たとえば、
・非常に美しい風景を見る
というのはどうだろう。グランドキャニオン的な場所で、ばっと全体を見渡す。数秒で終わるが、8Kテレビ以上の圧倒的な情報が一気に脳に流れ込んでくるだろう。
映像最強である。
……映像はほんとうに最強だろうか?
ぼくらは見たものすべてを脳で処理するわけではなくて、「注目」したものだけを解析する。だから、8Kだろうが16Kだろうが、走査線をどれだけ増やしたところで、そこに一人の美しい人が立っていたら、もう背景なんぞは目に入らなくなってしまう。
それに、映像で「物語」をやろうと思うと、ある程度、決まった時間を「消費」することを覚悟しなければいけない。
2時間の映画ならば2時間分、4時間の映画ならば4時間分、目と耳をそこに集中させておかなければいけない。
あれこれ忙しい日常に、そうそう映像の前で黙っておっちゃんこできるかというと、うーん、なかなかそうもいかないというのが実状だ。
情報を短時間に脳に叩き込もうと思うとき、洗練された文章の方が映像よりも雄弁なことはある。たとえば、YouTubeを文字おこししたものを読むのに、YouTubeの本編ほどの時間はかからないだろう。
となると映像よりも文章の方が「上」だということになるだろうか。
ちょっと考えればわかることだが、「文章でくどくどと説明するよりも現物を一目見たほうが圧倒的に伝わる」ということだってある。写真しかり、絵画しかりだ。
まったくこのあたり、混同しやすい概念がタテヨコナナメに走りまくっていて、映像と文章、甲乙つけることはできなくなっている。
そしてここに「音」が加わる。
ぼくは仕事中にインストゥルメンタルを聴いていることがある。「仕事に脳を全フリしている」最中に、微弱なインプットを「ながら」で続けることができるのは音楽くらいなものである。映像をチラチラ見ながらの仕事はなかなかうまくいかない。動画は集中力を持っていかれる。その点、音楽ならば……。
うーん。
先日、北海道のラジオ番組「ムジークバリスタ #MUSIKBARISTA 」の週替わりプレイテーマが、「urban」であった。アーバン。都会。
日替わりのプレイリスターたちが、「都会」にちなんだ曲を毎日かけまくっていた。ぼくの好きな事務員Gさんも、様々な曲をかけた。
月曜からはじまって、水、木とムジークバリスタを聴き、金曜日。
ぼくの頭の中では、ずっと、Number girlのインストゥルメンタル「モータウン」が流れていた。
ぼくにとっての「アーバン」は、「モータウン」だったのだ。
今から14年前、ぼくが築地の国立がん研究センター中央病院で研修をしていたとき、毎日、通勤の都営浅草線の中で、iPodで聴いていた曲。
「モータウン」という曲名の由来はおそらくモータウンレコードであり、名称自体には別にアーバン感は一切ないのだけれど。
ぼくは、この曲と共に東京にいたので、アーバン、と聴くとたちどころにモータウンのベースが架空の鼓膜を揺らし始めるのがわかる。
はじめて暮らす東京、地下鉄の振動、輻射熱、よりどころのない不安と孤独と多数の後悔、この先自分がどうなっていくか読めなくなってもがいていたころの、筋緊張、爪の食い込んだ痕、日曜日の真っ昼間に大森のマンガ喫茶で失神するように眠っていた記憶、そういったものを全部含んだ「初体験の都会」が、モータウンにはすべて含まれている。
単位時間当たりでもっとも情報量が多いのは音楽だ、ということだろうか?
芋づるになって引っ張り上げられる記憶を、「情報量」という概念にカウントしていいのかどうか、わからないのだけれど。