病理診断報告書に、
「○○を考えます。しかし、□□が見られる点が気になります。」
などという文章を書く人がいる。
はじめてこの文章を見たとき、ぼくはひっくり返りそうになった。
「き、気になりますって! 思春期か! 乙女か! これが正式な診断書のフレーズとして許されるのか! あまりにふざけている……!」
「気になります」が、実はかなり普遍的な病理用語であると知ったのはずいぶんあとのことだ。
英語では"worrisome feature"などという。
Worrisome。気にかかる、心配になる、やっかいな、などという意味の言葉である。動詞のworryに相当する言葉。
Worrisome feature, すなわち「気になる所見」と訳される。
あいまいを好む、責任回避が好きな日本人、という先入観でいては見えてこない。
欧米人も病理診断報告書に「気になります」と書いているのである。
実は、臨床医療者は多くの場面で「気になる」を診療のヒントとして用いている。
「この咳、たぶん、ぜんそくによるものだろうな。しかし、年齢がやや高いのが気になる……」
「この腹痛は、おそらく、食中毒でよいだろう。ただ、下痢が血便であったことと、吐き気を伴っていないことは気にかかる……」
患者を診療する最中に、現時点で最も疑わしい病気は何であるか、それをくつがえす証拠があるとしたら何だろうか、というのを丹念に追い求めていくと、しばしばこのような表現方法を用いることになる。
診断の過程においては、「無限に集まる情報」を正しく選び取り、一番ありえそうな疾患名を思い浮かべていくことになる。このとき、ある疾患名「A」が瞬時に決まり、他の疾患名B,C,Dを完全に否定できることは少ない。
風邪だと思っても低確率でもっとやばい病気のことがある。
がんだと思っても実はがんではないこともある。
医療者にとって、まあ、「たいていの」病気は、素直に直感に従っていれば当たる。
しかし、何か「ひっかかり」がある場合には注意が必要だ。
そのひっかかりを探っていくと、思いも寄らない病気が陰に潜んでいたり、今までの検査結果を全て覆すようなものの見方の変更を余儀なくされることが、「まれに」ある。
「たいていの」ものごとから、「まれな」ものごとを抽出するために必要なのは、「ひっかかり」に気づくことだ。
NHKのドクターGという番組が優れているなあと思うことは、番組に出演した研修医たちが
「これは○○という病気だと思います」
と発言した直後に、指導医が、
「○○として、合致しない点はどこかな?」
とたずねるところである。
「○○」の可能性が高いと踏んでいる人間に、あえて、「○○ではない場合」をきちんと考えてみよう、「○○ではない根拠」はなんだろうか、と問いかけることが、思考を強靱にする。
このとき、しばしば、研修医は、「……うーん、○○とすると、□□である点が気になります。ここはちょっと合致しない」などと発言する。
ほら、出た、「気になります」。
以上の考察を通じて、ぼくは、病理診断書に書いてある「気になります」を許すようになった。
でもまあ、ぼくだったらこんな乙女言葉は使わない。もっとレポートにふさわしい言葉に代えてしまう。
「Aという病気であろうと自分が疑う根拠は○○だ。一方、Aという病気にそぐわないのは□□だ」
というのを列挙する。「気になります」のように、主観が見え隠れしてしまうと、病理診断書をよりどころとしている医療者の一部は
「てめーの主観に俺の診断をまかせなきゃいけないのかよ」
とがっかりしてしまうからだ。
……ここで記事を終えても良かったのだが……。
ぼくが考える「理想の病理医」は、ときに、臨床医に電話をしている。
彼は、臨床医に話し掛ける。
「あの患者の標本、診ましたよ。ええ、たぶんAという病気ですね。ただね、気になるんですよ……」
すると臨床医は即座に理解する。
「あー先生が気になるってことは、ちょっとじっくり考えていただいたほうがよさそうですね。先生が気になるってなら、よっぽど難しいんだなあ……」
ぼくは、医療が「主観」で行われているのはもはや当たり前だと思い始めている。もちろん、その主観は、膨大なエビデンス(証拠)、堅実な統計・疫学、豊富な知識に裏付けされていなければならないが、結局、人である我々が診断を下すときに、主観は切り離せない。
だからこそ、その主観が「ありがたい」と思ってもらえるような、信頼関係を築かなければいけない。これが極めて難しい。
もっとも優秀な病理医とは、「気になるんですよ」という主観バリバリの言葉を臨床に投げかけたときに、臨床医療者がみな背筋をただして、「あいつの主観がやばいと言っているぜ」と警戒してくれるようになるような人であろう。
そう考えると、「気になります」というフレーズひとつが、気になってしょうがない。