2020年11月19日木曜日

病理の話(476) 解剖の効用

病理解剖は、病気で亡くなった患者さんの胸から腹までを開けて、中の臓器を観察し、ていねいに取り出し、最後に体を縫い合わせる。


切る場所は胸~腹である。顔や首に傷はつかない。手足も原則的にいじらない。


場合によっては脳を調べることもある。このときも、顔には傷が付かないように、髪の毛の部分などをうまく使って特殊な切り方をして、頭蓋骨をあけて中身だけを取り出して、またパカッと閉める。


つまり臓器は採りっぱなしだ。体の中に返さない。傷をきれいに縫い合わせてご遺体をきれいに拭いて、ちゃんとテープを貼って傷をかくして、服を着せれば、パッと見では解剖したとはわからない。





臓器を採りっぱなしにしてどうするか? 目で見る。細かいところまで見る。X線をあててCTで観察してわかったつもりになっていたものを、「じかに」見る。影絵とは違う、そのものを見ることは、圧倒的に解像度が高い。だから「直接見るといろいろわかる」ということになっている。


けどほんとうは、直接見てもわからないことはある。造影剤を用いてCTで検査した方がわかることだってある。


たとえば、解剖で臓器をいくら見たところで、生前そこにどのように血が流れていたのかはわからない。ダイナミズムは失われている。推測はできるが、「直接目で見たからなんでもわかるぜ!」というほどではない。


だからぼくたち病理医は、目で臓器を直接見るだけで終わらせない。せっかく取り外した臓器を、もっときちんとすみずみまで検索しないと、患者にも遺族にも申し訳ないだろう。


顕微鏡を使うのだ。全身のありとあらゆる臓器の、異常がありそうなところを徹底的に顕微鏡で調べていく。ここまでやるとさすがにいろいろなことがわかる……。





けど、今の医学というのは本当に優れているので、「そこまでしなくても」、たいていの病気は、患者が生きている間に、体を開くことなく、細胞を見ることもなく、臨床医によって言い当てられている。


代謝がどのように変化していたか。腫瘍がどこにどれくらい育っていたか。正常の機能がどれほど失われていたか。


患者本人の訴えを聞き、分厚い教科書何冊分にもなる診察方法で細やかに患者の全身を調べ、血液を見て、CTやMRIを見て……とやっているうちに、膨大な量の情報が主治医に流れ込み、患者の体に起こっていることの99%はすでに把握されている。




そこまでわかっている人体に対してあえて病理解剖をする意味が、令和2年現在、どれほどあるだろうか。





ぼくの持論を言う。


病理解剖をやっている最中……特に、臓器を検索している時間、平均して1時間半程度(※これ以外にも準備や後片付けがあることに注意)、ぼくら病理医は、主治医とずっと会話をしている。ぼくがメスやハサミを使って臓器を選り分けて体から取り出し、重さを量ったり写真を撮ったりしている間中、えんえんと、主治医や研修医たちと、「この患者について起こったこと」を話し合う。

この会話こそが病理解剖の意義だ、と思っている。




「手術をしたことがあるにしては、お腹の中はあまり癒着が多くないですね。」


「なるほど確かに。この方はあまり消化器症状をうったえることはなかったですよ」


「そうでしょうね。腸管の色はおかしくないですもんね。」


「ただときどきお腹を痛そうにしていたことがあって……それはどこが原因だったのなかあ。」


「正中ですか?」


「はい、心窩部ですね」


「となると内臓痛ですかね、あとで粘膜面も見てみましょうね」


「よろしくお願いします」


「そういえば亡くなる前の呼吸状態はどうだったんですか?」


「そんなに気になりませんでした。やはり今回は別の病気のほうが」


「ふむ、たしかに見た感じ、肺水腫はさほど強くないですね。でも背部ではちょっとうっ血があるかな」


「あ、最後の方でいちど吐いていますが」


「となると、右肺については気管支に沿って切り開いてあとでお見せしましょう。あれ、肝臓の色がすこし黄ばんでますね」


「あ、それは最後に使っていた抗癌剤の影響があるかもしれません」


「なるほど脂肪肝になるやつがありましたね。でもこれ、普通の脂肪肝とは色味が少し違う気もするなあ」


「肝機能自体はさほど……悪くなっていなかったですけれどね」


「そうですか。でもまあ肝臓は念のため見ておきましょう」





学術的に新しいことがわかるわけではない(そんなことはそうそうない。たまにある程度だ)。主治医があらかた予想していたことばかりが出てきてもいい。


「たぶんこうだろうな」をくり返して確度を高めて、日常診療を生き抜いている臨床医にとって、たまに遭遇する病理解剖で、「自分が予想していたものを違った角度から見せてくれる病理解剖」における病理医との対話は、……


……誤解をおそれずにいえば……


「interesting」なのだ。


楽しい(fun)ものではない。患者を看取った気持ちだってまだ整理されてはいない。もっとこうすればよかったという後悔もあるかもしれない。でも、とにかく、「患者に何が起こったか」を目の前で振り返り、医師免許をもった他部門のプロフェッショナル(病理医)と、医学のあらゆるジャンルに対してじっくり1時間以上も話し合うこと、これこそが、病理解剖の大きな意義のひとつなのだと思う。




患者の腹を開けて、


臨床医と病理医が、腹を割って話し合う。


みっつのお腹を大事にあけるのだ。そして対話をする。ここには確かに効用がある。対話できない病理医の行う病理解剖は、おそらく、今の医学にはもう、必要ない。「その程度の医学はもはや、臨床医もすでに持っている」からである。