とある大学の外科教授と話をしていたら、ぼくの知り合いの醜聞をぼくよりもよっぽど詳しく知っていて、うーむ、アンテナの広さはさすがだなあと思ったのだが、それ以前にこんなどろどろした話ばかり抱え込んで、精神は大丈夫なのだろうかと心配になった。だから、直接聞いてみた。
「先生、そんなに人のやばいネタばっかり仕入れて、自分の精神保てるんですか」
そしたら彼は笑ってこう言った。
「うん、だってすぐ忘れるもん。他人の話だし」
なるほど彼は、仕入れては売る、仕入れては売るを繰り返しているだけで、知識を「倉庫の在庫」にはしていない。彼はあくまで情報という素材を分配しているだけだ。自分がその情報を加工して、返り血で自分のエプロンを汚すようなことはしない。
なんだかなあ、と思いながら、情報をめぐる人のありようを考えていた。
この教授はえげつない。やってることは死の商人と一緒だ。武器を売るけど自分では撃たないよ、みたいなものである。けれど、彼はそういう荒事だけではなく、美談も学術もおなじように仕入れては売る。ハブとして一流であり、だから人の中心に立っているのだろう。
マスコミという仕事の中心にいる人達が高給をとっているのも同じ理由に違いない。
ぼくは、彼らをさげすむのではなく、そのメソッドを学んで、よりよい情報を集めたり広めたりするために自分の身にしていかなければいけないと、わかっているのだけれど……。
しかもたぶん、ぼくは、元来そういうゴシップとか汚いネタとかを集めて再度拡散させるのが、わりと得意な方なのだろう、けれど……。
軽トラに死体を積む人もいれば、花を積んで運ぶ人もいる。きっと、死体をいっぱい積み込める能力があれば、花だって上手に積み込めるだろう。けれど、花を積むために死体を積む練習をしなければいけないものなのだろうか、と思う。花を積んでも商売にはならないが、それでも花だけを積むほうが、トラックも運転手もきれいなままでいられるのではないか。
車の窓からいつも、ちょっとだけいいにおいがしたほうがよいのではないか。
教授はぼくにいうのだ、「先生だってそろそろ、あこがれていたアカデミアでいい仕事ができるようになるかもしれないんだ」
けれどぼくは答えるのだ、「そこにはきっと、そういうのが得意な人がいるべきなのです」
そしてぼくは考える、(得意な、というか、うん、好きな、でいいかもしれないなあ)
なおもぼくは考える、(きっと、ぼくは、得意で好きなことをやっている自分しか認められない、残念なタイプなんだなあ)
そしてぼくは黙る、(花屋を目指そう」
教授が驚いて言う、「なんで? 今から花屋やるの?」
ぼくは自分の口に驚いて言う、「あっいや、昔、花屋の娘っていう名曲があってですね、あの妄想が好きだったんですけど、先生ご存じですか、フジファブリック」
なんと、ご存じであった。だから博識な人間と話をするのはいやなんだ。