2019年7月18日木曜日

ジャングルをさまよったおじさんの話につなげる神展開

「あやしうこそものぐるほしけれ」

というフレーズを目にすると、なぜかわからないけれど、盛夏の候に、いなかの一軒家で、かやをつった畳の部屋にふとんをしいて、うちわを手に持ったまままどろんだり寝返りをうったり、寝苦しい夜を過ごしている、サツキとメイ(トトロ)、という絵面を思い浮かべる。

ものぐるほし → 寝苦しい が混線してしまっているのだ。脳の不具合である。

修正する必要もないので放っておいているけれど……。

だいたいなぜサツキとメイなのだろう。

たぶんぼくが思いもよらないような、シナプスの混線があるんだろうなあ。

あやし あたりかなあ。

うーん、わかんねぇな。




脳の混線については、今のように、理由がわかる混線と、理由がわからない混線がある。

イッテQとかをみていてクジラが出てくると、老人が舟にのったシーンが出てくるのは、これはもう間違いなく、『老人と海』からの連想だろう。でも老人と海で老人が戦うのはクジラではなくカジキだったはずだ。つまり、『白鯨(モービーディック)』とも混線しているのである。もっともぼくは白鯨を読んだことがないのだけれど。なんか単行本の表紙かなにかで混線しているんじゃないかなあ。




何度か書いたことがあるのだが、サカナクションの『Klee』を聴いているとヘルシングの少佐が出てくる、というのは単純にこの曲を最初に聴いたときにヘルシングを読んでいたからだ……。

いやまってくれ、ぼくはよく考えたらヘルシングを読んでいないんだった。

かつて2ちゃんねるで一時代を気づいた「AA系の二次創作」で、少佐のアスキーアートがしょっちゅう出てきたからだ。ぼくはたぶんはじめて『Klee』を聴いたときには2ちゃんねるを見ていたんだと思う。

あぶない。記憶が混線どころか捏造されているではないか。





先日、中島京子『夢見る帝国図書館』を読んでいたら、その中に、本筋とはあまり関係ないのだが、『かわいそうなぞう』の話が出てきた。ぼくは象の花子は生き延びるのだと思っていたので、花子が最後に死んでしまうという意味の描写(くりかえすが中島京子の本編とはなんの関係もないので安心してほしい)を読んだときに、軽くめまいがするほどの衝撃をおぼえた。

あれ……花子って死ぬんだっけ……。

記憶をいそいで掘り返すとそこには、ポカンと口をあけて、涙をながしながら、ひざまずいて、少年と猫型ロボットに手をふる飼育員の記憶が眠っていた。

そうか、そうか、ドラえもんのあの話だ。

あれは「改変」だったんだなあ。

これまで、まったく気づいていなかった。





脳がときおり混線するのは迷惑だ。

しかし、おもしろいことに、ぼくはその混線によってしょっちゅうしみじみとしている。

文学を読むことは混線の機会を増やす。

ぼくの脳は加齢によって溶けていくだろう。そのとき残ったストーリーは、あるいは世の中の人からは「ボケているな」としか思われないかもしれない。

安心して欲しい、記憶が混線して再構築されていくのは、老人の専売特許ではない。

ぼくは、今、たぶん脳が全盛期だと思うけれど(知らんけど)、すでに、バグっているぞ!

2019年7月17日水曜日

病理の話(344) 再現モデルって本能なのかな

ちょっとぶっそうな話で申し訳ないんだけれど、わかりやすいので例え話からはじめます。

大きな交通事故とか、傷害事件とかがあったときに、テレビでよくある「再現CG」ってあるじゃない。

コナン君に出てくる黒ずくめのファンキー色違いみたいなキャラクタが、いかにもCGっていう遠近感抜群の格子の中で、ぎこちなく動いたりするでしょう。

で、どういう事故・事件だったかをこちらは瞬時に理解するわけだよ。

別に、人間はね、仮に文章だけであっても、事故や事件の内容を想像して理解することはできるんです。ほんとはね。

でも再現CGって必ずといっていいほど、やるでしょ。もう当たり前になっちゃったよね。

もちろんテレビ局はそのほうが視聴率がとれるからやってるのかなーって邪推するけれども、視聴率うんぬんじゃなくてもさ、再現モデルがあったほうがわかりやすいってのはもう間違いないと思うんですよ。




でね、科学者もね、けっこうそうだと思うわけ。

アインシュタインは脳内だけで相対性理論をつくりあげた、みたいな逸話があるけれどね、ぼくらはアインシュタインの言ってることを理解しようと思ったら、必ず「モデル」を考えるんだよね。アインシュタインの脳には勝てないので。

たとえば特殊相対性理論の説明では高速ですれちがう電車みたいなのを想定させられるし、一般相対性理論の説明では落下するエレベーターの話が必ず出てくるんだよ。あとは鉄の玉でへこんだクッションみたいな絵も必ず出てくるね。

これはつまり、高度な理論物理の世界であっても、人とイメージを共有しようと思ったらモデルを使うことが便利だってことが、みんな、なんとなくわかってるからだと思うんだ。




何を当たり前のことを……。

例え話したらわかりやすいのあたりまえだべや……。

再現VTRがあればそりゃわかりやすいべや……。

CGで説明してくれたほうが早いに決まってるべさ……。

って思った北海道人はこの中にいるかな。

でも、これ、いうほど当たり前じゃないと思うんだよ。ぼくらが当たり前だと思ってしまうくらいに、なじんでしまっているだけでね。

脳は、正確性よりも、「たとえ」とか「わかりやすさ」とか「モデル」を介したほうが結果的に全体像を理解するのが早くなっている。そういうふうにできている。

よーく考えるととっても不思議な話だ。

だって外界から余計なエピソードが入力されればされるほど、脳に関係ない情報が蓄積するんだよ。例え話ってのはそのものずばりじゃないわけで。情報処理の効率だけを考えるならば、本当にあったこととは微妙に細部が異なっているはずの「モデル」を介して情報を理解しようとするなんてのは、遠回りなはずなんだから。

でも実際には、脳はかたっぱしからいらない情報を捨てていくシステムを有している。だから、ある程度の回り道や、余計な修飾があっても、結果的には不要な部分を容赦なく捨てていくので、脳の限りあるストレージを無駄遣いしなくてすむようになっている。

捨てていくシステムって何かって? それは「忘れる」ということだ。

うーん、ここつなげちゃうと乱暴って言われるだろうな。

でも言っちゃおう。

脳ってのはね、忘れるシステムを内蔵しているから、乱流のように流れこむ情報の中で、文字通り取捨選択を行って、適切な情報だけを解析し続けることができる。

おかげで、本質をいったん例え話、すなわち「モデル」に落とし込むことで、全体像をぼうっと理解してから、次第に本質に近づいていくような解析も可能になるんだ。




ぼくらは忘れん坊なおかげで、わかりやすい例え話を介したフワフワした会話ができて、人生の幅が広がっているってことだよ。

まあ今ぼくが言ったこともすっごい雑な話で、ある意味、脳という複雑な機械を解釈するための、ひとつのモデルにすぎないんだけれどね……。

だって今回の記事自体、さいしょっから、「例え話でごめんね」っつってスタートしてるべさ?

2019年7月16日火曜日

harakiri kocoronoツアーというのが昔あっての

5年前、10年前の自分が考えていたことはたいてい、誰かに対する配慮が足りていない。

自分の目から全く見えていないところを、気遣うことができなかったからだろう。

いろんなものが見えてくることで、ああ、ここにこんな立場の人もいたんだなと、恥ずかしながら気づきませんでしたと、少しずつ気配りができるようにはなってきていると思う。

でも、今も、多くのものが見えていないままだ。だからずーっと配慮は足りないままだと思う。

気付いたところから少しずつ、ごめんねごめんねと直していく。修正パッチまみれになって年を取る。




あまねく世界を見通すことは一人の人間には無理だ。ネットワークが配備されてすみずみまで電気がいきわたり、あらゆる路地に光が当たって、はじめて、あーこりゃ全部見るなんて無理だなってことがわかる。

Google mapの全画面をみたことがある人が世の中にいるだろうか?

気配りつったって配る気も無限ではないのだ。





こういうことを書いて、だから自分はもう気配りはあきらめる、と結論するとさすがにひでぇなと思う。永遠に気配りを進化させていこうと決意することはたぶん論理的ではない。けれども感情的には気配りをあきらめてはだめなのだと思う。

ただ、他人の気配りに期待することはやめよう。ぼくはそう思った。

ほかの誰かが、自分の何かに対して全く気を配っていないときに、不快だとか辛いとか思うことが傲慢なのではないか、と感じ始めたのだ。

ああこの人は、ぼくのここにあるものが見えていないんだろう、それはしょうがない、だってこの人はぼく以外にも見るものがいっぱいあるんだもの。

そう考えないと、自分に対して気を配っていないあらゆる人に腹を立て続けなければいけなくなってしまう。





日替わりどころか秒替わりで、瞬間・瞬間ごとに、違う人のかけらが突き刺さってくるSNSに暮らしている。自分が目にするものの9割9分は自分に対して気を配っていない。あたりまえだ。だからいいのだ。それがいいのだ。自分に気配りをしてくれ、気を遣ってくれ、配慮してくれ、と、甘えて叫んだ声に誰かが答えてくれることはない。各自が自分のもっている「心」を、自分の目に見える範囲で、気まぐれ半分、優しさ半分くらいで、ちょっとずつおすそわけするくらいで手いっぱいなのだ。人間の心配りなんてものには、もう期待しない方がいい。





それでも配ってほしいと願うならば、それはもう、人間の気や心のキャパシティを超えているのだから、社会とか、複雑系とか、AIとかに、心を与えていくしかないのではないか。

人間より心が広いものを作り出せば、あるいは、誰もが心を配られる世界というものが、見えてくるかもしれないではないか。





こう書くと、AIブームが嫌いな人に対する配慮が足りない、とののしられる可能性がある。

2019年7月12日金曜日

病理の話(343) きれいに整頓したいという本能と実益

「ゴミ箱診断」という言葉がある。

あんまり印象がよろしくない言葉だよね。

だから、たいていの医者は、市民の前では使わないようにしている。

けれどもこれはけっこう有名な概念だ。

なんと英語もある。

Wastebascket diagnosis ( https://en.wikipedia.org/wiki/Wastebasket_diagnosis ).

そのまんま「ゴミ箱 診断」である。



このイメージはひとことでは説明しづらいので、ちょっと想像力を働かせてほしい。




あなたは今、おもちゃがいっぱい転がっている部屋にいる。

レゴブロック。ダイヤブロック。

モノポリーとか人生ゲーム。

Nintendo 3DSやSwitch。

ぬいぐるみ。

仮面ライダーの変身ベルト。

シルバニアファミリー 森のおうち。

ポケモンカード。

まったく、こんなにちらかして……こまったものだね。

あなたは少しずつ整理整頓をする。

レゴはレゴでまとめて箱に入れよう。ダイヤブロックとまぜてはだめだ。

モノポリーのお金と人生ゲームのお金を一緒にしないように、注意。

Nintendoゲーム類はハードごとにまとめて……。

ぬいぐるみはどこか一か所にかわいく並べておこうかな。

仮面ライダーと戦隊モノを一緒にすると、大人はなんとも思わないけれど、子供は腹立つだろうな。

シルバニアファミリーのおうちの中に、お兄ちゃんのフィギュアをおいといたらだめだよ。

ポケモンカードと遊戯王をまぜてはいかんのじゃ。




部屋はあらかた片付いた。ところが、ひとつ、見たことのないおもちゃがある。

これはどうも新しいゲームのキャラクタなのかな。あるいはアニメかもしれない。ただ、あなたはこのキャラクタを見たことがない。いわゆる食玩の類いで、小さい人形みたいな形をしているのだが、一部を押すと光る。電池は入っているのかもしれない。

トイストーリーかなあ? でもデザインが違う気がする。

こういうものを、シルバニアファミリーのおうちの中に入れておくと、あとで怒られるだろう。

3DSで使うAmiiboにも似ているけれど反応しないようだ。

しょうがないので、「あとで子供に聞いてみて、なんのキャラクターかわかったらそこにしまう」ことにする。

それまでの間、「どこに入れたらわからないおもちゃのためのカゴ」というのを用意して、そこに入れておく。ほかのものと混ざらないように……。





みなさんもう予想しているだろう。

最後にでてきた、「どこに入れたらわからない、分類できないものを一時的に入れておくためのカゴ」のことを、英語でwastebascketと表現し、日本語でゴミ箱と言ってしまっている。

ゴミじゃないんだよ。分類不能ってことなんだ。価値はきっとある。わかる人にとってはね。

でも、おもちゃってのは無限にあるので、どうしたって分類して整頓できないものが出てくる。そういうのを、暫定的にしまっておく箱というのが必要なんです。

それが、おもちゃじゃなくて、病気を分類・整頓するときにも、起こりうる。




従来の病名決定法、診断法ではどうにも名前をつけられないものに、とりあえず仮の名前を付けておくことを、「ゴミ箱診断」と表現するのだ。

なんだか雑な名称だよね。患者からしたらあまりいい気分はしないだろうな。






でもこのゴミ箱、実は、科学的発見の宝庫でもある。

だって、それまでの知識ではどこにしまっていいかわからないってことは、未知だってことだからね。

これから新しく知識が増えることで、思いもよらなかった新しい病気の概念ができあがるかもしれない。

そして、治療法が決まるかもしれない。

病気の名前をつけるってのは、昆虫とか水生生物の名前を付けるのとはちょっと意味合いが違う。名前を付けて整理整頓すること自体にも大きな魅力はある、それはそうなんだけれど、病気の場合は、さらに「治療法が選べるようになる」というすごく大きな意味がある。

ゴミ箱診断されているものが、いずれ、その病気がおさまるべき正しい箱へと、整頓されますように……。

病理医は、ときおり、そんなことを願う。

2019年7月11日木曜日

イベントのことはすっかり忘れていた

のんびり働いていたらDMが来た。

大きな医療情報啓発関連イベントの企画に関するものだった。

ぼくは今回そのイベントに際し、ゲストではなく企画側として、立ち上げ時から関わってほしい、と事前に聞いていた。いよいよ企画が動き出したのだ。



ツイッターのDM通知はスマホに届くようにしてある。職場のデスクにおいてあるスマホがブーンブーンと長めに2回震えたらツイッターのDM。短く2回ならラインかSlackだ。3回だとメール。バイブレータのパターンがうまいことばらけてくれて、助かっている。

ブーンブーン。

これはツイッターのDMだとわかる。

この振動を聞いたら、パソコンでツイッターのDM欄を開く。リアルタイムでDMがストックされていく。いちいちスマホを手に取るよりも簡単でいい。スマホは伏せたまま放っておく。あとでまとめて通知を消去すればいい。

ぼくは公費PCに向かって仕事をしながら、私物PCの画面に表示されたスレッドにDMがたまっていく様子をちらちらと眺めていた。

グループのほかのメンバーがやってきた。

ブーンブーン。

4人目もやってきた。

ブーンブーン。

明日、Web会議をするという。

ブーンブーン。

ブーンブーン。

……あれ。

画面に確認できるメッセージの増え方と、スマホの鳴動とが、今、一致していなかったな。

数秒の違和感のあとに、ぼくは仕事の手を止めて、スマホをみた。

DMのアイコンが、1個ではなくて、2個表示されていた。

少しの混乱の後に、理由を察した。そうか、たまたま、このタイミングでもうひとつ、全く関係ないスジからDMがきたのだな。

ぼくはあらためてパソコンに向き合い、TwitterのDM画面を開き直す。

そこには確かにもう1通、先ほどのスレッドと関係ないDMが来ていた。

ある作家からだ。

送ってきて全く不思議というわけではないが、しかし、ぼくが尊敬するクリエイターである。唐突な連絡にぼくは瞬時におびえた。いったい何事だろう。

ツイッターのDMは、長文だったり、複数に分けて送られてきたりしている場合、メッセージの「一番新しい部分」が表示される。一番下の部分が出てくるわけだ。時系列順に読もうと思ったら、マウスを握って、スクロールで一番上に遡らないといけない。

果たしてそのDMも、チラ見しただけでは用件がわからない、長いものだった。

ぼくはマウスでメッセージの最初を探してスクロールをかけた。

……思った以上にずっと長い。

せいぜい0.5秒くらいのことだがぼくは不安になった。何があったんだ?

なんとそれは短編小説だった。ぼくはすかさずひとつの可能性に到る。

「送信相手を間違えたのだろう」。

おそらく編集者か誰かに送るはずだった原稿を、アイコンの色が似ていたなどの理由でぼくに送ってしまったのに違いない。

ぼくはこのDMは消去されるのではないか、と思って、5秒ほど待った。

しかし5秒後、ぼくはその小説を、冒頭から猛烈な勢いで読み始めた。

消えてしまう前に。ぼくはこれを読んでしまいたい。

尊敬する作家だ。できればすぐに、「送り先を間違えていらっしゃいませんか?」と返事すべきだと思った。

許される時間は5分。いや3分だ。

ぼくは2分で小説を読み終わった。

薄暗いライブハウスの中にぎっしりと人が詰まってモッシュを繰り返している、その中を、当たり判定を失った透明なぼくが、まっすぐ突っ切っていく。

高速で読み終わったぼくの頭の中は風景と情念で満ちてしまった。

落ち着きを取り戻さないままにDMを送る。

「送り先を間違えていませんか?」

しっかりと盗み見たあとで。





すると、何分もしないうちに、意外な返事が返ってきた。

「なんかそういうことをやりたかったのだ」という。

つまり送り相手はぼくでよかったのだ。

だったら、じっくりと読んでよかったのだ。

ぼくは、本当に読みたいと思っている作家の作品を、信じられないくらい早いスピードで駆け抜けるように読んだことになる。

空腹にボルタレンをビールで流し込んだような、にぶいダメージが一気に脳をゆさぶった。






ぼくはどう答えていいのかわからないままに小説の感想を述べた。2分で読んだ感想だ、どのみちたいしたものではない。けれどもぼくはそれでも揺さぶられていた。

脳しんとうの腹いせに、ぼくは以下のようなDMを送った。

「犬がいるでしょう。あの犬に、清少納言がDMを送ったら、犬はびっくりして心臓止まると思いますよ。あなたがぼくにDM送るというのはそういうことです。」





仕事に戻り、20分ほどまじめに働いた。

ふと顔をあげて、タイムラインを眺めると、そこに偶然、作家のツイッターアイコンがみえたが、表示名が変わっていた。

作家のアカウント名は、「清少納言」になっていた。

そういうことじゃねえ。

2019年7月10日水曜日

病理の話(342) 顕微鏡の役得と滅びの準備

病理医は患者から採取してきたあらゆるものを顕微鏡でみる仕事をしている。病理診断に使う顕微鏡は非常に高価な専門機器であり、おいそれと個人が買って使えるようなものではない。

ぼくの使っている顕微鏡は450万円もする。ぼくの乗っている車よりもはるかに高いのだからがっくりする。顕微鏡の横っちょには、病院の持ち物であるという意味の固定資産管理シールがべたべた貼ってある。メーカーの人がときどきやってきてレンズをきれいに磨くなどのメンテナンスをしてくれる。自分の顕微鏡と言いながら実際には自分のものではない。あくまで病院のものであり、多くの人が関わって大事に扱う虎の子である。

これほど高い顕微鏡はさすがに性能がいい。見ていて酔うなどということはまずありえない(両眼の光軸がずれて乱視気味になっていると酔ってしまう)。

プレパラートの拡大写真を撮ることも自由自在だ。顕微鏡にカメラが組み込まれている。というか、高い顕微鏡を使わないと、プレパラートの写真を撮ることは事実上無理である。虫眼鏡+iPhoneで撮れたら苦労はないのだが。




そんなわけで、ぼくはしょっちゅう、臨床医や技師などの依頼を受けて、プレパラート写真を撮っている。「ミクロ写真家」というと少しかっこいいかもしれない。ただしモデルは細胞や血管たちだし、構図はわがままな細胞たちが勝手に決めてしまう。しがない雇われカメラマンである。

細胞を、400倍、600倍と拡大して写真を撮る。病院の中にいる誰もがそんな道具を持っていないので、すこし誇らし顔で撮影をする。

たとえば消化器内科医が、小さな胃癌や大腸癌を、胃カメラや大腸カメラを用いて切って取ってきたとする。彼らは、病変を切除する前にさんざん胃カメラなどで観察した様子と、とってきた細胞の性状とが、どれだけ関連しているかを、知りたがる。

胃カメラで表面に見えた細かい模様の差が、実際の細胞の性状差としてあらわれていれば、それはすごいことだ。だって、顕微鏡をみる前に、胃カメラをみただけで彼らが細胞を予測できたということなのだから。

かつて、顕微鏡でしかうかがうことのできなかったミクロの世界を、胃カメラや大腸カメラでみることができたらかっこいいではないか。

臨床医たちは、ぼくが撮影したプレパラート写真をみて、細胞の様子を観察しながら、ここまでは予測できた、この部分はわからなかった、と、議論を繰り返していく。




つまりぼくらがミクロ写真を撮る理由は、いずれ顕微鏡診断というものが必要なくなる世界にむけての、礎(いしずえ)作りなのだ。

450万円の顕微鏡を借りて我が物顔をしている病理医が、いずれ、胃カメラや大腸カメラの診断進歩によって、お役御免となる日を願って、細胞の細かい変化を写真に撮り、彼らのみてきたものと照らし合わせる作業をしているのである。




「画像・病理対比」は、たぶんマゾのやることだ。ポストアポカリプスな世界観が好きなマゾのやることだ。いずれ自分たちが不必要になることを願って、ライバルに手を貸し続ける行為に近い。

……まあ、見れば見るほど、対比すればするほど、顕微鏡の世界のおもしろさにどっぷり浸かっていくことになり、まさかこのせいで自分が滅びることになろうなんて、対比している間は思いもしないのだけれど……。

2019年7月9日火曜日

羊土社が怒りの表情でこっちを見ている

じっくりコトコト言葉を煮込んで、丁寧につくりあげたテキストというものは、テキスタイル(編み物)みたいなものだ。

やわらかく、包み込み、それでいてしっかりとしていて、多少の雨をはじいたり汗を吸ってくれたりする。

ゆったり流れる由無し事を、ていねいに時間で微分して、心の傾きみたいなものをちゃんと描く文章には、大きな包容力がある。

とてもまねができない、と思った。

だからたぶん言葉数でごまかしている。昨日も、今日も。



このブログを平日欠かさず更新しているのも同じことだろう。

長い時間をかけて少数のいいものを書けと言われたら、ぼくは逃げ出してしまうだろう。短時間で叩きつけるように、瞬間瞬間で少し雑なものをつくって積み上げていく。積分的なものの書き方しか、ぼくには残されていない。

しゃべる方のコミュ障といわれて、そこそこ長い年月が経った。学術講演では相変わらず、講談師のようにうねりながらしゃべりまくっていることが、学術を語るひとつのスタイルとしてフィットする。ぼくは、多弁な講演者として職務を果たす。ときおり疑問が通り過ぎていく。もうすこし言葉数を減らしたほうが、結果的に受け手の得る情報量は増えるのではないか? そうかもしれない。しかし無駄な動きをする道化が一番心に残るサーカスというのもあるだろう。




学術を遠ざかるごとにこのスタイルは通用しなくなる。




落語を聞いたり、一人芝居を見たりしてもみた。

そして自分と照らし合わせて思った。ぼくには手札がなさすぎる。リズムを自分で変えることがへたくそだ。





そこで幾人かにお願いをして、往復書簡形式の企画を一気に4つスタートさせた。独白のブログとは違ったものができていけばいいな、と思う。ほんとうのところ、書き手というより読み手として楽しみな気持ちが強い。その意味では編集者の気分を少しだけ、お試し的に味わわせてもらっている。

けれどもぼくはまだもう少し書いてみたい。

ぼくが昨日まで書けなかったものを、積分の形式で、もう少し積み上げていきたい。

ぼくはつまりインテグラル記号が突き刺さったまま歩いて行くことに決めたのだと思う。

そうでなければ、教科書の締め切りがまだもう1つ残っているこの時期に、新しい企画を4つもはじめようとは、思うまい。