2018年9月21日金曜日

病理の話(245)

ここだけの話だが教科書を書いている。

するとどうなるかというと、「病理の話」を更新するネタが尽きるのだ。

だって病理の教科書だから。

それこそ、「病理の話」を総括するような本になるわけだから。

ブログのネタは尽きる。



……と思っていたのだがそうでもなかった。

実は本を書き始めたのはかなり前のことである。

ふつうにブログのネタが毎回出てくる。

病理の話というのは多角的すぎて、1,2冊本を書いたくらいではとうてい書き尽くすことはできないのだった。

それはそうか……。

60兆とか100兆とかあるといわれている細胞、それぞれが勝手に働いて、ひとつの「人体」という都市を形成しているとすると、人体という都市は私たちが今暮らしている地球そのものよりもはるかに大きなメガロポリスということになる。

街をモチーフにした創作物が書き尽くされることはない。

アド街ック天国がすべての都市を紹介し追えて最終回を迎えるなんて考えられない。

ブラタモリ的なアプローチもあれば、もやさま的なアプローチもある。

都市という巨大な複雑系を語ることは永遠に終わらない。

人体もいっしょだ。

人体に発生した犯罪を記した事件簿は永遠に完結しない。

コナン君がちっとも最終巻を迎えないのにも似ている。



ここだけの話、ぼくの書いている教科書には、今までブログで書いた内容も何度か出てくる。

ただ、ぼくは自分の記事をほとんど読み直さないので、「引用」しているわけではなくて、「そういえば昔こんなことも考えたなあ」という感じで同じ事をくり返し語っているにすぎない。

それも悪くはないかなあと思っている。NHK大河ドラマだって、関ヶ原の戦いを何度も何度も描いているけれど、毎回新たな感動があるだろう。




そうか病理の話というのは確かに大河ドラマ的だなあ。

みんなが知らないことも、多少は知っているけれど詳しくは知らないことも盛り込んで、いつまでもいつまでも続いていくのだ。

となると病理の話を書き続けるうえでは、都市もののバラエティ番組とか、歴史物とか、あのへんの演出方法が参考になるのではないか……。

というあたりを今考えている。

2018年9月20日木曜日

新作7泊8日セール

「こういう話、本当は言いたくないんだけど、誰かが言わないといけないことだから、言わせてもらう」

という前置きで語り始める人はたいていいつだって「言いたい人」だ。

「本当は言いたくないんだけど」をつければ自分の過激な発言や説教めいた発言、上から目線の発言が免罪されると知ってしまったから惰性で付けている。

ぼくにもそういうところがある。



たとえば今の、「ぼくにもそういうところがある。」は、ぼくの得意技だ。

誰かほかの人を非難するときに、「ぼくにもそういうところがある。」とひと言付け加えるだけで、そうか自戒しているのか、だったら苦言を呈していてもよかろう、と、人々の目を優しくそらすことができる魔法のフレーズなのだ。

「自戒しておきたい。」を最後に付けるのも効果がある。

「誰かもかつて言っていたことだが」というのも使い勝手がよい。



形式にハマった言論が目に付くようになった。おそらく、ワンフレーズに力のある人のことばが昔よりも遠くまで届くようになったことと関係がある。同時に、長く難しい文章を最初から最後まで読まないと伝わらないような論考は以前よりもさらに伝わりづらくなった。

「以前よりもさらに」。

「伝わりづらくなった」。

これらもすべて定型文である。ぼくの作文は徹頭徹尾、「借文」になっている。




「枚挙にいとまがない」はたいていすぐに数え終わる。

「今後も継続して考えていきたい」の瞬間に考察が終わる。

「戦い続けていくしかないのだ」と言いながら休んでいる。

「一人一人の力が小さくても」と語る人は自分の力が大きいと信じている。

「いつか伝わると信じて」に強い同調圧力がある。

「人はわかりあえない」をわかって欲しくて書いている。




心を直接揺さぶることばは突然矢のように飛んでくる。

「心を直接揺さぶる」なんていう陳腐なフレーズとは次元が違う。

「ほんとうのことば」を使いこなす人と実際に会ったことが何度かある。

そのとき、自分の口からリアルタイムで出てくることばに愕然とした。今でも辛い思い出だ。手汗が反応する。

自分が選ぶことばがどれもすべて、レンタル期限がとっくに過ぎているものばかりなのだ。空気が氷室のように冷えていく。外気と混じって氷がとけて、みやみずにうでわを付けて、ひのえさまに怒られる。




借り物のことば、かりそめのオリジナリティの中で、まれに出会う尊敬すべき人たちと語ることばがわからない。このわからないところがまさにぼくのアイデンティティなんだろう。

「わからないところがまさにぼくのアイデンティティなんだろう」を、たぶん一度どこかで読んだことがある。

2018年9月19日水曜日

病理の話(244)

がんの診療方法にはいくつものやり方があり、その説明方法もまたさまざまだ。

メカニズムが複雑だから、どの視点からがんを語るかによって、毎回違う切り口でがんの説明をしていることになる。

すると聞いているほうも、「こないだはああ言ってたのに、今日は比喩が違うなあ」みたいな混乱を起こす。

とにかく、単純な話に落とし込むのが難しい。

だから、今日の説明も、ぶっちゃけ「例え話」にすぎない。すぎないけれど「がん」の一端をつかむことはできるかと思う。



ある病気が「放っておいてもいいもの」か、「そのまま放っておくと際限なく増殖して体にダメージを与えるもの」かを判断する。

放っておくと際限なく増殖して体にダメージを与えるもの、というのがぶっちゃけ「がん」だ。

では、体の内部にあるがんが、将来(!)際限なく増えるかどうかを今見極めるにはどうしたらいいか……?

予言士でもないとそんなことはできないのだが、まあそれをなんとかやってみようぜ、と考えて調べた人がかつて何十万人もいた。今も何百万人もいる(単位はてきとう)。

で、そういう人たちが見つけた「がんのヒント」が、なかなかしゃれている。




がんはヤクザみたいなもので、がん細胞を直接顕微鏡でみればその姿形がどことなくいかつくて頭がおかしそうだということがわかるのだが、がんを直接みるというのはつまり、「がんを採ってこなければいけない」。

体を開かなきゃいけないわけだ。あるいは胃カメラとか大腸カメラをつっこむ。

がんだとわかっているなら、そういう負担も甘んじて受けよう。

けれどもまだがんだとわかっていない段階で、上から胃カメラ、下から大腸カメラ、お腹のあちこちをずばずば開かれてはたまったものではないだろう。

「がんとわかっていない段階」で、「顕微鏡でみればがんかどうかわかるよ」というのは、けっこう酷な話だ。

だから「がんのヒント」は、できれば体の外からあまり体に傷をつけずにアプローチできる方法で拾い挙げなければいけない。

どうすればいいか?




がんというヤクザが将来めちゃくちゃに増えるとき、「物資を集める」。

それも、周りに暮らしている善良な人々とは違うやり方で、こっそりと、泥棒をするように、大量に、「物資を集める」。

そうしないと思う存分増えられないからだ。

人間の社会といっしょで、ヤクザだというだけで商売は制限され、社会活動もかなり禁じられるから、やつらはつねに「周りの人々とは違うやり方」を選ぶ。

つまり……。

ヤクザそのものを直接みて調べることができないとき。

体のどこかで「物流が乱れていること」をみれば、そこにヤクザがいるのではないかと疑うことができるのだ。




体の中における「物流」とはなにか。

それは血流である。

血液の流れ方を調べる。

それも、臓器に入り込む細かい血管を逐一チェックする。

「造影剤」と呼ばれる薬を使って、CTやMRIなどで、臓器における「物流」をチェックする。

部分的に、正常の臓器とくらべて「乱れている」ところがあれば、そこはヤクザとしてどんどん増えようとしている悪の巣窟かもしれないとわかる。




造影剤を血管の中に流し込んで、CTでみるというのは、いってみれば「影絵」だ。体を開かなくても、外から光(X線)をあてることで、中の姿があらわになる。造影剤を使えば血流がより強調されて見やすくなる。

こうして、「がんを探す」ことができるようになる。




この例え話を進めていくといろいろわかる。

ヤクザが1人とか10人くらいで小規模に活動していたら物流の変化だけでは見つけられないだろうな、とか。

ヤクザ以外の理由でも、例えば事故や災害などで物流がいかれることもあるだろうな、とか。

極めてかしこいインテリヤクザは、周りの物流をまったくいじらずに生き延びることがあるだろうな、とか。

これらはすべて、がん診療を悩ませる原因になりうるのである。

2018年9月18日火曜日

サイコロばくちにはまった人はそりゃ丁半生活だろうさ

実家に帰って昔自分が暮らしていた部屋でごろごろしていたら、本棚に「通販生活」の雑誌が何冊か突き刺さっていた。ぺらぺらとめくる。そうかー通販生活かー。

通販生活を送るためには、「通販で好きなものをそこそこの量そこそこのタイミングで買えるだけの財力確保生活」を送らなければいけないんだけれども、「通販で好きなものをそこそこの量そこそこのタイミングで買えるだけの財力確保生活」の中をごっそり省略すればそれはもちろん「通販生活」なのであり、ああ何も間違ってはいないなあ、と納得をした。

いいかもなあ通販生活。

けれどなかなか、通販で好きなものを好きなように買えるほどの暮らしというのは、難しいからなあ。

欧風の家具とか、季節の寝巻とか、そういうのはちょっとなあ。




金の使い方については、偉い人がいろいろ言っている。そういう人に言わせると、ぼくの金の使い方はなっていないんだそうだ。

ま、ぼくは、金の使い方に一家言ある人というのがどうもあまり得意ではなくて、聞き流してしまうし、なんならその場ですみませんと謝り倒して話題を変えてしまう。

結局、金の正しい使い方なんて、そんなの日による((c)燃え殻さん)としか言えないよなあと、少しうんざりしている。




こういうことを書くと必ずどこかの誰かが「そりゃ自分で好きなように金をどうこうできる医者だからそういう余裕をぶちかませるんだよ」みたいなことを言ってくる。

けれどそういう人は結局一般化した議論を平均化した情報をもとに均霑化した視点で総論化して語ることしかできない。

なにを小難しいことを言っているのか、とお叱りをうけたなら言い換えよう、「そんなの人による」ってことだ。




そう。

ぼくらはみんな 人による。

人によるから 歌うんだ。

手のひらを 太陽に すかすかどうか

それもやっぱり 人による

みみずだって おけらだって あめんぼだって

みんなみんな 人じゃないけど 人によるんだ。




通販生活は性に合っていない。

ぼくは雑誌を閉じる。

そしてふと思う。

ツイッターで気になった本をホイホイAmazonで買ってしまうのは、通販生活と、どう違うのだろうか?

2018年9月14日金曜日

病理の話(243)

病理医の仕事は主に2つあって、

 1.病気に名前をつける
 2.病気がどれくらい進行しているかを見極める

である。これらは病理に限らず、たいていの医療者がやっていることで、2つあわせて「診断」という。病理医がほかの医療者たちと大きく異なるのは、この診断を顕微鏡を駆使して行っている、という一点に尽きる。

さて、顕微鏡をみれば病気の名前なんてすぐわかるだろう、だってモノを直接見ているんだから、などと思われがちなのだが、これが実に難しい。

難しいだけではなく、そもそも、時代によって名前がころころ変わってしまう病気がけっこう多い。がんも例外ではない。

昔、「内頸部型」と呼ばれていたとあるがんが、「通常型」という名前に変わった、なんてことがつい昨年もあった。

単に名前が変わっただけでしょ、とあなどってはいけない。

例えば、ダイエーホークスがソフトバンクホークスに変わってもホークスはホークスだ。しかし、オリックス・ブルーウェーブがオリックス・バファローズに変わったというのは、単に名前が変わっただけではないだろう。ここには「合併」が起こっている。

そう、病理の世界で……病気の名前が変わるとき、そこにはいつも、「合併」とか「分裂」のような、概念の変更が起こっている。

昔はある病気Aだと診断されていたものが、今はBという名前になっており、しかもかつてのEとかFという病気もこのBの中に含まれ……みたいなことがしょっちゅう起こっているのだ。

なぜこんな七面倒くさいことをするのか?




それは、病気の名前とか分類というものが、単に学者がよかれと思ってつけたものというわけではなく、

 ・対処法と密接に関連している

からだ。

ある形をしているがん細胞には、放射線治療が効きやすいとか。

がん細胞の表面にあるタンパク質が突き刺さっている場合、この薬がすごくよく効くとか。

ある遺伝子変異をもったがんだと、ある薬は全く効かなくなるとか……。

治療が進歩して複雑化すると、それに応じて、かつて同じ病気だった一群の中に、「ある治療に対する効き方の違い」が出現する。

医療者としては、「薬の効き方の違いによって病名を分けたほうが、対処がしやすいのでは?」と発想する。

だから病気の名前はどんどん移り変わっていく。




病理医の仕事は主に2つあって、

 1.病気に名前をつける
 2.病気がどれくらい進行しているかを見極める

である。ただ、これらは、「そこにある真実をみればいい」という類いの仕事ではない。現時点で人類が持っている「武器」を見極め、その武器との相性を加味した上で、その時代に応じた評価をしなければいけない仕事だ。

だから病理医は……いや、ちがうな、病理医に限らない、医療者というのは、この世が続いていく限り、ずーっと勉強し続けて、科学の進歩にあわせて変わっていかなければいけないのである。

2018年9月13日木曜日

12回

浅生鴨「どこでもない場所」がとてもよかった。

沢木耕太郎と椎名誠と須賀敦子のエッセイが好きだから、次は「せ」ではじまるエッセイストだなと思い、瀬戸内寂聴かなあ……なんて手にもとらずにまごまごしていたら、「あ」だったわけだ。

とまあここまではツイートしたのだが、その後ふと思い付いた。

浅生鴨というのはほんとうに「あそうかも」と読むべきなのだろうか?

これはもしかすると「せんなまかも」と読むのではないか?

あるいは「せんぶかも」とか。

「せんおいかも」かもしれない。

全国津々浦々に存在する難読地名だってこれくらいのアグレッシブな読み方はあり得る。

そうだ、「せ」なのだ。彼の名前はせではじまるのだ。

だからサワキ、シイナ、スガ、の次はやっぱりセンナマなのだ。

ぼくはとても納得した。彼の、闇に落下していく途中の人をとらえる空気感、旅先で絶句したときに耳の奥でぼそぼそとつぶやく声を拾ったかのような語調、パリやプラハが似合うたたずまい、どれもこれも、ぼくが今まで好きで読み続けてきたエッセイストたちが持っているようで持っていなかった、共通で持ってはいるんだけれどそれぞれ使い方が少しずつ違っていた、そんな武器だと思った。

だから彼はセンナマカモなのだ。ぼくはもう今日からそう決めてしまった。



彼のツイッターアカウントには「あそうかも。」と表記されているが、あれは、単に、彼が心の中で「あっ、そうかも。」とつぶやいているのを置いているだけなのだ。

実はセンナマなのだ。このことはまだぼくしか知らない。

もしかしたらかも自身もまだ知らないかもしれないのである。

2018年9月12日水曜日

病理の話(242)

医療行為には金がかかる。そして、その金は、ヤマイに苦しむ一個人にとっては非常に厳しい金額だ。

それはそうだ。

医療というのはその時点での科学の粋を集めたものである。最新の科学をもとに作られた薬も、手術用の道具も、いずれも高価だ。マックの新しいパソコンが2万円で売り出されることが絶対にないのと一緒である。

だから日本には医療保険の制度がある。

医療にかかるお金を、患者個人がその場で全部負担しなくてもよいような仕組みである。




で、今日したいのはこの「医療保険」の話ではない。

医療保険制度があるために、日本では、「どの医療にどれだけ金がかかっているか」を計算することが、ある程度可能となる。

病院がそれぞれ勝手にサービスの額を設定して、患者から好き勝手にお金をとったりとらなかったりしていると、日本全国でどのような医療が行われているかを把握することは極めて難しくなる。それこそ病院とかクリニックを一軒一軒、しらみつぶしに調査しないとわからない(してもわからないだろう)。

でも、患者がお金を払うときに、保険を使っているならば話は別だ。

保険によって患者の負担の一部を肩代わりしているのだから、保険で支払われた額をみれば、どれだけの患者がどのような医療を受けたのか、だいたいはわかるのである。



さて、この、「医療保険という窓を通して医療の実態をみる」というやつを、病理の世界で調べた人がいる。

その結果をみてぼくは、少しうなっていた。うーむ。






もともと、ぼくは知っていた。病院における「病理」には二種類のニュアンスがあるということに。

ひとつは、「病理検査」。

もうひとつは、「病理診断」である。

これらが保険診療上区別されたのは、実は、平成30年のことである(つまり今年だ)。

今年はじめて明確にふたつが分けられた。だから、現在医療者として現役で働いている人の大半は、この区別をよくわかっていない。病理には、検査というやり方と、診断というやり方がある。



前者の「検査」は、小さめの病院で手術を行ったとき、患者からとってきた臓器の一部や全部を、いわゆる検査センター(登録衛生検査所)に送って、そこで顕微鏡による細胞検査をしてもらい、最終的に検査を提出した臨床医が紙に書かれたレポートを受け取ることで完成する。

「というか、それは病理診断そのものでは?」

と思っている医療者は多いだろう。

けれどもこれは、「診断」ではない。「検査」だ。

最初に患者がかかった病院内で診断が完結しておらず、外部の検査センターに「外注」しして行われる医行為。「外注検査」の扱いである。

言葉の定義を問題にしたいのではない。検査と診断では、お金のかかり方も、誰が責任を負うのかも、まるで違うからだ。

外注先である検査センターが、患者に対して本当の意味で責任を負うことは難しい。見てもいない患者、話を聞いてもいない患者の、ごくわずかな体の一部分のみを顕微鏡で見ただけで、その患者のことを「診断」できるなんておこがましいにもほどがある。

だから、「病理検査」を検査センターに外注した場合、そこから帰ってくるレポートをみて診断を決めるのは、実は臨床医の仕事だ。検査センターの病理レポートはあくまで「参考意見」。血液データなどと同じように、すべては臨床医が考えるためのデータにすぎない。




では、「病理診断」とは何か。検査ではない診断というのは何なのか。

「診断」は、病理診断医が常勤で勤めている大きめの病院にのみ存在する。

臨床医が患者から採ってきた臓器の一部もしくは全部を、外部の検査センターではなく、「同じ病院に勤める病理診断医」(平成30年時点の原則)が、臨床の医療者たちと会話をしながら、臨床情報を十分に把握した上で、

 病理専門医として診断名に責任を負う

ことを病理診断という。




勘違いして欲しくないのは、検査センターで行われている「病理検査」が悪、病院で行われている「病理診断」が正義、というくくりをしたいのではないということ。

病理専門医の実数が少ない以上、臨床現場をうまく回していくためには、どうしたって検査センターが必要となる。

病理に関する情報収集を、検査というかたちで外注し、それをもとに臨床医が考えて診断を決めるという流れは決して間違ったものではない。




しかし、病理検査と病理診断、どちらのほうが「診断学」に対して複数の視点を提供できるか……。これはあきらかに「診断」のほうである。

 1.臨床情報をもった臨床医が、細胞のことをあまりわからないままに病理レポートだけを参照して「総合診断」をするシステム

と、

 2.病理診断医が細胞情報に臨床情報を加味して「病理診断」をするシステム

の、どちらが多角的な診断システムであるかはいうまでもない。






冒頭、ぼくは、

 ”「医療保険という窓を通して医療の実態をみる」というやつを、病理の世界で調べた人がいる。その結果をみてぼくは、少しうなっていた。”

と書いた。この話の続きをしよう。


厚生労働省のNational Data Baseによると、 平成27年4月から平成28年4月の1年間に、病理組織標本作製が行われた8,013,874回のうち、検査センターに標本が提出された割合は46.7~54.4%(病理と臨床 2018 Vol.36 No.7, 黒田一先生のリレー連載原稿より)。

つまり……。

全国で行われている「病理」の、約半分は、検査センターによって行われる「病理検査」であり、常勤の病理診断医によって行われる「病理診断」は残り半分しかなかった、ということ。



ぼくが日頃から、「病理診断というものは臨床情報を存分に加味して行うのがいい」とか、「臨床医ときっちりコミュニケーションをとることがだいじ」とか言っていた、「病理診断」なんてものは、病理検体総数の半分にしか行われていなかった、ということなのである。




繰り返すが、「病理検査」は別に悪ではない。

病理検査にも醍醐味はある。もちろん社会的意義も大きい。

しかし、ぼくがときおり若い人たちに「病理専門医はおもしろい仕事だよ」というときのニュアンスはもっぱら「病理診断」のほうだ。

それなのに病院が用いている病理の半分は診断ではなく検査なのだという……。



病理のことを知らない臨床医が「病理なんて何がおもしろいの?」と言ってくるのを、単に無知のせいだろうと片付けていたぼくは甘かったのだ。

「臨床医がつまらなそうに眺めている病理」が半分も存在するのだということを、ぼくは知らないでいた。せいぜい2割くらいだろうとたかをくくっていた。



そして、なんというか、メラメラと、燃え上がるものを感じた。

そうかそうか。国を変え、医療を変えるというのは、こういうことなのか、と。