2023年4月14日金曜日

ヒトはAIの仲人である

「揚げ足を取る」という言葉があるが、この場合の「あげ」は「揚げ」なのだな。「上げる」ではないんだ。

もちろん「揚」と「上」では、語源というか字義にいろいろ違いがあるのだろう。ほかに「挙げる」というのもあるな。日本語は複雑である。

ちょっとググった限りだと、「上げる」と「揚げる」の違いはなんだかわかるようでわからない。「揚げる」は高く掲げることです、と書いてあるページもあったが、「揚げ足を取る」の場合の揚げるは別に高く掲げているわけではない気がする。相撲とか柔道をイメージすると、相手が技を掛けたり移動したりするために足をフッと浮かせたところをすかさず取りにいって、相手をすっ転ばせることが「揚げ足を取る」のニュアンスだ。そこから転じて、相手が何かをするたびに「転ばせてやろう」という悪意を込めてその足を(若干卑劣な感じで)取りにいくのが「揚げ足を取る」であろう。別に、テコンドーのねりちゃぎ(カカト落とし)のように振り上げた足を取りに行くわけではない。だったら、「揚げるは高く掲げること」とするのは、ちょっと説明が狭いと思う。

ところで天ぷらはなぜ「揚げる」んだろうなあ。



こういうことをずっと考えている人たちが丁寧に作っているのが漢和辞典だ。漢字の細かい違いを調べようと思ったら漢和辞典にあたるのがいい。で、今、手元に漢和辞典はない。職場に置いておくべきかもしれない。一冊買ったら当分困らないだろう、これから20年くらい、職場でツイッターをすることを考えれば、漢和辞典の1冊くらい、買っておいても損はないはず。

ネットでは無理だ。うそばっかり書いてある。

だからそれを集めて知ったかぶるAIでもだめだ。ネットにある知識が元になっている限りは。

「ちょろっと考える」と、「念入りに考える」は脳のまったく別の部分を使っている。そのときまでに蓄積した経験を忘却によって錬磨して「道具」にしたものと、たまたまそのとき自分の周り(空間的・時間的な意味で)にあるいくつかの刺激に対して脳が常時微弱に反応している状態とがあわさって、「そのとき、その場所でしか成り立たない、再現性に乏しい脳の定常状態」というのが成り立つ。そこに新たに何かが入力されると、そのとき特有の反応を瞬間的に返す。この一連の入出力が「ちょろっと考える」で、ブラックボックス性が高く、ある意味AI的でもある。これに対して、入力内容を構造的に分析したり、カスケード的に因果をおいかけたり、比較・対比・照合したりといった理詰めの検討を行うほうが「念入りに考える」で、昔の人類は後者のめんどうなほうをAIにやらせようとしていたきらいがある。直感こそはヒトの脳に固有のスキルだと偉ぶっていた懐かしい時代の話。


そして漢字の使い分けというのはおそらくほとんどの場面で直感的に、AI的に行うものであり、だからこそ圧倒的な経験をベースにほとんど理論の裏付けをしないまま運用できる文章生成AIが我々の生活に入り込んでくるのだけれど、「ではなぜ揚げると上げるを我々はなんとなく使い分けるのか、その根本の部分にはどんな理論やデータがひそんでいるのか」といった「ちょっと念入りに知りたい話」については、AIにしてもヒトの脳にしても「漢和辞典的なもの」を介さないと深部のうまみのあるところまでたどり着かない。となれば誰もがすぐに考え付くこと、「漢和辞典をAIで作るにはどうしたらいいのか?」


そのへんはヒトが考えることではないのかもしれない。考え方の異なる複数のAIに対話させながら、あとはAI者どうしでよろしくやってくれ。