「わかったふりをしない」というのは結構いろんなことのキーポイントになっているように思う。
わかったふりをしないことで何がよいかというと、話している相手に嫌われなくて済むということだ。
嫌われないままの関係でいれば、ちょっとずつ「普通、やや好き」くらいのポジションに置いてもらえる。
「普通、やや好き」くらいの人は、こちらの意図をけっこう汲んでくれる。
会話のときに、ぼくの言葉が足りなくても、ぼくの考えが浅くても、助け船を出してくれたり、こちらの表現が整うまで待ってくれたりする。
これはとてもありがたい。うれしい。
ありがたくうれしい状態を招くために、なんだかんだでとても大事なのが、「わかったふりをしない」ことなのではないかと思っている。
そういえばぼくは、誰かが何かを「わかっている」から、「好き」だと思ったことが、たぶん、あまりない。
わかっているんだと言われても、そうなんだ、すごいね、で終わる。
感情がより動くのは、適切なタイミングで「わからない」と言える人の方だ。
「話し相手に向かって、自分がわからない状態であることを告白できる性格」というのが、いい。
まあ好き嫌いの話だから、実務的な関係の相手には、どうでもいい話かもしれない。
でも、仕事のつきあいであっても、「普通・やや好き」くらいだと、いろいろありがたくうれしくなるものだ。
「それはこうだよ」と口を挟むこと。
「きっとこうなんじゃないかな」と解釈をすること。
「それは違う」と否定をすること。
これらが機能するのは、少なくともお互いがお互いのことを、嫌いではない、普通・やや好き、くらいに思えるようになってからではないか。
まずは、「わからない」を言える相手であるかどうかをチェックする。
わかったふりをしないと会話が続かないような関係になっていないかどうかを確かめる。
書いていて思ったのだが、「わかったふりをしないと会話が続かないような関係」の人を先に好きになってしまうときがあるなあ、と思った。人間の脳というのは、元来、世界のままならなさに悩むようにあらかじめ作られているのかもしれない。ほんとうのところはわからない。わかったふりをして記事にする。