2021年6月14日月曜日

終わりは決めるものではない

プレパラートができるまでは細胞を見ることができないから、どれだけ患者が押し寄せても、目の前にあるプレパラートさえ全部見てしまえば暇な時間が訪れる。「さえ」見てしまえばいい。そういうタームをよく使う。

このメールさえ返事してしまえば自由時間だ。

この講演さえ終わってしまえば夏休みだ。

さえが実際にさえだったことが少ない。さえわたらない。さえない。




仕事の合間に四つ、用途の異なる文章を書いた。ひとつは手紙。ふたつは、手紙。最後のひとつは書評。そして夕方から夜にかけて教科書の原稿を書いて脱稿。ここ「さえ」終わってしまえば満足だ、というところまでたどり着いた。ヤッタァーッと背伸びしてパソコンの電源を落とそうというタイミングでメールが届いた。さえわたらないなあ……と思いながらメールを開くと訃報だった。ああ、終わったんだ、という感想が左脳に浮かんだ。



どこまでやったら気が済むのか、どこまでやれば許されるのか、さまざまな言い方がある。ぼくは近頃、複雑系の選択圧のことをよく思う。雑多なものは淘汰されていく、変わらないものもまた淘汰されていく、しかし世界はトータルでは雑多なままで、新陳代謝という言葉がマクロでもミクロでも同じように用いられ、何かの終わりを見定める前に次の何かがはじまっていて、そちらに目を奪われているうちにいつしか何かが終わっている、ということばかりだ。

イヤホンをケースにしまいそびれた。

ブラウザをもう一度立ち上げてブログを書くことにした。「さえ」なんてないのだ。終わりは能動的に決めることではない。中動態的に決まるものなのである。