2019年3月25日月曜日

なぜ今日

ホワイトデーにこれを書いている。

うっかり「お返し」を多く買いすぎた。

去年までチョコをいただいていた方が退職されたのを忘れていた。例年通りの個数を買ってしまった。

もはやすでに「もらったことに対するお返し」というよりも、「何かを差し上げる日」となっている。だからもらった数をきちんと確認せずに、いつもの数でお菓子を揃えてしまったのだ。

ま、そこまで目くじらをたてることでもあるまい。お菓子は、自分のために買っていいものだ。余ったら食う。食うために余らせる。




「さようなら」という言葉は元来、「左様ならばこれにて御免」のような長いフレーズの一部であった、みたいな話をずっと掘り進めていくのは楽しい。

けれども、だからといって、「さようなら」には「左様ならば」の意味を今でも込めるべきだ、とは、ぼくは全く思わない。

慣用化したフレーズには慣用化したなりの使い勝手というものがある。

習慣化したイベントは習慣にまかせて駆け抜けてしまっていい。

元は「甘い愛」に関連したイベントであったホワイトデーも、すっかり「甘い物体」の日として定着してしまった。少なくとも、ぼくの中では。

それが悪いとは思わない。ポジティブにとらえていきたい。




恵方巻きはコンビニの陰謀と言った人がいた。

資本主義に踊らされるな、クリスマスは仏教徒として過ごせ、みたいな人もいた。

彼らはあるいは冗談で言っていたのかもしれない。まあ食品廃棄はいけないことだと思うけれど、それは精神的な問題ではなく、どちらかというと需給バランスを読み違えた社会構造をなんとかすればいいという話だ。資源や食料を大切にしている限り、これらはとてもいいイベントだと、ぼくは思う。

ほんとは土用の丑の日だって、需給をきちんと整えておけば、悪くない日だったのにな。

ぼくはうなぎをもっと喜んで食べたかった。そういう21世紀だったら、今よりもうちょっとだけよかったな、と、思わなくもない。

2019年3月22日金曜日

病理の話(306)

「顕微鏡をみて病気を診断する仕事です」。

日頃われわれは、病理診断のことを、このように説明する。

実際には、やまほど言いたいことがあるのだが。



たとえば顕微鏡をみていない時間はとても多い。ほかにもみるべきものはいっぱいある。

けれども、一番イメージがしやすく、他と差別化しやすいから、「顕微鏡をみてます」と伝える。まあこれが一番キャッチーだということだ。

すると、たいていの人の脳内には、パッと顕微鏡が出てきて、少し前のめりで接眼レンズにメガネをくっつけた白衣の男が浮かぶようである。

このようにして病理医のイメージが整う。



昔はこれで十分だったのだが、最近は、脳内に顕微鏡を覗き込む白衣男性のイメージを植え付けた人々から、このように問いかけられることがある。

「『みて判断する仕事』ってことですね。ならば、この先AIが発達したら、コンピュータのほうが見て判断するのはずっと得意でしょうから、病理医はいらなくなりますね」

あなたもあるいはこのような物言いを、どこかで目にしたことがあるだろう。




こういう勘違いがちらほら見られるのにあわせて、ぼくらの説明方法も少しだけ進化した。

病理診断ってどんな仕事なんですか、と聞かれたら、

「顕微鏡をみて考えて語る仕事です」

と答えるのだ。




不思議なもので、「考えて」「語る」をつけると、とたんに「AIに奪われるんですよね」とは言われなくなる。

みんなAIが考えないと思っているようだ。

AIは語らないと思っているのだろう。

まあ考えるし語るんだけどな。




ぼくはこのあたりの話を、かつて、「いち病理医のリアル」の中で、「ドラえもんに会う前に」という章を設けて、とつとつ語ったことがある。

この章が一番人気があった。

AIはいずれドラえもんになるだろうか。

ドラえもんといってもポケットから便利な道具を出すロボットという意味ではなく、「のび太と普通に会話をできるロボット」という意味だ。

そんなの無理だ、という人はいる。

けれどぼくはいけるような気がする。

そして、ドラえもんに会えるようになった日、病理医を含めた大半の人間の仕事は「理論上」失われることになる。

理論と現実とはまたちょっと違うのだけれど……。

2019年3月20日水曜日

デンタリスト醍醐味

バラエティ番組の司会をしている人たちに共通する特徴というのがあって、まあもちろんこれはぼくが勝手にそう思っているだけなのだけれども、

「はじけるように、楽しそうに、笑う」

というものである。

有吉、松本、明石家、上田、などなど諸氏。

みな、アップで笑っているところを映されやすい。



さらに持論を続ける。

バラエティのゲストというのは、「笑い顔やリアクションをワイプで抜いてもらう仕事」ではないかと思っている。

これに対して司会者は、「笑い顔やリアクションを全画面で映してもらう仕事」。

ぼくは両者の違いをこのように考えている。



司会者として名をなす人々に共通するのは「毒舌の回数以上に笑っている回数の方が多い」ということ。

毒舌が多いか少ないかはともかく、笑顔>毒舌であることは確実だと思う。



「良く笑う人ばかりが司会者」であることはおそらく、適者生存の論理というか、ある種の「選択圧」がかかった結果ではないか。

視聴率が瞬間的に上がったシーン、下がったシーンみたいなものをじっくり秒単位で検討したところ、これらの司会者が画面に登場して笑ったシーンで軒並み視聴率がよかったのではないかと予想している。

逆に、笑いが少ない、笑い顔があまり映らない司会者のときは、視聴率が秒単位でちょっとだけ悪くなったのではないか。

以上は勝手な予想だ。でも当たってる気がする。根拠はないけど。確信に近い。理由は「勘」。

いろいろなやり方をしている人たちが、さまざまにテレビに映って、結果的に数字が良かった人たちが残るというのを繰り返していたら、よく笑う人が今こうして残っているんだろうな、という想像である。

専門家の人からするとつっこみどころはあるかもしれない。

けれどもぼくはこの件に関しては、別に「真実」に興味があるわけではないのだ。

そう信じたい、ということである。




笑顔というのは一番「作れない」表情だ。

作り笑いという言葉があるだろう。つまりは、「作るとバレてしまう」からこそ、こういう言葉が市民権を得るのだ。

では、どういうときに笑顔が「出る」か。

自分が機嫌良いから、あるいは機嫌良いよと周りに伝えたいから、笑顔。

自分が好きなことばかり目に入ってくるから笑顔。

これらは微妙に違う。

人を笑わせるための笑顔というのもある。

人の笑いに引っ張られる笑顔というのもある。

自分から自然に出てくる笑顔がどの類いのものなのかを知っておくことは、「司会者」という強力なメソッドにチャレンジする上で有効なのではないかと思う。




テレビに出たい人がいるとして。

ゲストを目指すのはいいが、誤解を恐れずいうならば、夢が小さいと思う。

世に何かを届けたいと思うなら、司会者を目指した方がいい。

オリンピックもワールドカップも目指さないサッカー少年というのがいてもいいけれども、そういった場所にたどり着くのは、「目指した少年」だけだ。

同様に、伝えるために必ず司会者になる必要は全くないのだけれども、あの場所にたどり着かないと、おそらく、いつまで経っても「届かない」ことを嘆き続けるしかないのではないか、と思う。

2019年3月19日火曜日

病理の話(305)

毛というのはいったい何の役に立ってるのかなあ、と、考えたことはないだろうか。

保温?

防御?

頭にある毛が何やら頭蓋骨を守るためなのではないか、というのはわからないでもない。

寒い地域では毛むくじゃらになって保温したのかもしれない。それはまあいい。

でも南方に生きる人はどうだ。たとえば赤道直下とか。

あんな暑い地域でチン毛生やしてる意味ってあるのか?

少なくともぼくは、意味わかんない。

大事なところに毛ってのは意味わかんない。あなたはわかるか? わかんないだろ?

大事なところだから物理防御? 毛で? 骨はやせよ。なんで毛なんだよ。





人間ってのは猿に比べると毛が少ない、すなわち、今は退化の途中だ、だからそのうち毛は全部なくなる、という仮説なら、わからないでもない……。

けどさあ、だったらさあ、なんでお腹の皮とかの毛が先に退化してるのに、ヒゲとか脇とか陰毛とかは「退化が遅い」んだよ。

なんでチン毛を最後まで残すんだよ。




……不思議だよねえ。




この不思議に、明確な「答え」はない。

ただ、ぼくは髪の毛が単なる「保温」とか「防御」の役割だけを果たしているとは思っていなくて、別にひとつ、答えを持っている。合ってるかどうかはわからない。

ググりもせず、論文も探さずに書いてしまうので、「ほんまでっか!?」くらいの気分で読んで欲しい。





今、人間に生えている毛は、防御とか保湿のため(だけ)ではなくて、「油脂を皮膚に供給するついでに生えている」んじゃないかなーと思っている。





勘違いしないで欲しいんだけど、鼻毛はきっと異物を取り除くために生えているんだろうし、髪の毛があるていど防御の役に立ってるのも間違いないとは思う。いくつかの毛にはちゃんと機能はある。

その上で。

比較的ツルツルに進化(退化?)した人類において、外表に毛が未だに生えている部分がどこかと考えていくと、なんとなくだけど、油脂分の分泌が多い場所かな、と思うのだ。

油脂分というのは、どこから分泌されるか、ご存じか?

毛穴からである。

皮膚は、毛穴以外の部分を「扁平上皮」によって覆われている。扁平上皮は、あまりに完璧な防御機構を持っているため、異物を決して体内に入れない見事なバリアの役目を果たすが、代わりに、体内から何かを外に出すこともできない。融通が利かないガンコな壁だ。

そこで、汗腺と呼ばれる穴を扁平上皮のスキマに開ける。これにより、体内から外に水分を出すルートを作る。ここから油脂分も分泌されている。

で、だ。

油脂というのは、べたべただ。

パイプにべたべたなものを流していると、詰まる。詰まると困る。

だからパイプの中に、「常に外側に向かってゆっくり移動しているベルトコンベア」を配置する。

そうすると、べたついた油脂分が、ベルトコンベアにのって体外に押し出されていく。

おわかりかと思うが、毛髪というのはこのベルトコンベアの役割を、(知らず知らずのうちに)果たしているのではないか、と推測している。



そこで考えるのは脇の下とか陰部だ。

ここでは、油脂分をいっぱい出す必要があるんだろう。

だからベルトコンベアが産毛じゃ足りなくて、けっこうしっかりした毛にしてあるんじゃないか。




となると今度は、「なぜ油脂分をいっぱい出す必要があるのか」を考えなければいけない。

陰部は、なんとなくわかる。排泄や生殖を司る場所だ、常在菌の態度が変わったりするんだろう。だから皮膚の環境を保つためには油脂分を含めた複雑な分泌が必要なんじゃないかなあ。

でも、脇の下はどうだ?

ぼくは脇の下がなぜ特別扱いされているのか、ほんとうに、よくわからなかった。




しょうがないのでちょろっとググる。

「脇の下からはフェロモンが出る」。

ゲェーッ

ほんとかよ!

フェロモン! ここにきてフェロモン!

ヒト医学にはフェロモンという言葉はあまり出てこない(出てくるのかもしれないがぼくは知らない)。

フェロモンは油脂分なのだろうか。それすら知らない。

人は脇の下から発散されるフェロモンで求愛されている、というのか。

うっそだあ。

そんなことないと思うけどなあ……。




まあ知らんけど、ほんまでっか!? くらいの気分で読んで欲しい。

サイエンスだってたまには雑に語っていいと思うので。だって毛だぜ。





※でも今日の話、めっちゃ書くのに時間かかった。雑に語ったとか言っといてこれである。ツンデレかよ

2019年3月18日月曜日

ものすごいくしゃみの擬音みたいなアレ

「こんだけ働かされて今さら時間外もへったくれもあるかよぉ」

なるつぶやきを見て、へったくれとは何なのか、と少し気になった。

ググり続けていると、へったくれの「くれ」は「あらくれ」とか「飲んだくれ」と同じような意味ではないか、みたいな、本質にかすっているのかどうかよくわからない知識がいくつか手に入った。結局「くれ」とはなんなのだ。そして「へったくれ」とは何のことなのだ。

「へちまがまくれたもの」?

へちままくれ へちまくれ へっちまくれ へまっくれ……

へちまがまくれてへったくれになるだろうか?

なんだかウソっぽいなあ。「まが抜けている歴史」ではないか。




さておき。

ネットのなかった時代に、「へったくれとは何なのか」を調べようと思ったら、とりあえず辞書とか辞典のようなものを調べるしかなかったわけだ。それに比べりゃ、今のほうが、まだましか。

昔は辞書とか辞典が全てだったんだよな。

じゃあその辞書というのは、いつからこの世の中に存在しているのであろうか。




辞書 いつから で検索をする。

すると、日本最古の辞書は空海が作ったのではないか、という説が出てきた。漢字のお経をきちんと読むための漢和辞典みたいなものだろう。たぶん。

真贋はともかく、うーん、確かに空海が最初に作ったものというインパクトには心惹かれるものがあるけれど、

「へったくれって何なの」

という疑問に答えてくれているようには思えない。

ぼくが考えている、実学や雑学がたっぷり詰まった辞書とは、ちょっと違うなあと思った。

「いつの間にか世に広まって、広まりすぎて、いつしか語源がわからなくなったけどみんな当たり前のように使っている言葉」の、歴史とか、由来とか、隠れた意義とか、そういうことをきちんと書き記した書物。

いったいいつから歴史に登場したのであろうか?

この疑問は、結局、調べても調べてもよくわからなかった。

Googleは博物的な事象の羅列にはかなり強いけれども、時系列をどんどん遡るタイプの検索には(強いことは強いけど)もろいこともあるなあ。

今この瞬間に世の中にあるモノについては、とても多くの人々が一斉に調べて、書いて、探って、とやっている。

けれども過去に生じたことは、過去の段階で記録していなければ、あとはもう考古学といっしょで、推理して仮説を打ち立てるところまではいけるのだけれど、その先の「こたえあわせ」は決してできないのだった。




仮説形成法(アブダクション)は、ぼくの仕事においてはかなり重要なのだけれど、帰納法や演繹法に比べるとちょっと立場が弱い、脳の使い方。

きらいではない。むしろ好きだ。

「へったくれの由来は、へちまがまくれたものじゃないかな。」

「辞書をはじめて作ったのは、空海さんだと思うよ。」

これらの仮説がどれだけ確からしいのかをじっくり調べていく作業は楽しい。

けれども、うん、Googleには荷が重いなあと感じる。

アブダクションはビッグデータやAIとの相性が、良いようで、悪い。

アブダクションは人間がアナログな脳作業でやっていかなければいけないんじゃないかなあ、と思う。

2019年3月15日金曜日

病理の話(304)

先日、「はやぶさ2」が小惑星リュウグウにタッチダウンしたニュースを見た。すごいねあれ。

だってとんでもない遠隔操作でしょう。

着陸時のプログラムを途中で変更した、とか言ってるけど、その変更したプログラムを届けるのに、どんな魔法を使ってるのか検討がつかないよ。たぶん電波かなんか飛ばしてるんだろうけど。

だってぼくら、ちょっと地下に入ったらスマホ圏外になったりする暮らしをしてるわけじゃん。

星の向こうだぜ。圏外とかどうやって解決してるんだろうな。



それに、ソフトウェアのプログラムは多少なりとも書き換えられるかもしれないけど、ハード……本体のほうは、一度宇宙に飛ばしちゃったらもう変更しようがないじゃない。

どうするんだろうな。たとえば途中でアンテナが一本折れたりしたらアウトでしょ。太陽光とか紫外線とかの影響で表面にダメージ受けてもだめじゃん。

はーすごいなあー。ありとあらゆることを予測しておいて、備えて、最初に作っておいて、送り出したらあとはもう最低限の制御しかできない状態で、小惑星の砂とか小石を拾ったりしてるんだもの。

たいしたもんだよなー。




……ってことを、人体の中で、あらゆる細胞がやっている、と考えられる。

父親と母親から受け継いだ受精卵には、「すべてのプログラム」があらかじめ入っている。この受精卵ひとつが、最初は母親の胎内で庇護を受けながら、あるとき、世に放たれる。生まれたら周りの人はさまざまに、かいがいしく、世話をやく……。

けれどもさあ。

そのお世話はさあ。人体のプログラムを動かすためでは、ないじゃん。

栄養をあたえたり、熱や物理的ダメージから守ったり、排泄を手伝ったり、というメンテナンスはできるよ。周りの大人ががんばってさ。

それでも、たとえば、脳を発達させるとか、手が器用になるとか、胃腸が強くなって食べ物を消化吸収できるようになる、みたいな、「体内でプログラムがうまく作動して、何かを成し遂げること」については、どんなすごい大人であっても、基本、手助けができない。

ぜーんぶ、生まれ持ったプログラムである「DNA」が成し遂げることなんだよな。




そう考えると生命というのは、はやぶさ2よりもさらにちょっとすごい、「遠隔制御前提の超絶プログラム」を搭載しているってことになる。

しかも何十年も継続稼働するんだからたいしたものだ。




で、その、プログラムに、多少なりともエラーが出てくるというのは、これはもうしょうがないことだ。加齢と共に「DNAのプログラムエラー」の結果、「がん」という難儀な病気ができてくることは、ほんとに、悲しいことだけど、避けられないことでもある。

ただそのプログラムエラーすら、人間は今や、なんとか修正できないものだろうかと、考えているのだけれども……。

2019年3月14日木曜日

いんようラジオもひとつのかたち

「病理の話」は300回を超えた。

今までもやってきたが、今後はもっと、昔書いた内容を定期的に掘り返して、今の読者に伝える作業をしたほうがいいと思っている。

 バックナンバーにありますから、というのは不親切だろう。SNS時代なのだから目の前に飛んできた記事にライトにアクセスしてなんぼだ。バックナンバーを掘り返すような奇特な人は、ぼくのフォロワーにはせいぜい1000人くらいしかいない。

昨日の記事にも書いたけど、説明を繰り返すごとに上手になる場合と、説明を繰り返して飽きてしまって雑になる場合があるので、そのあたりはきちんと意識して、丁寧に書き直しをしていこうと思う。

がんの話なんてのは何度語っても語り口が変わってしまう。どれが一番いい、ということもなく、記事によってアプローチするクラスタが少しずつ変わっているのだろうな。




たとえば今日の記事のような、「病理の話の間に挟まっている記事」についても触れておく。

これはつまりエッセイだ。病理の話「以外の話」なので、オールジャンルであり、ノンジャンルである。基本的に本の話が1/3くらい。あとは旅先で思ったこと、自室で考えていることなどが多い。

管理者権限でアクセス数を見ていると、病理の話も、それ以外の話も、アクセス数は毎日ほとんど変わらない。たぶん定期的に見てくれる人や、定期的にRTしてくれる人がいるからだろう。ありがたいことだ。

ぼくはもともと、「病理の話だけでは世に届かないだろう、だから一般的な話やキャッチーな話などを交互に織り交ぜて、幅広い人々に読んでもらいたい」という計算をして、このブログの「書き方」を決めた。

でも一般的な話と病理の話のアクセス数は結局変わらない。そうなのか、おもしろいなー、と思う。

タイトルが毎回「病理の話」のものと、タイトルを毎回変化球気味に設定している記事のアクセス数が変わらないのだ。広告代理店だったら首になるレベルである。



実際のところ、このブログの読者が何を思い、どういうところに引かれて記事を読みに来ているのか、ぼくはあまり「対策」していない。

どちらかというと多くの手数で違ったアプローチを「し続ける」ことに重点を置いている。ぼくの使える媒体がもしブログだけだったら、もう少しいろいろな対策をしたかもしれないが、Twitterもnoteも紙の書籍も、学術研究会での講演や論文執筆、さらには日本病理学会の学術評議員活動もあるわけで、これらにはそれぞれ異なる「読者・視聴者」がいるわけで、それぞれに少しずつ本気を出していくというのが現状、ぼくが信じている「一番広く届く手段」なのだ。



たぶん世の中には「もう少し手段を減らしてリソースをつぎ込んだほうがいいものが出せるタイプの人」がいる。一方のぼくは八方美人であり、単一の手段に依存していると自分が飽きてしまう。

こういうやり方で届く人も届かない人もいる。ぼくのやり方がうまく届かない人に対しては、ぼくとは異なるやり方で、ぼくがいいと思う手段をとっている人を、ツイッターで例えるところの「リツイート」していくのがいいだろうな、と思っている。

そうすれば、望外に集まったこのフォロワー数を、一番活用できるのではないかな、という話だ。




あと3か月ほどしたらnoteをはじめる(追記:この記事を書いたあとに結局すぐはじめました: https://note.mu/dryandel )。書く内容は、三省堂池袋の「ヨンデル選書フェア」に出した本の書評だ。数日おきに125冊程度を紹介する予定である。noteにはバックナンバーを参照しづらいという大弱点があるのだけれど、書評なんてものは日々移り変わっていってなんぼなので、かまわないだろう。もはや病理とは何の関係もない、ある意味ぼくにとっては一番エッセイっぽい企画であるが、もしかするとその書評こそが一番届く奇特な人も、世の中にはたぶんいるだろうな、と思っているのである。