2023年4月17日月曜日

病理の話(767) ずーーーーっと考えてる

ぼくが一番よく浸っているのが医療業界なので、医者についての話をする。ただしこれは医者に限った話ではないとは思う。


医者は日常を過ごす。毎日異なる患者を診て、外来に出たり病棟を回ったり、処方を考えたり診察をしたり、論文を書いたり研究会に出たりと、さまざまな医業をこなす。

すると、1日の中でも思考はつぎつぎと移り変わって、朝にはリウマチ・膠原病内科的事案を考えていたが昼には血液内科的なことを考えており夜には消化器外科的なことを考えて翌朝には血液検査についてのことを考えている、なんてことになる。何科であってもよくある。

そして、1か月も経つと、月の頭に考えていたことからは遠く離れていく。あれだけ悩んで時間を費やしていた案件なのにいったんの決着を見るとあっという間に忘れる。

そういう人がこの世界にはけっこう多いと思う。


でも、「ひとつの案件について何ヶ月も考え続けているタイプの医者」もいる。


ふだん一緒に働いている医者、あるいはツイッターやメッセンジャーでたまに会話をする医者の中にもいる。リプライのスレッドが、何週間かおきにぽつり、ぽつりと伸びていく感じ。診断理論についての会話が細々と続いていくツリー。誰かと短期間にガッと集中して話し合って、暫定的な結論をもとめて、それでいったんよしとして次の話題に飛び立っていくのではなく、何日経っても、何週間空いても、ふとしたときに思い返して「そういえばあの話題、こうも考えられるなあ」と、また同じ部屋に戻ってくるようなやりとりである。


なお、何ヶ月も何年もひとつの話題に戻ってくるようなタイプの思考が、必ずしもその人にとって「一番大事な話」ではなかったりもするのでおもしろい。これは人による。一番大事な話を年単位で続けている人ももちろんいる。

重要だから時間をかけているとは限らない。人生をかけてどうこうしたい話題じゃないこともある。「時間をかけて考えなければ!」と決意・奮起しているのではなく、気づいたらこの話題にときどき戻ってきちゃうなあという、ときどき顔を出す喫茶店くらいの雰囲気だったりする。



ぼくにもたぶんそういう部分がある。そういう部分とそうじゃない部分がある、と言ったほうがいいだろう。



朝から手術検体の病理診断をする。胃がんで切除された胃まるごと、肝臓がんで取ってきた肝臓の一部、肺がんで取ってきた肺の一葉などを診断していくにあたり、ひとつの臓器、ひとりの患者を通り過ぎるたびに、参照する取扱い規約(本)は変わるし、細胞に対する目の付け所も変わる。80代の女性の右側結腸病変と、40代の男性の直腸下部の病変とでは考えなければいけない病名が異なる。リンパ節と骨髄で用いる免疫染色の種類がだいぶ違う。頭をどんどん切り替える。臨床医から電話がかかってきて、

臨床医「先生今いいですか? 一昨日の患者さんのことなんですけど……」

ぼく「はい、いいですよ。ちなみに一昨日の患者さんいっぱいいるのでIDを教えてください」

みたいなやりとりをする。

全く違う病気、ぜんぜん違う主治医、千差万別の患者を相手にして朝から夕方まで働く。

そろそろ周りが暗くなってきたな、タイミングで、ふと、ある特定の病気の診断方法を考えはじめる。脳にはどうやらそういう領域がある。コロコロ案件をとっかえひっかえしながら対処していく、忙しい定食屋のカウンターみたいな場所がある一方で、「この部屋は自由に使っていいんで、しばらくの間は荷物置いて自由に使ってくださいねー、片付けとかも別にそんなにしなくていいんで。最後退室するときにきれいにしといてください」みたいな、レンタルルームみたいな場所があるのだ。

そこにときどき立ち寄って、半年くらい考え続けていることの続きを考えるのである。

40を越えて以降、「長時間ひとつのことを考えていてもいい部屋」が、脳の中に2つか3つかある。そのうち1,2個には、「書きかけの論文」を置いてある。マンスリーマンション的に案件を住まわせている。なにがしかの仕事が終わるたびにその部屋に顔を出し、保留していた考えを再開する。



非常に優秀な先輩、臨床をバリバリやりながら質のいい論文をジャンジャン量産しているタイプの人は、常時複数の案件を入れ替わり立ち替わりこなしながらも、脳の中に「しばらく考え続けることのできる部屋」を20個くらい持っているように思う。お気に入りの喫茶店とかバーが何軒もある、みたいな感じというか……。ぼくは長期間考え続けることができる部屋はせいぜい3個なので、うらやましい気持ちがある。



このような話をすると、「わかるわー、俺も家族のこととか子どもの進路のこととかはそういう部屋に入れてある」みたいなことを言う人がいるのだけれど、今のぼくの話は家庭や趣味のような仕事以外の話まで考えて書いてはいない。そうではなくて、「仕事」というひとつのジャンルの中でも、思考のしかたというか費やす時間にいくつかのバリエーションがあるのだよということを言いたくて書いている。「俺はそのマンスリーマンションにぜんぶ違う人間を住まわせてるから仕事に割くスペースはないわ」とかそういう話を聞きたいわけではない。