「ケアを描いた映画」の試写会に誘われた。内容に興味はあったが、会場は東京だしほかの仕事も多くてどうしても時間がとれない。ご縁がなかったということで……と断りの連絡を入れたら、スタッフの方がかわりにオンラインで試写できるURLを送ってくださった。へえ、そんなことできるのか、それはすごいなあと思いつつ、結局上映の1時間半が捻出できなくて、メールボックスにいつまでもURLを置いておいたまま、とうとう先日一般公開がはじまってしまった。せっかく送ってもらったのに申し訳なかった。
こうなることはわかっていた。しかし、せいぜい1時間半ちょっとの映画ならなんとかなるかも、などとちょっと色気を出してしまったのがよくなかった。あらかじめ無理だと断っておけば、映画の広報側もそのぶんまた別の人を探すことができたであろう。反省しているし落ち込んでいる。
ぼくは、人に何かをすすめられること自体がそもそも苦手なのだなと思うことはある。ただし自分のタイミングで「目に留まる」のは大丈夫だ、だからTwitterでは推しへの愛を叫ぶ人たちを好んでリストにぶち込んでおり、何か新しいものを摂取したいなと思ったらリストをザッピングして、「おっこれはおもしろそうだな」と見つけて即買いして大正解、みたいなことがよく起こる。けれども、いわゆる「向こうに起点がある」タイプのおすすめだと、どうもスッと受け入れられない。
いいから読んでよ、と送られてきた本、すなわち献本は、相手が友人であるケースを除いて送り返す。たとえ、届いた本がいかにもおもしろそうだったとしても、自分の心の動きより早く誰かに「おすすめの圧」を送られた時点で、そのプロダクトは楽しく鑑賞できなくなってしまう。以前、これを書店で見つけていたら喜んで買っただろうな、という本が短い手紙と共に何の事前連絡もなく送られてきて、自腹で版元に送り返したときは、まったく損な性格だなと思ったし、それこそ版元にとっても著者にとっても「1冊売れるチャンス」を逸したわけで、なんだか全方位に何もいいことが起こっていないなあと肩を落とした。
そういえば、ぼくが子どものころ、父母はたまに新しい本を買ったり本棚に置いたりしていたが、それをぼくに「読んでごらん」と手渡すことはなく、居間のテーブルの上にトンと置いて、あとはぼくら兄弟が興味を示そうが示さなかろうがしばらくそのままにしていた。振り返ってみれば、うちの中にはあちこちに本があったけれどぼくはその大半を全く読まないまま大人になった。父親も「たまにはこういう本も読んでみたら」というわずかな圧すらぼくにかけることはなかった。戦争と平和はいまだに読んだことがない。阿Q正伝、蟹工船あたりも未読。しかし本棚にあったような記憶だけはずっとある。ぼくは、知らないうちに積ん読に包まれて大人になっていた。
父親が置いた本の中でぼくがその日たまたまピンと来て手に取った本の量は、全体から比すればごくごくわずかである。しかしその印象は強烈で、ただし必ずしも文芸でもなくて、たとえば相対性理論に関するマンガであったり、NHK・地球大紀行のマンガだったりしたのだけれども、これらはその後長くぼくの精神を救う大事な柱になった。ぼくは本を自分で選ぶ喜びを残してくれた親に感謝している。父や母がどこまで意図していたかはわからないけれど、「自分が起点となってある本を好きになるということ」と、「誰かの圧によってある本を好きにさせられること」の、(ぼくにとっての)大きな違いを、親はなんとなく心の中で理解していたのではないかと思う。
なお、ぶっちゃけ、自分の息子の側には、ぼくはそこまで上手に本を置けていない。まあ本なんて読まなくても大人になれるのであまり本のことばかり気にしてもしょうがないのだけれど、ぼくがもう少し父親のような距離感で本を置けていたら、あるいはぼくが感じた喜びの一部を息子にも経験してもらえたのもな……とエゴイスティックに自戒することもある。そして息子は息子で、ぼくのおすすめとは違う角度でたまに本を読んでいつのまにか動かされているようなのだ。
ところで今のぼくは、家族や友人などにいきなり本をすすめられることもあるが、そういうときはわりと素直に読んでみるようになった。あきらかに加齢によって精神の調整力が上がっている。
家族や友人は、ぼくとどれだけ仲が良くても、必ずぼくと違う形状のアンテナを張り巡らせている。世の中から受け取る刺激の種類、脳内への伝達方法、脳内での処理の仕方などは100%ぼくと違う。だから、家族や友人がすすめる本の大半はぼくとは完全にはマッチしない。しかし、それまでに築いた関係性がある人からすすめられた本の場合は、「なるほどぼくとこのように違う人は、こういう本にこんな喜びを見いだせるのか」というところまで踏み込んだ読書をできる。だから、ある程度見知った人から「これ読んでみてよ」という圧が来ても、今のぼくは耐えられるし、それを前向きに楽しむこともできる。
しかしまったく知らない人からいきなりおすすめされてピンと来ないままとりあえず読む本が良かった記憶はほとんどない。献本には手書きで謝罪の手紙を付けて送り返す。毎回、出会い方が悪かったなと思う。何度か、献本を送り返したあとに、「でも本自体はおもしろそうだから自分で買って読んでみよう」と思って購入したことがあるのだが、それらの本はなんとぜんぶつまらなかった。やっぱりなあ、と思った。このあたりの話は、推し語り・富強活動をするオタクにとってはおそらく周知の事実なのではないかと思われる。