ひとつ例をあげる。
ある人が重い病気にかかって、家族や周囲の人たち、そして病院のスタッフといろいろ相談しながら、どう治療を進めていこうかと頭を悩ませている。どの選択をしても、病気がカラッとよくなることは残念ながらないようだ。悲しいことだが、最終的には、今かかっている病気で亡くなることになるのではないか、ということを、誰もがうっすらと理解している。
医療者は、似たような境遇にたどりついた患者と出会ったことが何度もある。その経験を元に、もっと巨大なデータ・エビデンスも加味して、患者たちと時間をかけて話し合う。この先、どういう未来があり得るのか。この先、患者とその周りの人びとにとって何が大切なのか。この先、患者と周りの人びとがどう生きたいのかを丹念に相談する。
そして患者は、「これ以上積極的な治療はしない。治療をしても副作用とメリットとをてんびんにかけたときにあまりいいことがないし、残された時間を自分らしく使うことに使いたい」と考える。つらいことだが、これからの時間を自分らしく生き抜くことに使っていこうと決意するのだ。
結果、これまで病気のことを黙っていた仕事相手や、あるいは「遠くに住む子ども」などに、「私はもう治らない。もう治療はしない。しかし、すぐ死ぬわけではない。これからも自分らしく生きていく」と連絡をする。
「遠くに住む子ども」はとても驚く。
成人してだいぶ立つ子どもが実家を出てからだいぶ経つ。遠方で、自分の家族と共に平和に暮らしている。クリスマスや正月あたりでは親とも連絡をとるが、普段はほとんど没交渉だ。だからここ数年、親が病気に人知れず苦しんでいたことも気づいていない。
当然、血相を変えて親の元に飛んでくる。
そして、医療者に強い口調で詰め寄るのである。
「親がこの病気で死ぬなんてありえない! 治療をやめるなんてもってのほかだ! できる限りの治療を尽くしてなんとしてでも生き延びさせろ! 治療をしないなんて親を見捨てるつもりか! 訴えるぞ!」
医療者はびっくりする。
患者もびっくりする。
けっこうな時間をかけて、医療者たちと相談をして、自分の病気がもう治らないことを理解し、覚悟し、今後の暮らし方について納得したつもりだったのだ。しかし、自分の子どもがそうやって医療者に詰め寄っていることを見ているうちに、「そうか、普通はもっと闘病するべきなのか」という気持ちや、「子どもにとってはまだ自分が生きていないと困るのだろうな」という気持ちが湧き上がってくる。「治らないとわかっていても、もう少し子どもの目の前で闘病しないと、子どもがかわいそうだ」という気持ちも出てくるかもしれない。
そして医療者は頭を抱える。
「これまで患者の人生を知ろうともせず、支えもせず、遠くで勝手にやっていたくせに、最後になって急にしゃしゃり出てきて、患者がすでに納得している治療方針に横やりをいれて話を振り出しにもどすなんて……」
「親の気持ちをぜんぜん理解せずにただ医療者に向かって怒鳴り続けるこの子どもは、なんなんだ?」
このような現象、じつは非常に多いと言われている。アメリカでは、なんと「カリフォルニアの娘症候群」というふしぎな名前で呼ばれているらしい。以下、ウィキペディア。
”カリフォルニアから来た娘症候群(The Daughter from California syndrome)とは、これまで疎遠だった親族が、近辺の親族と医療関係者の間で時間をかけて培われた合意に反して、死にゆく高齢患者のケアに異議を唱えたり、医療チームに患者の延命のための積極的な手段を追求するよう主張したりする状況を表す言葉である。
「娘」となっているが、性別や血縁の関係性は問わない。 「カリフォルニアから来た娘」は、しばしば怒りっぽく、自己評価が高く、明晰と自認し、情報通を自称する。対象の高齢患者とその介護者、医療関係者との同意を否定し、安らかな終末を阻害するとされる。”
”医療関係者によると、「カリフォルニアから来た娘」は高齢患者の生活やケアから遠ざかっていたため、患者の悪化の程度にしばしば驚かされ、医学的に可能なことについて非現実的な期待を持ってしまうことにある。 また不在であったことに罪悪感を感じ、再び介護者としての役割を果たそうとする心理もある”
さて。
話は急に飛ぶのだが、近年はやりの「AIで医師の仕事が奪われる論」を見ているとき、ぼくはなぜかこの「カリフォルニアの娘」の話を思い出す。そして、以下のような架空のウィキペディア記事を執筆してしまうのである。理由? まあそこまでは書かないけれどなんとなく察していただきたいなって感じである。すみません、これが冒頭に書いた「揶揄」というやつです。
”AIのあたりから来た息子症候群(The Son from from around the ChatGPT)とは、これまで医療と疎遠だった非医療者が、医療関係者たちの間で時間をかけて培われた診療概念に反して、これまでの医療に異議を唱えたり、過剰に積極的なAI導入を追求するよう主張したりする状況を表す言葉である。
「息子」となっているが、性別や血縁の関係性は問わない。 「AIのあたりから来た息子」は、しばしば怒りっぽく、自己評価が高く、明晰と自認し、情報通を自称する。対象の医療者や研究者のこれまでの仕事を卑下し、業務の理解を阻害するとされる。”
”医療関係者によると、「AIのあたりから来た息子」は医療の実際やケアの現場から遠ざかっているため、AI的に可能なことについて非現実的な期待を持ってしまう。 また自分が医療と没交渉であることに罪悪感を感じ、助力者もしくはコメンテーターとしての役割を果たそうとする心理もある”