた。

けれど、ま、わかってはいたけれど、「一本」は決まらない。

ぼくは、たぶん、今後も決められないでいると思う。




ツイッターを見ていると、何かひとつの趣味に専念している人間の方が珍しい。ある一つの趣味だけに没頭している人というのは、珍しい。おまけに意志が強く、発信力もある。

珍しい分、目にとまる。

ちょっとあこがれてみたりもする。

そうやって、あこがれる人が、タイムラインに何人もいる。

だれかひとりではなく、多くの人にあこがれている。

一本軸となるあこがれの人はいなくて、いっぱいあこがれる相手がいる。




よく今ひとつの職業でやりくりしているなあ、と、正直思う。

2017年7月19日水曜日

病理の話(101)

がんを、「死ぬ病気だ」というひとことでまとめてしまうのは、ずいぶん乱暴だ。

がんと言っても、いろいろである。食道がんと乳がんと甲状腺がんは、まるで違う。効く薬も違うし、がんがより進行したときに現れる症状だって違う。

同じ食道がんであっても、「食道の粘膜のごく浅いところだけに留まっているがん」と、「食道の壁に深々としみこんだがん」では、その進展範囲が違う。範囲が違うとは、影響を与える箇所の多さが違うということだ。

考えてみれば当たり前なのである。

「アリ」と言っても普通の黒いアリとシロアリでは住む場所や人に迷惑をかける度合いが違う。「シロアリ20000匹」は家の柱をぶちこわしそうだが、「シロアリ12匹」ならなんとかなりそうだ。同じことである。

ぼくらは、病気をみるときに、「それが何なのか」という大まかな分類だけではなく、「もっと細かい分類」とか「どれくらい存在しているのか」などを、きちんと評価していくことになる。




病気は一言であらわせない、とても細かく評価しないといけない、という事実に気が付くと、

「胃の筋肉にまでしみこんだ胃がん」

と言っても、まだまだ十分な評価ではないんだなあ、ということに気づく。

筋肉にしみこむと言っても、その量はどれくらいなのか。

1 mmに満たない範囲で、細胞数個が、わずかにパラパラとしみこんでいるのか。

5 cm × 5 cmの幅で、無数のがん細胞が、どっぷりとしみこんでいるのか。

同じ「筋肉にしみこんだがん」と言っても、想像できるイメージはまるで異なる。




これは、「画像診断」を考えるときに大問題となる。

画像の教科書には、「胃がんが筋肉にしみこんだときに、CTや胃カメラがどのように見えるか」が書いてある。しかし、筋肉にしみこむと言っても度合いは様々だ。自然と、画像の出方、現れ方だってバリエーションが出てくる。

このことが、放射線科医、診療放射線技師、臨床検査技師などを悩ませる。



「悪性リンパ腫と一言で言っても、びまん性大細胞型リンパ腫とMALTリンパ腫では、病変の形が異なる」とか。

「GISTという病気には内部に空隙ができる場合があるが、球状だったり三日月状だったりスリット状だったりする」とか。

「膵臓NETという病気は基本的にくりっと整った球状をしているが、境界部がごつごつしている場合もなくはない」とか。



「アリ」の一言で、日本のアリと海外のアリとシロアリとモハメドアリをまとめて語ることができないのと一緒だ。

あらゆる病気にバリエーションがある。形の差が。含まれる成分の差が。放っておくとどうなるか。どのように治療したらよいか。




病理診断では、「病気が何か」だけではなく、「もっと具体的に、どのような病気であるか」までを診断する。これらはしばしば、国産のアリとヒアリを見分けるような作業であり、極めて難しいこともしばしばだ。

病理医がこの分類をきちんと行い、「どのように見分けているか」をきちんと臨床と共有することは重要である。「ぼくがヒアリと言ったらヒアリなんですよ」では困る。「足がどうで、腹がどうで、色がどうで、顔がこうだから、ヒアリなんですよ」と説明することで、画像診断に関わる人々が、それぞれの世界で抱えている「疑問」を解決できるようになる。

「そうか、だったら足と腹の違いを画像で読み分けてみようかな」と、画像屋さんたちが思ってくれると、ぼくらの仕事のやりがいも増すのである。

2017年7月18日火曜日

何がメメントモリだよバカ野郎とも思っていた

たいそうよく売れていた。浜崎あゆみ、TRF、Globe、ミスター・チルドレン、B'z、GLAY、スピッツ……。もちろん、ぼくも聞いていた。口ずさめるほどに、よく聞いていた。

けれど、これらの音楽が、「たいせつな思い出」には、なっていない。

これらの曲は、そしてアーティストたちは、どこか心根の根本が「安定」していたからだと思う。

甘く切ない青春を歌っていても、若い日のあせりを歌っていても、はかなさを歌っていても、さみしさを歌っていても、彼らは決して仏頂面ではなかった。泣き顔には見えなかった。ぼくは、子供心に、それが何かずるいなあと思っていたのだ。シングルが100万枚も売れていた頃の話である。どれだけ稼いでいるんだろうと、そっちがセットで気になった。

これだけ売れてまださみしいとか悲しいとか言えるのはよっぽど、「精神が根本的に泣きたがっているタイプの変人」であろう。すなおに、そう思っていた。

商売がうまく行こうが、泣きたい夜はあるだろうさ。そんなこと、子供のぼくだってわかってはいる。けれどぼくは、音楽番組にミスチルの桜井君が笑顔で出演して、タモリか誰かと楽しそうに会話をしたあとに、平気でマシンガンをぶっ放せとか歌っていたとき、心のどこかで

「この大嘘つき野郎!」

という気持ちになってしまったのだった。



ミスチルは今でも一通り覚えている。音楽家が嘘つきだからって、その曲が嘘ばかりだからと言って、ミュージックそのものを嫌いになるわけではない。

けれど、ぼくは、自分の人生の何かつらい部分とか、ふわふわ浮いた部分とか、もしゃもしゃとしてかきむしりたい部分とか、そういった、どこか陰を背負った青春の記憶を、「当時の音楽」とされる売れ筋の曲を聴いても、一向に思い浮かべることができない。




先日、ネットの友人に、「君はどこか、不安定感とかエモみがある音楽を好むよね」と言われた時、そういえばぼくは、人生がほとんど大失敗しているようなバンドの音楽ばかり好んで聴いていた時期があったなあ、何なら今でもそうだけれども、と思い至った。

そうか、ぼくの青春は、いわゆるインディーズに近いバンドミュージックと共にあったのか。

そう思って、iTunesの古いバンドを片っ端から聴いてみた。そうすれば、あの青春時代を少しでも思い出すことができるのではないか。




思い出されるのは、自室のCDラジカセの前に座って、ヘッドホンを両手で抱えて、目をつぶり、ずっと音楽を聴き続けていたときの、あのごわごわとしたカーペットの「尻触り」ばかりだった。何も変わらない、ぼくは音楽を何か思い出とセットにして聴くのが、元来苦手なようだった。ミスチルには悪いことをしたなあと思う。

2017年7月14日金曜日

病理の話(100)

向こうに患者がいる。

わたしの病気は何なんですかと、主治医に尋ねている。

主治医はあまり専門用語を使いすぎないように、患者に説明する。

自分の脳の中では専門用語をふんだんに脳内で踊らせ、病気の正体を探ろうと試みながら。

そして、患者が帰った後に、主治医は病理医の元に歩いてきて、尋ねる。

この人の病気は何なんですか。




病理医はあまり専門用語を使いすぎないように、主治医に説明する。

「あまりにも専門用語をぶちこんでしまうと、主治医もわかんなくなっちゃうだろうな」

病理医は、臨床医にわかる言葉で病理報告書を書く。

病理報告書を読んだ主治医は、患者に病状を説明する。説明の際には、

「こんな難しい言葉だったら患者はわからないだろうから、もう少し簡単に言い換えてあげよう」

と気を遣う。

主治医は、患者にわかる言葉で説明を試みる。



患者のために行われている医療。

その中では、言葉は何度も、言い換えられている、ということ。



あるいは、看護師だって、病院の事務だって、待合室で眺めているニュースのアナウンサーだって、そのニュースの中に登場する政治家だって、政治家に意見を具申した厚生労働省の職員だって、その職員に情報を提供した医療者だって、みんな、相手がわかりやすいように、わかりやすいようにと、言葉を言い換え続けている。

医療だけに限った話じゃない。言葉はいつでも、言い換えられ続けている。

専門用語を言い換えずに働くというのは、不親切だ。

それに、「病理の専門用語」も、細胞に起こっている形態変化を、ことばという形に近似して、表現しているだけである。

「専門用語を言い換えなければより真実に近い」かどうかは疑問である。医療とは、近似、近似の伝言ゲーム。




似た言葉を探し、より伝わりやすい言葉を選び続ける医療コミュニケーションの場において、もっとも大事なのは、つまり、「それはどういう意味ですか?」と、お互いが問いやすい環境を作ることではないか。

お互いが相手の得意に寄り添い、相手の不得意を補い合う環境を作ること。

とりあえず、ぼくもここで意志を持って仕事に参画しているんですよぉと、名札をかかげてアピールしておくこと。

いつでも話しましょう、いつでも答えますよ、いつでも聞きたいんです、いつでも教えてください、と、言いまくっておくこと。

あちこちで臨床の医療者と一緒に仕事をする。話をする。相談をする、相談に乗る。

病理のことばを、臨床の用語で言い換えるなら、どういう言葉を使うのが一番いいのか。

病理のことばが、患者の元に届くまでに、どれほど形を変えているのか。

毎日、実感する。書く。読む。

これが大事だと信じて、人とも書物とも会話を続けていく。





そんな日々を繰り返しているうち、病理医だけが使っている言葉の特殊性に、あらためて向かい合うことになる。

細胞とは。細胞質、細胞膜、核膜、核質とは。

異型性とは。異形成とは。

凝固壊死、融解壊死、乾酪壊死。

極性。軸性。

濃縮、微細顆粒状、泡沫状。

好酸性、好塩基性、両染性。

多結節状、結節集簇状、分葉結節状、粗大顆粒状。

シダの葉、サカナの骨、鹿の角。

おそらく世の人々の0.01%すら使わないであろうこれらの表現もまた、病理という狭い世界の中で、コミュニケーションするために生まれてきたフレーズだったのだろうなあ、と、思いを馳せる。



誰かに伝わるかな、伝わるといいな、伝えよう、と思って作り上げられた言葉が、輝いている。ぼくは、たとえばそういう病理ことばを抽出して、ためしに患者の前にそのまま投げてみたらどうなるだろうかと想像する。もちろん実際にはやらないけれど。


うん、案外、何かを越えて、伝わるということも、ある、かもしれないなと思う。もちろん実際にはやらないけれど。

2017年7月13日木曜日

フジファブリック一番の名曲は花屋の娘

とある大学の外科教授と話をしていたら、ぼくの知り合いの醜聞をぼくよりもよっぽど詳しく知っていて、うーむ、アンテナの広さはさすがだなあと思ったのだが、それ以前にこんなどろどろした話ばかり抱え込んで、精神は大丈夫なのだろうかと心配になった。だから、直接聞いてみた。


「先生、そんなに人のやばいネタばっかり仕入れて、自分の精神保てるんですか」


そしたら彼は笑ってこう言った。


「うん、だってすぐ忘れるもん。他人の話だし」


なるほど彼は、仕入れては売る、仕入れては売るを繰り返しているだけで、知識を「倉庫の在庫」にはしていない。彼はあくまで情報という素材を分配しているだけだ。自分がその情報を加工して、返り血で自分のエプロンを汚すようなことはしない。


なんだかなあ、と思いながら、情報をめぐる人のありようを考えていた。


この教授はえげつない。やってることは死の商人と一緒だ。武器を売るけど自分では撃たないよ、みたいなものである。けれど、彼はそういう荒事だけではなく、美談も学術もおなじように仕入れては売る。ハブとして一流であり、だから人の中心に立っているのだろう。


マスコミという仕事の中心にいる人達が高給をとっているのも同じ理由に違いない。


ぼくは、彼らをさげすむのではなく、そのメソッドを学んで、よりよい情報を集めたり広めたりするために自分の身にしていかなければいけないと、わかっているのだけれど……。


しかもたぶん、ぼくは、元来そういうゴシップとか汚いネタとかを集めて再度拡散させるのが、わりと得意な方なのだろう、けれど……。


軽トラに死体を積む人もいれば、花を積んで運ぶ人もいる。きっと、死体をいっぱい積み込める能力があれば、花だって上手に積み込めるだろう。けれど、花を積むために死体を積む練習をしなければいけないものなのだろうか、と思う。花を積んでも商売にはならないが、それでも花だけを積むほうが、トラックも運転手もきれいなままでいられるのではないか。


車の窓からいつも、ちょっとだけいいにおいがしたほうがよいのではないか。


教授はぼくにいうのだ、「先生だってそろそろ、あこがれていたアカデミアでいい仕事ができるようになるかもしれないんだ」


けれどぼくは答えるのだ、「そこにはきっと、そういうのが得意な人がいるべきなのです」


そしてぼくは考える、(得意な、というか、うん、好きな、でいいかもしれないなあ)


なおもぼくは考える、(きっと、ぼくは、得意で好きなことをやっている自分しか認められない、残念なタイプなんだなあ)


そしてぼくは黙る、(花屋を目指そう」


教授が驚いて言う、「なんで? 今から花屋やるの?」


ぼくは自分の口に驚いて言う、「あっいや、昔、花屋の娘っていう名曲があってですね、あの妄想が好きだったんですけど、先生ご存じですか、フジファブリック」





なんと、ご存じであった。だから博識な人間と話をするのはいやなんだ。

2017年7月12日水曜日

病理の話(99)

ひとりの患者、ひとつの病気をいろんな視点から見れば、さぞかし多彩な情報が集まるだろう。

たとえば、血液検査。

たとえば、画像検査。

たとえば、病理検査。

たとえば、患者自体が話す声を聞くこと。

たとえば、患者の体に出ているものを見たり聞いたり押したりすること。



これらのどこに特化するか、という考え方と、これらをいかに網羅するか、という考え方があって、前者はスペシャル、後者はジェネラルとか言われたりする。



では、通常の臨床医はどことどこに長けておくべきか?

「それはもちろん、患者の話すことばに耳を傾けること。これが一番だよ。」

ああ、名医くさい。

「問診と診察と検査値と画像とを見比べて矛盾がないかどうか探す知力こそがカギだよ。」

ああ、名医くさい。

「それはもちろん、病理だよ」

なぜかこれだけは、ヤブ医者くさい、と言われてしまう。

病理は、別なのだ。

病理だけは、どうも、「臨床(ベッドサイド)」のくくりには、入れてもらっていないのだ……。

診断を考える上で、病理だけはすごく浮いている。なぜだろう?

病理は、専門性が高すぎるから? そうは思わない。胃の拡大内視鏡診断にしても、肺の間質性肺炎CT診断にしても、心エコーにしても、どれもめちゃくちゃ専門性は高いではないか。病理と大きく違うとは思えない。

病理が一部の場面でしか用いられないから? これもたぶんうそだ。だって、腎臓内科は胃の拡大内視鏡を用いないし、皮膚科は心エコーの細かい設定を知らない。あらゆる医療技術は限定的な場面でしか用いられない。

病理医の数がそもそも少ないから? TAVI(血管内カテーテルを使って心臓の人工弁をいじる手術)をできる循環器内科医だってほとんどいない。エンドサイトスコピー(超拡大内視鏡)を使いこなせる消化器内科医も数えるほどしかいない。でも彼らは胸を張っているぞ。

なぜ病理だけが、「ぽくない」と思われているんだろう。







と、まあ、このように書いて、考えて、問いかけることを、このブログで、ときおりやってきた。

病理ってマイナーで、臨床扱いされてなくて、ニッチで……。

ところが最近、ぼくが会う人々は、実は、このように言うのである。

「病理って大事ですよねえ」

「病理勉強しはじめてから診断学が楽しくなりましたよ」

「後輩の放射線技師にも病理教えたいんですけど、いい教科書ないですか」

あれ、思ったより、ビョウリって悪く思われてないし、仲間はずれでもないな。

あいかわらず一般的な認知度は低いけど、「どうせ病理なんて仲間はずれだろ」みたいに卑屈になっていたぼくは、ちょっと先入観にとらわれていたみたいだ。

思ったより、臨床の人達は、病理のこと、ご存じだ。




ぼくは、輸液のことがよくわからない。縫合のこともよくわからない。窓口でクレームに頭を抱える総務課のつらさも、ドラッグ・インフォメーションをどんどん更新していく薬剤部の精緻さも、グリーフ・ケアも、レセプトも、病診連携も、NSTも、廃用症候群の予防も、認知症のことも、麻酔のことも、なにもしらないけれど、医療者であった。

親を亡くしたことがなく、祖父の死に目には会えず、自分ががんになったことはなく、身内の狭心症におびえたことがなく、親族をがんで亡くしたことはあり、自分が入院した経験はなく、任意保険をどうしたらいいのかわからず、告知されたこともなく、出産に立ち会ったことはあり、性病になったことがあり、骨折したことはなく、介護する立場になったことがないけれど、患者でもあった。



そんなかんじで、病理について、自分の知っていることを書いていけばよいのだろうなあと、思った。

病理って、ご存じな方もご存知ない方も、いらっしゃるんですよ。

2017年7月11日火曜日

おいがつおつゆの「おいがつ」って何だ

今年の札幌は雨ばかりだ。確か記録的だったはずである。

毎年、天気はきちんと記録しているんだから、いつだって「記録的」だろう、とかつっこまないでほしい。そういうことではない。

追うぜ、どこまでも。てめーをぶっ倒すまでな! それは「ミロク的」である。わからない人はいい。

ビーフステーキを略したらビーステじゃん。カードバトルできそうだよね。違う、それは「ビフテキ」である。わかればいい。

もともと6年4組だったはずの教室も、生徒が減ったら別の部屋に変わっちゃったんだね。「多目的」である。もういい。



こういう文面で記事を書くと自分がにやにやしているのが透けて見える気がしていやだ。



雨が多いと、いろんな感想を聞くことができる。同僚のひとりは、「今年は庭の芝生に水をやらなくてもいいからラクなんだ」と言った。また、他のひとりは、「子供を連れてイチゴ狩りに行こうと思ったんだけど、日照が足りてなくてイチゴがなかったよ」と言った。雨ひとつとっても、これだけ違いがある。受け止め方というのは人それぞれだ。これらの会話を聞いたぼくの感想もまた違い、「どいつもこいつもマイホームに幸せ家族かよ! カーッ! てめぇんちの窓枠ぜんぶカビろ!」である。



北海道には梅雨がないと言われているけれども、実は「蝦夷梅雨」と呼ばれる雨量の多い時期がある。従来は6月~7月にかけての短い時期であるはずが、今年は蝦夷梅雨が6月いっぱい続いてしまった。行楽シーズンだというのに残念なことだ。

ただ、おかげさまで、北海道では雨が続いていても、湿度はそれほど上がらない。本州からやってきた人には「これが梅雨だって? ハッ! いいじゃんこんなさわやかに雨降ってさあ! ぜいたくだよぜいたく!」とか言われて、バカにされる。

本州の人間は、何かにつけて北海道を「最高の土地」「うらやましい土地」「いつか行きたい土地」「でも住めねぇよあんな田舎」と、激しく持ち上げてからたたき落とすのが大好きだ。だからぼくも、首の骨を折らないように上手に受け身をとるクセが付いている。「そうね、おかげさまで、過ごしやすくて、料理もおいしくて、ドライブも快適で、かわいい子もいっぱいいて、およそ他の土地とは比べものにならないくらいの天国なので、すっかり精神が軟弱になってしまって、この程度の雨でもちょっとしんみりしてしまうんどすえ~」。内地の人はこうやって、自虐と謙遜にみせかけてマウント取り返すんですよね? ぼくネットで見ましたよ!




ブログが更新されるころにはきっと天気も良くなっており、この記事もなんだかテンションを読み違えたものに変わっているはずなのだが、できればそろそろカラッと晴れてほしい。北海道の夏はダイヤモンドの輝きである。そのカラットではない。

2017年7月10日月曜日

病理の話(98)

病理診断報告書に、

「○○を考えます。しかし、□□が見られる点が気になります。」

などという文章を書く人がいる。

はじめてこの文章を見たとき、ぼくはひっくり返りそうになった。

「き、気になりますって! 思春期か! 乙女か! これが正式な診断書のフレーズとして許されるのか! あまりにふざけている……!」



「気になります」が、実はかなり普遍的な病理用語であると知ったのはずいぶんあとのことだ。




英語では"worrisome feature"などという。

Worrisome。気にかかる、心配になる、やっかいな、などという意味の言葉である。動詞のworryに相当する言葉。

Worrisome feature, すなわち「気になる所見」と訳される。

あいまいを好む、責任回避が好きな日本人、という先入観でいては見えてこない。

欧米人も病理診断報告書に「気になります」と書いているのである。



実は、臨床医療者は多くの場面で「気になる」を診療のヒントとして用いている。

「この咳、たぶん、ぜんそくによるものだろうな。しかし、年齢がやや高いのが気になる……」

「この腹痛は、おそらく、食中毒でよいだろう。ただ、下痢が血便であったことと、吐き気を伴っていないことは気にかかる……」

患者を診療する最中に、現時点で最も疑わしい病気は何であるか、それをくつがえす証拠があるとしたら何だろうか、というのを丹念に追い求めていくと、しばしばこのような表現方法を用いることになる。



診断の過程においては、「無限に集まる情報」を正しく選び取り、一番ありえそうな疾患名を思い浮かべていくことになる。このとき、ある疾患名「A」が瞬時に決まり、他の疾患名B,C,Dを完全に否定できることは少ない。

風邪だと思っても低確率でもっとやばい病気のことがある。

がんだと思っても実はがんではないこともある。

医療者にとって、まあ、「たいていの」病気は、素直に直感に従っていれば当たる。

しかし、何か「ひっかかり」がある場合には注意が必要だ。

そのひっかかりを探っていくと、思いも寄らない病気が陰に潜んでいたり、今までの検査結果を全て覆すようなものの見方の変更を余儀なくされることが、「まれに」ある。



「たいていの」ものごとから、「まれな」ものごとを抽出するために必要なのは、「ひっかかり」に気づくことだ。



NHKのドクターGという番組が優れているなあと思うことは、番組に出演した研修医たちが

「これは○○という病気だと思います」

と発言した直後に、指導医が、

「○○として、合致しない点はどこかな?」

とたずねるところである。

「○○」の可能性が高いと踏んでいる人間に、あえて、「○○ではない場合」をきちんと考えてみよう、「○○ではない根拠」はなんだろうか、と問いかけることが、思考を強靱にする。

このとき、しばしば、研修医は、「……うーん、○○とすると、□□である点が気になります。ここはちょっと合致しない」などと発言する。

ほら、出た、「気になります」。




以上の考察を通じて、ぼくは、病理診断書に書いてある「気になります」を許すようになった。

でもまあ、ぼくだったらこんな乙女言葉は使わない。もっとレポートにふさわしい言葉に代えてしまう。

「Aという病気であろうと自分が疑う根拠は○○だ。一方、Aという病気にそぐわないのは□□だ」

というのを列挙する。「気になります」のように、主観が見え隠れしてしまうと、病理診断書をよりどころとしている医療者の一部は

「てめーの主観に俺の診断をまかせなきゃいけないのかよ」

とがっかりしてしまうからだ。




……ここで記事を終えても良かったのだが……。




ぼくが考える「理想の病理医」は、ときに、臨床医に電話をしている。

彼は、臨床医に話し掛ける。

「あの患者の標本、診ましたよ。ええ、たぶんAという病気ですね。ただね、気になるんですよ……」

すると臨床医は即座に理解する。

「あー先生が気になるってことは、ちょっとじっくり考えていただいたほうがよさそうですね。先生が気になるってなら、よっぽど難しいんだなあ……」




ぼくは、医療が「主観」で行われているのはもはや当たり前だと思い始めている。もちろん、その主観は、膨大なエビデンス(証拠)、堅実な統計・疫学、豊富な知識に裏付けされていなければならないが、結局、人である我々が診断を下すときに、主観は切り離せない。

だからこそ、その主観が「ありがたい」と思ってもらえるような、信頼関係を築かなければいけない。これが極めて難しい。

もっとも優秀な病理医とは、「気になるんですよ」という主観バリバリの言葉を臨床に投げかけたときに、臨床医療者がみな背筋をただして、「あいつの主観がやばいと言っているぜ」と警戒してくれるようになるような人であろう。




そう考えると、「気になります」というフレーズひとつが、気になってしょうがない。

2017年7月7日金曜日

脳だけが旅をする

雨の信州路、乗合タクシーには7人が乗車していて、みんな他人同士で無言だった。Wi-Fiが搭載された車内でぼくはツイッターで見つけたブログ記事やツイ4のマンガなどを読みながら夢を見た。夢の中でぼくはハンドルを握らずに運転をしており、強い雨でフロントガラスが波打つのをはらはらしながら見守っていた。

アメリカ留学している同期がずっと業績の話をしている。彼はインパクト・ファクターという言葉を何度も使いながら、合間に自分の娘に対していかに時間を割いているか、明るいうちに自宅に帰ってテニスコートやプールに行く生活がいかに家庭と仕事を輝かせているかを、完成された再放送のようなフレーズで懇々と説法していた。

雨が上がった音がしたので目が覚めた。スマホのページはバナークリックした覚えのないエロマンガサイトにつながっており、ぼくは高速バス会社の職員があとでこのログを見つけたときにどういう独り言をつぶやくのだろうと考える。

思索の荒野という言葉を繰り返しメロディに乗せた向井秀徳は、思索が広がって薄まって虫に集られ夕日に焦がされ石が砂となるように風化していくさまを思っていたのだろうか、ぼくは何かを考えているときにたいてい、広かったはずの道を車で飛ばして行くうちにだんだん車線が減り、中央分離帯が細くなり、対向するトラックに水しぶきを盛大にぶっかけられ、あわててワイパーで殴りつけながら、早くパーキングエリアで休みたい、マルボロに火を付けたい、ひとつ吸った途端に、早く走り出さないと目的地にいつまでたっても着かないとやきもき、コーヒーも買わずにまた雨の高速道路にしぶしぶ戻っていく、そんなイメージを持っているので、思索の荒野に道を通した人は偉いなあ、ぼくはそこを走るだけでこんなに雨男なのに、と、また降り出した雨の音が拘束された罪人の頭を打つ水の拷問のようだなと、そういえばあの同期はそもそも医者ではなかったし子供もいなかったし高校の時に死んだのだったなと、あわてて手を合わせて少し脳を閉じた。

2017年7月6日木曜日

病理の話(97)

あちこちに話を飛ばしながら「病理の話」をし続けてきた、(101)くらいになったら、昔書いたネタでもどんどん書き直して行こう。

「その話題は12回目に書いてありましたよ」とか、「24回目と62回目と同じ話でしたね」とか言われても、再利用はやめない。

ひとつのブログをいちいち遡る時代ではない。昔書いたからと言って、今日の読者がそれを読んでいる保証はない……。







「病理診断報告書」を書くときも、ちょっとだけ似たことを考えている。

レポートを読む対象として、「常連」だけではなく、「今回はじめて病理の話を読む人」を想定しておこう、ということだ。

ぼくの書いたレポートを読むのが「消化器内科の20年目のドクター」であれば、ぼくの病理レポートを何度も何度も読んでいる。ぼくのレポートに慣れている。この珍しい病気も、あの珍しい概念についても、説明したことがある。必要事項だけ書いておけば通じる。わかってくれる。

けれど、後期研修医(5年目)のドクターが読むかもしれないとなると、多少細かく診断の説明を書いた方がよい。参考文献も付けておいたほうがいいし、うちの病院ではこれが4例目となる珍しい症例だとコメントするところまでやる。今後の対応についても多少コメントして、わからなければ電話してくれと付記しておく……。

今回は、わかりやすくするために、今たまたま手元にあった教科書の写真を適当に選び、それについて架空のレポートを書いてみる(教科書をパラパラめくって決めました)。

レポートの書き方として、2種類。

ひとつめは、ベテランのドクターに向けて書くバージョンを。

ふたつめは、ベテランだけでなく、消化器内科にやってきたばかりのドクターにも読んでもらう場合のバージョンを書く。



1.常連・ベテランだけにあてた、レポートの例:

------------------

胃癌: Gastric carcinoma with lymphoid stroma (GCLS), ○×○ mm, pType 0-IIa+IIc, pT1b2(SM2, 1800μm), med, INFa, ly0, v0, pPM0, pDM0, pN0, Stage IA.

EBER-ISH(+).

------------------

病理診断報告書というのは、実はこれでほとんど用を為している。

読者諸氏は、上記の文章を単なる記号にしか思えないだろう。

でも、記号でよいのだ。というか、記号化するのが病理医の仕事のひとつなのである。

記号さえあれば、ベテランの消化器専門医は、必要な情報を抽出して、今後の診療に役立てることができる。




一方、後期研修医1年目くらいだと、上のレポートを見てもその意味を十全には理解できない。

あるいは、この患者を診ている他科の医師がいるかもしれない。この患者が例えばほかに心臓や腎臓などに病気を持っていて、別の科にもかかっていたとしたら、そこの医師は(たとえ自分の診療領域と関係ない胃であっても)病理レポートを読む必要がある。しかし、消化器専門医でないと、上記の内容はおそらく理解しきれない。



であるから、ぼくは、レポートを以下のように記述することになる。


2.研修医や他科の医師が読むことをも想定した、レポートの例:

------------------
胃癌: Gastric carcinoma with lymphoid stroma (GCLS), ○×○ mm, pType 0-IIa+IIc, pT1b2(SM2, 1800μm), med, INFa, ly0, v0, pPM0, pDM0, pN0, Stage IA.

腫瘍浸潤部周囲に濾胞形成を伴うリンパ球浸潤像が認められ、リンパ球浸潤癌(胃癌取扱い規約第14版)に相当する組織像です。
EBER-ISHにて腫瘍細胞の核に陽性像が得られ、本病変はEBウイルス関連胃癌であることが示唆されます。
------------------

そこまで細かくは書かない。なにより、記号のひとつひとつについて解説はしていない。

けれど、こちらのレポートには、先ほどと大きく違う点として「取扱い規約の第14版を参照せよ」というメッセージが含まれている。

わからない人が、読み、調べるよりどころを書く。些細だがこれがとても大きい。とっかかりが必要なのだ。

医者は科が違うと、使う教科書も文献もまるで異なるが、これらを俯瞰的に眺めているのは病理医と放射線科医くらいのものだ。だから、我々は、道しるべを置くようにする。





ところで、ぼくは、もう一つの書き方を持っている。

より正確に言うと、自分では「第3の書き方」はしていないのだが、ぼくの元で病理を学ぶ研修医には必ずやってもらう書き方、というのがある。

それは、先ほどの1よりも2よりも、圧倒的に長く、細かい書き方だ。


3.読者がベテランか研修医かに関わらず、書く方が勉強している場合の、レポートの例:

------------------
胃癌: Gastric carcinoma with lymphoid stroma (GCLS), ○×○ mm, pType 0-IIa+IIc, pT1b2(SM2, 1800μm), med, INFa, ly0, v0, pPM0, pDM0, pN0, Stage IA.

後述する理由により本病変をリンパ球浸潤癌(胃癌取扱い規約第14版)と診断します。リンパ節転移は認められません。断端は陰性。

【肉眼所見の詳細】
 胃体上部後壁に、○×○ mm大の発赤調病変を認めます。病変の立ち上がりは粘膜下腫瘍様のなだらかな立ち上がりを呈し、病変の中心部ではわずかに浅い陥凹を伴うType 0-IIa+IIc病変です。病変内に向かうひだの引き込み、粘膜集中像はみられません。背景胃において大弯のひだは消失傾向にあり、open typeの萎縮がみられます。
【組織所見の詳細】
 肉眼病変部のうち、陥凹部にほぼ一致して粘膜内癌病巣を、周囲のなだらかな隆起におおむね一致して粘膜下層に浸潤する癌病巣をみます。粘膜内では吻合状~レース状の形態を示す腺癌像であり、粘膜下層浸潤部では背景に濾胞形成を伴う高度のリンパ球浸潤を伴いながら腫瘍細胞が個細胞性~少数細胞性に浸潤しています。浸潤部に線維化(desmoplastic reaction)は目立たず、病変全体が粘膜を粘膜筋板の下から柔らかく押し上げています。浸潤先進部は粘膜下層の中層付近に留まり、固有筋層への浸潤はみられません。病変の厚みに比して硬さはそれほど上昇していません。
 EBER-ISHにて、腫瘍細胞の核に陽性像が得られ、本病変はEBウイルス関連胃癌であることが示唆されます。
 以上よりリンパ球浸潤癌 gastric carcinoma with lymphoid stroma (GCLS)と診断します。
 脈管侵襲像はありません。リンパ節転移は認められません。断端は陰性(口側断端は迅速組織診にて確認)。
 背景胃粘膜にはピロリ菌関連胃炎の像があり、病変周囲には腸上皮化生を散見する軽度~中等度の萎縮をみます。
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これは、「長すぎ」である。

まるで、問われてもいないモビルスーツの機能を延々と語り続けるだれかさんのようだ。

実際、このボリュームのレポートをぶつけられると、臨床医は驚いてしまう。

しかし、臨床医もわかっている。「ああ、病理で勉強している研修医が書いているな」ということを(署名もしてもらうのでわかる)。

研修医に病理の勉強をしてもらうため、肉眼や顕微鏡でみた「所見」を、きちんと文章化するトレーニングをしているのだな、ということをわかってくれる。

なお、臨床医たちの利便性を損ねないように、レポートの序盤には「必要事項」をまとめて書いておく。序盤さえ読めば、あとは読み飛ばしてもいいですよ、ただこちらはこちらで教育目的にも使わせて頂きます。そんなメッセージを込める。

「後述する理由により」

「所見の詳細は以下に」

のようなフレーズを付けることで、指導医ならピンと来てくれる。




病理診断報告書は、最終的にはすべて「患者のため」に書かれるものなのだが、実際にはこのように、多様な医療者を想定し、それらがみな役立てられるように考えて書く。

ときに、読者だけではなく、著者の方にもいいことがあるように書く。




……以上の内容は、このブログでは実は何度か触れてきた話ではあるのだが、まあ、著者にとって、いいことがあるので(新しいネタを探さなくてもいいので)、書いておこうと思う。

2017年7月5日水曜日

帰ってきたら何だろうお腹のあたりがシュッちょしたんじゃないか

出張先で仕事や勉強が終わった後に、ホテルに引きこもってビールを飲んで寝てしまう。中年男性があこがれる、「ふらっとひとりで現地の居酒屋に入る」みたいなことをやった記憶がない。「駅前を所在なくぶらつく」とか「風俗に突撃する」とかもやらない。とにかくホテルでいつもより少しだけ高いビールを飲んで寝てしまう。

たまにもったいないと言われる。

せっかくなのでご当地のおいしいものを食べたらどうかと言われたりもする。

でも、今のぼくは、

「もう、十分に旅をしているんだから、この上さらに非日常を重ねなくても、満足なんだ」

「ホテルの部屋でふだん見ないバラエティやニュースを見ながら缶ビールを飲むことが旅の醍醐味なんだ」

と思っている。



これは、「人生を攻めて楽しむこと」ができなくなった人間の言い訳かもしれない。

あるいは、摩耗とか萎縮とか呼ぶのがふさわしい、矮小な人間性が表面に出てきただけのことなのかもしれない。

けれど、出張のときに飛行機の中で本をまとめ読みすることも、観光地に寄らずにホテルにひきこもっていることも、帰りに空港であわただしくおみやげを何種類も買い込むことも、ひとしく旅の色彩として腹におさめてしまっている。

それで心が満たされてしまう。

それで早く家に帰りたくなってしまう。

安上りの旅を繰り返しながら、ああ、ぼくはわりと旅行が好きですよ、などと周囲に言って回る。

うそは一つもついていない。




ところで、モンゴルから帰ってきたときに腹痛で寝込んでしまったのは、いつもやっていない「観光」を旅程に組み込んだからだ。

ぼくはこの、「めったに自覚しないレベルの腹痛」によって得られた非日常が、今ふりかえる分には、そこまでいやではなかった。それが、自分で、ちょっとおどろきであった。

もう少し年をとって、もう少し出張の主目的自体に興味をなくす日が来ると、あるいは、旅先で景勝地を見て回ったり、外食に出かけたりするのだろうか。

……そもそも、「出張」を「旅」と言い張るクセが、治るだろうか。

2017年7月4日火曜日

病理の話(96)

マンガ「フラジャイル」の根底を貫くテーマというのがいくつかあるように思うのだが、その一つは、

「嘘」

だと思う。

たとえば病理医のタマゴであり本編の狂言回しであり主演女優でもある宮崎先生という人は、「自分の中にいろいろ満ちてしまった」という表現を用いながら、患者との対話の中で自分がついてきた嘘について思いを巡らせる。

宮崎と岸との師弟関係の中に、「だからその紙(病理診断報告書)には嘘を書くなよ」という意味のセリフが出てくる。

最新エピソードでも、患者に対する「嘘」というのは果たして誰のためなのか、というテーマがにじむ。



必ず良くなるからがんばって、というセリフは、いつ、どこで、だれが、なんのために、どのようにして用いるのか。

生命、疾病を考えたとき、「必ず」が通用するのはふたつあり、「いつか必ず人は死ぬ」ということと、「生きている毎秒が人生である」ということ。

前者は絶対的な「必ず」で、後者は散文的な「必ず」である。

今を元気に、明るく生きるためについた「嘘」が、のちに人を苦しめることはある。

必ず治ると言われたのに結局治らなかった人というのは、かつて話した「必ず治るよ」という言葉を、嘘として思い返すだろうか。

では、たとえば、進行したがんの患者が周囲に「必ず治るよ」と言われて、「そうか、そうだよな、必ず治るよ」と信じて毎日を楽しく暮らして、ある夜、寝ている間にふと死んでしまったら、本人は幸せだろうか。

周りはその嘘を振り返ってどう感じるだろうか。

それ以前に、がんが必ず治ると信じたまま、「うまく死ねた」人というのは、世の中にどれだけいるのだろうか。

実際に、がんが治った人は、かつて周りがついた「必ず治るという嘘」を、どう振り返るのだろうか。




「嘘」の反対は「真実」ではなく、「不定」である。

未来のことは誰にもわからない、というのは、真実ではなく、道理である。

嘘をつかないということはしばしば、「それは誰にもわからない」と言い続けることにつながる。



嘘をつかずに生きていく上で一番効果があるのは、統計を知ることだ。確率で計ることだ。可能性までで思考を停止することだ。

だから、しばしば、嘘をつかずにいようとする医療者は、確率の話をする。



残念ながら、ぼくらは道理では幸せになれず、真実と信じることで幸せになっている気がする。




その紙に嘘を書いてはならぬと言われたとき、どれだけの医療者が「真実」をもって語ることができるだろう。

ぼくの知る限り、真実を追究する残酷な人間というのは、たいてい、病理にいて、道理をわきまえた上で残酷な科学を語り、嘘を許容せずに日々を送る。

そんな人間が医療業界にあふれていたら、いろいろと、まずいのだと思う。

ぼくは最近、病理医なんてのは少なくてよいのではないか、と思い始めている。

嘘と道理の狭間でゆらゆら動く患者と医療者は、そのままゆらゆらしていたほうが、やじろべえとして針の上で立っていやすい。

時に優しい嘘を撃ち抜く役目を担う人は、稀少でよい、日陰でよい、ただしどこかにいなければいけない。





かつて草水敏という人は、「ぼくの考える主人公とはダークヒーローでなければいけない。話すことすべてが正しい必要はない。むしろ読者は主人公を見て怒りに震えたり、大きな違和感を覚えたり、悩んだりしてもらいたい」という意味のことを言っていた。

岸京一郎は最低の病理医なので、彼を見ることでぼくは病理医としてどう歩いて行こうかという話を、何時間も、何日も、何年も考え続けることができる。

ぼくは「彼」のやり方をなぞっている。「彼」がどの彼なのかは、可能性の話に留めておこうかと思う。

2017年7月3日月曜日

略して としこ

このブログを書く直前に、仕事のメモを見ていて、「そういえばあの講演のスライドまだ作ってないなあ」くらいの、プチストレスがかかった。

プチで済んだ。

「プチで済むようになった」というのは、年の功的なやつかもしれない。

昔だったら、「抱えている仕事の進捗状況を間違って把握していた」、という状態は「近年まれにみるストレス」「最悪の年と言われた2010年に匹敵するストレス」みたいにボジョレー化して表現されていただろう。

今はもう、ボジョレー化しない。

経験したことがあるストレスについては、何度も回数を重ねていくうちに、感覚がマヒしたのか、対処法が身についたのかはともかく、自覚症状が軽くなったように思う。



経験したことのないストレスについて語ることは難しいが(なにせまだ経験していない)、この先どういうストレスがかかっても、「まあだいたいこれくらいつらいだろうな」と予測できてはいる。

今なら、10代のころほど、経験してもいないストレスについて必要以上に煩悶することはないだろう、と思う。



こうやって、大丈夫大丈夫、自分はわりとストレスを飼い慣らせるようになってきたぞ、というイメージを文章化して、自分に言い聞かせる。

だって中年だからさ、というもっともらしい理由をきちんと添える。

ここまでが一連の技術である。中年の持つ技術である。



ほんとうは何も変わっていないかもしれないけれど、「中年だ、年の功だよ、経験値の差だから、それくらいはね」と、口に出すことで、本当に変わっているんだよと、自分に思い込ませる。




これを年の功と呼ぶのだと思う。