向こうに患者がいる。
わたしの病気は何なんですかと、主治医に尋ねている。
主治医はあまり専門用語を使いすぎないように、患者に説明する。
自分の脳の中では専門用語をふんだんに脳内で踊らせ、病気の正体を探ろうと試みながら。
そして、患者が帰った後に、主治医は病理医の元に歩いてきて、尋ねる。
この人の病気は何なんですか。
病理医はあまり専門用語を使いすぎないように、主治医に説明する。
「あまりにも専門用語をぶちこんでしまうと、主治医もわかんなくなっちゃうだろうな」
病理医は、臨床医にわかる言葉で病理報告書を書く。
病理報告書を読んだ主治医は、患者に病状を説明する。説明の際には、
「こんな難しい言葉だったら患者はわからないだろうから、もう少し簡単に言い換えてあげよう」
と気を遣う。
主治医は、患者にわかる言葉で説明を試みる。
患者のために行われている医療。
その中では、言葉は何度も、言い換えられている、ということ。
あるいは、看護師だって、病院の事務だって、待合室で眺めているニュースのアナウンサーだって、そのニュースの中に登場する政治家だって、政治家に意見を具申した厚生労働省の職員だって、その職員に情報を提供した医療者だって、みんな、相手がわかりやすいように、わかりやすいようにと、言葉を言い換え続けている。
医療だけに限った話じゃない。言葉はいつでも、言い換えられ続けている。
専門用語を言い換えずに働くというのは、不親切だ。
それに、「病理の専門用語」も、細胞に起こっている形態変化を、ことばという形に近似して、表現しているだけである。
「専門用語を言い換えなければより真実に近い」かどうかは疑問である。医療とは、近似、近似の伝言ゲーム。
似た言葉を探し、より伝わりやすい言葉を選び続ける医療コミュニケーションの場において、もっとも大事なのは、つまり、「それはどういう意味ですか?」と、お互いが問いやすい環境を作ることではないか。
お互いが相手の得意に寄り添い、相手の不得意を補い合う環境を作ること。
とりあえず、ぼくもここで意志を持って仕事に参画しているんですよぉと、名札をかかげてアピールしておくこと。
いつでも話しましょう、いつでも答えますよ、いつでも聞きたいんです、いつでも教えてください、と、言いまくっておくこと。
あちこちで臨床の医療者と一緒に仕事をする。話をする。相談をする、相談に乗る。
病理のことばを、臨床の用語で言い換えるなら、どういう言葉を使うのが一番いいのか。
病理のことばが、患者の元に届くまでに、どれほど形を変えているのか。
毎日、実感する。書く。読む。
これが大事だと信じて、人とも書物とも会話を続けていく。
そんな日々を繰り返しているうち、病理医だけが使っている言葉の特殊性に、あらためて向かい合うことになる。
細胞とは。細胞質、細胞膜、核膜、核質とは。
異型性とは。異形成とは。
凝固壊死、融解壊死、乾酪壊死。
極性。軸性。
濃縮、微細顆粒状、泡沫状。
好酸性、好塩基性、両染性。
多結節状、結節集簇状、分葉結節状、粗大顆粒状。
シダの葉、サカナの骨、鹿の角。
おそらく世の人々の0.01%すら使わないであろうこれらの表現もまた、病理という狭い世界の中で、コミュニケーションするために生まれてきたフレーズだったのだろうなあ、と、思いを馳せる。
誰かに伝わるかな、伝わるといいな、伝えよう、と思って作り上げられた言葉が、輝いている。ぼくは、たとえばそういう病理ことばを抽出して、ためしに患者の前にそのまま投げてみたらどうなるだろうかと想像する。もちろん実際にはやらないけれど。
うん、案外、何かを越えて、伝わるということも、ある、かもしれないなと思う。もちろん実際にはやらないけれど。