何回説明されても、実際に自分で手を動かしたり考え続けたりしていないとなかなか身につかないもの、というのがある。
それはたとえば、ぼくにとっては、「血液ガス検査」である。田中竜馬先生の本を買って勉強して、そのときはわかった気になるんだけど、現場で運用しているわけではないぼくは、しばらく時間が経つと知識が穴だらけになってしまう。(でも、現場にいるひとにはすっげえいい本ですよ!おすすめ!)
市中感染と院内感染、それぞれの感染臓器の違いとか、起因菌の違い、抗生剤の使い方などもそうだ。きっちり知っておいたほうがいいに決まってる。でも、実際に患者さんを診ているわけではないぼくは、こういうのをすぐ忘れてしまう。
ひるがえって、病理の知識。これは、おそらく多くの医療者にとって、
「勉強しようと思えば勉強できるし、覚えることもできるのだけれど、日々プレパラートをみていない限りは、忘れてしまうもの」
なのだろうな。先ほど、ふと気がついた。
手が技術を覚える、というときがある。くり返しくり返し、動作を反復することで、最初はじっくりと考えないと動かせなかった手が、次第に無意識に動くようになっていく、というあれだ。
脳は、同じ動作を反復すると、おそらくなのだが、その動作に使ったニューロン・シナプス同士がうまいこと関連づけられて、セットですばやく動くようになる。
最初は、部屋のあちこちにあるクローゼットをひとつひとつ開けて、必要な工具箱を取り出し、異なる中身を順番に取り出して日曜大工をやっていたのだが、動作を繰り返すたびに、必要な道具をまとめてしまえるようになってくる、みたいな感じだ。
習うより慣れろ。
これと同じ事は、手とか足だけではなく、脳そのものを使うときにも起こっている。
だから、日々なにかに従事し続けている人の方が、知識が身になっている。知恵になっていると言ってもいい。
病理診断報告書に、ときおり、「結果」だけではなく、「説明」を添えるようにする。説明をだらだら書いても臨床医は読んでくれないよ、といろいろな人に言われたが、ボスはときおり、手短ながらも「なぜそう考えたか」という説明を書き足している。ぼくも、それを真似している。
10年、同じような所見を書いている病気もある。もうそろそろ臨床医も見飽きたんじゃないかと思っていたが、こないだ、件の臨床医と話をしていたら、こう言った。
「先生がときどき書いてくれるあの所見、こないだ講習会で見たんですけど、ぼく、あれ、なんかわかりましたよ。わからないままに読んではいたんですけど、わかるようになってました(笑)」
「納得してもらえるような説明」をするには、表現方法をブラッシュアップするとか、テイクホームメッセージを絞るとか、絵やシェーマ(模式図)を用いるとか、いろいろなやり方があるわけだが……。
何より、「反復する」という作業も大事なのかもしれないなあと思う。だから、今日も、所見の最後のところに、ちょっとだけ説明書きを添えるようにする。
2017年3月31日金曜日
2017年3月30日木曜日
宣伝ですwwwwwwwわかるかwwwwwwwフフッwwwwwwwww
昔から沢木耕太郎が好きだった。
須賀敦子のエッセイというのは、ぼくがツイッタランドで教えてもらった中ではもっとも大切なものだ。
ぱっと思いついた二人はいずれも随筆を書くが、彼らの文章を読んでいると、優れた日記は私小説と区別がつかないのだなとか、自分を語ることが世界を語ることになりうる人がいるのだなとか、ただひたすらにあこがれる。
旅路の末に、
「たどり着くべくして……ではなく、たどり着いてしまった場所で、なにごとかを思案した人」
というのに、深く惹かれている。
おだやかで激しい文章である。
ぼくの人生は十人並みに波乱万丈だ。
誰もが経験しうる、そして、誰もがさいころを1000回振れば6の1000乗の答えがあるように、誰ともぴったりとは一致しない、ありふれた独自の人生を歩んでいる。
たとえば沢木耕太郎の目がぼくについていたら、ぼくの人生は彼の筆によって、さびしくも芳醇に描かれただろうか。
須賀敦子の耳がぼくについていたら、ぼくの人生は彼女の筆によって、はかなくも陶然と描かれただろうか。
ぼくのあこがれはいつでも敗北感とやるせなさから生まれている。
彼らの紡ぎだす言葉をひとつひとつ辞書で引いたところで、出てくる結果には目新しいものはない。
使う50音はぼくと違わない。使う漢字はほとんど常用漢字だ。
それでも出てくるハーモニーにぼくは厳しい嫉妬を覚える。
ありふれた独自の人生を、ありふれていても誰もが心のどこかに閉まっている、経験したことのない思い出の箱に共鳴させるような書き方。
そんなことができたら、どんなにいいだろうかと、
「いい」と思って完成してしまっていない彼らだからこそ、随筆を書き続けたのかもしれないけれど。
ぼくがあこがれて、たどり着けないだろうとあきらめてしまっている人々は、おそらく、自らの完成形みたいなものに、たどり着いたとは思っていないだろう。
常に口渇に苦しんでいたようにも見える。
それが彼我を分ける差なのだとしたら、ぼくは、自分の人生を振り返って本をまとめて喜んでいる場合ではないのだ。
そう思いながら、来年の春に出す予定の、自分の本の最終章を書くことにする。
白紙がちっとも埋まらない。
須賀敦子のエッセイというのは、ぼくがツイッタランドで教えてもらった中ではもっとも大切なものだ。
ぱっと思いついた二人はいずれも随筆を書くが、彼らの文章を読んでいると、優れた日記は私小説と区別がつかないのだなとか、自分を語ることが世界を語ることになりうる人がいるのだなとか、ただひたすらにあこがれる。
旅路の末に、
「たどり着くべくして……ではなく、たどり着いてしまった場所で、なにごとかを思案した人」
というのに、深く惹かれている。
おだやかで激しい文章である。
ぼくの人生は十人並みに波乱万丈だ。
誰もが経験しうる、そして、誰もがさいころを1000回振れば6の1000乗の答えがあるように、誰ともぴったりとは一致しない、ありふれた独自の人生を歩んでいる。
たとえば沢木耕太郎の目がぼくについていたら、ぼくの人生は彼の筆によって、さびしくも芳醇に描かれただろうか。
須賀敦子の耳がぼくについていたら、ぼくの人生は彼女の筆によって、はかなくも陶然と描かれただろうか。
ぼくのあこがれはいつでも敗北感とやるせなさから生まれている。
彼らの紡ぎだす言葉をひとつひとつ辞書で引いたところで、出てくる結果には目新しいものはない。
使う50音はぼくと違わない。使う漢字はほとんど常用漢字だ。
それでも出てくるハーモニーにぼくは厳しい嫉妬を覚える。
ありふれた独自の人生を、ありふれていても誰もが心のどこかに閉まっている、経験したことのない思い出の箱に共鳴させるような書き方。
そんなことができたら、どんなにいいだろうかと、
「いい」と思って完成してしまっていない彼らだからこそ、随筆を書き続けたのかもしれないけれど。
ぼくがあこがれて、たどり着けないだろうとあきらめてしまっている人々は、おそらく、自らの完成形みたいなものに、たどり着いたとは思っていないだろう。
常に口渇に苦しんでいたようにも見える。
それが彼我を分ける差なのだとしたら、ぼくは、自分の人生を振り返って本をまとめて喜んでいる場合ではないのだ。
そう思いながら、来年の春に出す予定の、自分の本の最終章を書くことにする。
白紙がちっとも埋まらない。
2017年3月29日水曜日
病理の話(63) がんという言葉の強すぎる言霊をどうしよっかなってこと
ボスと一緒に顕微鏡を見ていて、たまーに、こういう会話になることがある。
「この胃の腫瘍、腺腫(良性)だと思う? 癌(悪性)だと思う?」
「うーん……ぼくはこれだと癌だと思いたいんですけど……」
「だよねえ……でも、どうしようね……」
「微妙なところですよね……」
えっ、と思われる方もいらっしゃるかもしれない。
がんか、がんじゃないかを、そんな「気分」で決めてしまうなんて。
「微妙」だなんて。
だって、大違いでしょう。がんか、がんじゃないかによって。
死ぬか生きるかってことでしょう?
医療保険だって、「がん」とついたら、お金が下りることがあるわけで。
でも、実際には、病理診断にはこういう、「良悪の決定すら微妙」な瞬間がある。あるんですよ、実際に。
かの有名な「がんと戦うな理論」の人も、ここをつっこんでいたように思う。
がん診療なんて、病理医の胸先三寸で決まる、微妙な診断によって成り立っているものじゃないか、と。
がんと診断されるものの中には、「がんもどき」なる、実際には生き死にに関わらない病気もまぎれているのだと……。
この話を、ここで終えてしまっては、誤解ばかり招くだろう。だから、続きを書く。
なんでもそうだが、フクザツな事実の、途中までを切り取って人々に伝えると、実際のニュアンスが大きく異なってくることになる。
くだんのボスとの会話は、このように続く。
「結局さあ、この手の腫瘍は、良性か悪性かわからない、というくくりに落とし込んでおけばいいわけだよねえ」
「そうですね。この人のこの病気に関して言えば、直ちに命に関わることはない。内視鏡でこの部分だけをくりぬいてしまえば完治するし、あと三か月後にもう一度様子を見てもいい」
「このまま20年放置とかされては困るし、将来的には本物のがんに育つものかもしれないから、完全に放置されても困るけどね」
「良性と悪性の中間くらいの臨床対応をしてもらえればいいってことです」
「つまりは、癌かどうか微妙で、難しい、と、そのままきちんと書いた方がいいんだろうなあ。市原君ちょっと文章作ってみてよ」
「わかりました。ぼく自身は癌に見えるけれど、病理医によっては良性ととる場合もある、微妙な病変である。いずれにしても対応は一緒で、3か月後にもう一度観察する、もしくは粘膜切除によりここだけ切り取ることを勧める……患者の体力や背景粘膜の状態などを勘案して、ご検討ください、こんな感じですかね」
「そうだね」
結局、「がん」という言葉の言霊が強すぎるのだ。
人間は、「がん」と名付けられた病気に対して、おどろき、おびえ、思考停止してしまう。それは、無理のないことである。
しかし、中には、「がんだけどしばらく様子を見られる病気」もあるし、「がんだし、あっという間に悪くなる」ものも含まれている。
この世にあるあらゆるものは、多かれ少なかれ、程度の差がある。
そのあたりを、デジタルよろしく、0か1かの区別できっちりわけようとすると、いろいろ無理が出る。病理診断というのは、そのあたりのアナログな感覚に対しても、できれば、毎回丁寧に対処していきたいものなのだ。
世の中にある「がん診療」……手術とか、抗がん剤とか、放射線治療とか、そういったものは基本的に、「確実に命に関わるがん」に対して行われる。
これらの治療は、「がんか良性か微妙な病気」については、そもそも行わないことも多い。行わなくても命に別条がないことがわかっているからだ(ケースバイケースですよ)。
あのね。
「がんもどき」みたいな病気があること。
がん診療を担う人々は、先刻承知なのですよ。
「こりゃほっといたらまずいだろ」という「がん」を、「まだ放っておいても大丈夫だな」という「がん」と区別するくらいのことは、精一杯させてもらっている。
アナログな診療の先に、強い治療をするかしないかという「決断」をきちんと出していくことこそが、がん診療なんですよ。
ということで病理診断も結構アナログであっていい、と、ぼくは思っているんですけれども、こんな裏話をお話すると、不安になる人たちもいるんだろうなあ。
さらにおまけの話をするならば、AIにはアナログさはないから、繊細ながん診療は人でなければできない、という結論もまた、間違いだと思う。AIをアナログにするアート、みたいなものも、理論上は十分にありえるのだ。
あいまいとかフレキシブルとかの先にある診療を語るのは、本当に疲れるし、今後はそういう「紋切り型の思考」を、いかに解きほぐしていくかを考え、伝えていかなければいけないのだと思う。
「この胃の腫瘍、腺腫(良性)だと思う? 癌(悪性)だと思う?」
「うーん……ぼくはこれだと癌だと思いたいんですけど……」
「だよねえ……でも、どうしようね……」
「微妙なところですよね……」
えっ、と思われる方もいらっしゃるかもしれない。
がんか、がんじゃないかを、そんな「気分」で決めてしまうなんて。
「微妙」だなんて。
だって、大違いでしょう。がんか、がんじゃないかによって。
死ぬか生きるかってことでしょう?
医療保険だって、「がん」とついたら、お金が下りることがあるわけで。
でも、実際には、病理診断にはこういう、「良悪の決定すら微妙」な瞬間がある。あるんですよ、実際に。
かの有名な「がんと戦うな理論」の人も、ここをつっこんでいたように思う。
がん診療なんて、病理医の胸先三寸で決まる、微妙な診断によって成り立っているものじゃないか、と。
がんと診断されるものの中には、「がんもどき」なる、実際には生き死にに関わらない病気もまぎれているのだと……。
この話を、ここで終えてしまっては、誤解ばかり招くだろう。だから、続きを書く。
なんでもそうだが、フクザツな事実の、途中までを切り取って人々に伝えると、実際のニュアンスが大きく異なってくることになる。
くだんのボスとの会話は、このように続く。
「結局さあ、この手の腫瘍は、良性か悪性かわからない、というくくりに落とし込んでおけばいいわけだよねえ」
「そうですね。この人のこの病気に関して言えば、直ちに命に関わることはない。内視鏡でこの部分だけをくりぬいてしまえば完治するし、あと三か月後にもう一度様子を見てもいい」
「このまま20年放置とかされては困るし、将来的には本物のがんに育つものかもしれないから、完全に放置されても困るけどね」
「良性と悪性の中間くらいの臨床対応をしてもらえればいいってことです」
「つまりは、癌かどうか微妙で、難しい、と、そのままきちんと書いた方がいいんだろうなあ。市原君ちょっと文章作ってみてよ」
「わかりました。ぼく自身は癌に見えるけれど、病理医によっては良性ととる場合もある、微妙な病変である。いずれにしても対応は一緒で、3か月後にもう一度観察する、もしくは粘膜切除によりここだけ切り取ることを勧める……患者の体力や背景粘膜の状態などを勘案して、ご検討ください、こんな感じですかね」
「そうだね」
結局、「がん」という言葉の言霊が強すぎるのだ。
人間は、「がん」と名付けられた病気に対して、おどろき、おびえ、思考停止してしまう。それは、無理のないことである。
しかし、中には、「がんだけどしばらく様子を見られる病気」もあるし、「がんだし、あっという間に悪くなる」ものも含まれている。
この世にあるあらゆるものは、多かれ少なかれ、程度の差がある。
そのあたりを、デジタルよろしく、0か1かの区別できっちりわけようとすると、いろいろ無理が出る。病理診断というのは、そのあたりのアナログな感覚に対しても、できれば、毎回丁寧に対処していきたいものなのだ。
世の中にある「がん診療」……手術とか、抗がん剤とか、放射線治療とか、そういったものは基本的に、「確実に命に関わるがん」に対して行われる。
これらの治療は、「がんか良性か微妙な病気」については、そもそも行わないことも多い。行わなくても命に別条がないことがわかっているからだ(ケースバイケースですよ)。
あのね。
「がんもどき」みたいな病気があること。
がん診療を担う人々は、先刻承知なのですよ。
「こりゃほっといたらまずいだろ」という「がん」を、「まだ放っておいても大丈夫だな」という「がん」と区別するくらいのことは、精一杯させてもらっている。
アナログな診療の先に、強い治療をするかしないかという「決断」をきちんと出していくことこそが、がん診療なんですよ。
ということで病理診断も結構アナログであっていい、と、ぼくは思っているんですけれども、こんな裏話をお話すると、不安になる人たちもいるんだろうなあ。
さらにおまけの話をするならば、AIにはアナログさはないから、繊細ながん診療は人でなければできない、という結論もまた、間違いだと思う。AIをアナログにするアート、みたいなものも、理論上は十分にありえるのだ。
あいまいとかフレキシブルとかの先にある診療を語るのは、本当に疲れるし、今後はそういう「紋切り型の思考」を、いかに解きほぐしていくかを考え、伝えていかなければいけないのだと思う。
2017年3月28日火曜日
病理の鉄人という名前のポスターを作ったことがある病理学講座は手を挙げなさい
それにしてもレトルト食品とか冷凍食品の進化と言ったらすごくて、カレーにしてもパスタの具にしてもそうだが、あんかけチャーハンとか、コロッケとか、グラタンみたいなのもあるし、ハヤシライスとビーフストロガノフとハッシュドビーフの違いが事細かに表現されているといううわさもある(出所はぼく)。
そして、レトルトとか冷凍食品と、手で作った食品の違いと言ったら、名だたる一流料理人であっても、
「親が子どもにかける愛情は必ず伝わるものです」
とか、
「配偶者のために作った料理は食べている時間だけではなく作っている時間も宝物なのです」
みたいにしか表現できなかったりする。
ぼく自身は、ほんとうは、一人で具材をああでもないこうでもないと調理して楽しむ、「めしにしましょう」の世界であるとか、フォロワーの中にもいる料理の得意なクラスタとかを心底尊敬しているし、いつか自分の興味と実力が料理に向かう日が来たら……というか、もうちょっと中年がこじれたタイミングで必ず料理をしようと考えてはいるのだが、いまのところ、
「料理をする時間があったら病理をする」
という感じになってしまっているので、結局、レトルトとか冷凍食品は本当にありがたくて、しょっちゅう使っている。
でも、なんだろうな、最近はもう少し適当になってきて、ドレッシングとか柚子胡椒とか、素材にちょろっとかけたら味が付くよ、みたいな調味料を2つほど常備して、交互に野菜にかけたりするタイプの料理でもういいんじゃないかとか、そっちの方にステージが移ってきており、そうするとこれはずぼらの極み飯みたいなことになるんだけれども、なんだかレトルトをただ温めたときよりもちょっとだけロハスなスローライフっぽさが醸し出されてきたりする。
そういうところどうなんだろうと思う。
「活力鍋」のおまけについてきた小さな一人用のフライパンがあって、これはとにかく何を炒めてもすぐ焦げ付くくらい熱伝導がいいんだけど、これにうっすらとお水を張って、ちぎったブロッコリーとかざくざく切ったかぼちゃみたいなのを1品目だけ乗せて、ふたをしめて軽くあぶって、ブロッコリーの色がよくなるくらいのタイミングで火を止めておしまい、マヨネーズを軽くつけるか塩を振って食べる。
これはおふくろに教えてもらった「もっともずぼらな調理法」なのだが、夜中にブロッコリーだけ蒸し焼きにして塩で食いながらビールを飲んでいる自分は、ヘルシーなのか不健康なのかまったくわからないけれども、うーん、なんだか一番自分に合っているような気がしないでもない。
「料理の四面体」という本を読みながら飲むビールも、これまたうまいのでぜひ試していただきたいと思う。
そして、レトルトとか冷凍食品と、手で作った食品の違いと言ったら、名だたる一流料理人であっても、
「親が子どもにかける愛情は必ず伝わるものです」
とか、
「配偶者のために作った料理は食べている時間だけではなく作っている時間も宝物なのです」
みたいにしか表現できなかったりする。
ぼく自身は、ほんとうは、一人で具材をああでもないこうでもないと調理して楽しむ、「めしにしましょう」の世界であるとか、フォロワーの中にもいる料理の得意なクラスタとかを心底尊敬しているし、いつか自分の興味と実力が料理に向かう日が来たら……というか、もうちょっと中年がこじれたタイミングで必ず料理をしようと考えてはいるのだが、いまのところ、
「料理をする時間があったら病理をする」
という感じになってしまっているので、結局、レトルトとか冷凍食品は本当にありがたくて、しょっちゅう使っている。
でも、なんだろうな、最近はもう少し適当になってきて、ドレッシングとか柚子胡椒とか、素材にちょろっとかけたら味が付くよ、みたいな調味料を2つほど常備して、交互に野菜にかけたりするタイプの料理でもういいんじゃないかとか、そっちの方にステージが移ってきており、そうするとこれはずぼらの極み飯みたいなことになるんだけれども、なんだかレトルトをただ温めたときよりもちょっとだけロハスなスローライフっぽさが醸し出されてきたりする。
そういうところどうなんだろうと思う。
「活力鍋」のおまけについてきた小さな一人用のフライパンがあって、これはとにかく何を炒めてもすぐ焦げ付くくらい熱伝導がいいんだけど、これにうっすらとお水を張って、ちぎったブロッコリーとかざくざく切ったかぼちゃみたいなのを1品目だけ乗せて、ふたをしめて軽くあぶって、ブロッコリーの色がよくなるくらいのタイミングで火を止めておしまい、マヨネーズを軽くつけるか塩を振って食べる。
これはおふくろに教えてもらった「もっともずぼらな調理法」なのだが、夜中にブロッコリーだけ蒸し焼きにして塩で食いながらビールを飲んでいる自分は、ヘルシーなのか不健康なのかまったくわからないけれども、うーん、なんだか一番自分に合っているような気がしないでもない。
「料理の四面体」という本を読みながら飲むビールも、これまたうまいのでぜひ試していただきたいと思う。
2017年3月27日月曜日
病理の話(62) 削り節か活け作りかみたいな違い
病理では顕微鏡でプレパラートを見て診断するのだが、このプレパラート標本の作り方にも何種類かある。
「薄切」といって、検体を4μmという向こうがみえる薄さに切る特殊なワザ(技師さんが得意)がある。
カツオブシを削るやつと同じ原理、といったら分かるだろうか。
カツオブシを削るときには、カツオブシを「刃の上を通るように」すべらせて、薄く削るのだが、病理の薄切の場合は逆である。
検体を特殊な装置において、その上を「刃が滑る」。
で、この「薄切」により、検体はペラッペラになり、ほぼ透明になる。そこにヘマトキシリン・エオジン染色などの染色法を加えることで、細胞の「断面」が見えるようになる。
これが「組織診」。
なぜこんな面倒なことをするかというと、ミクロの世界というのはとにかく光量が足りないのだ。
同じ光の量で照らされた物体を見る時も、拡大をしていくと、単位面積あたりの明るさがばんばん暗くなっていく。顕微鏡というのは、たとえば接眼レンズ10倍×対物レンズ60倍の世界だから、600倍にものを拡大すると、それだけ光量がなくなってしまうので、
「自然光のもとにおいて、レンズで拡大」とやっても、まず、見ることができない。
だから、検体をぺらっぺらにしておいて、下から強力な光源でばちっと照らし、「検体を透過した光」を観察する。これだと、よく見える。
ま、そういうわけで、検体を光が通り抜けるくらい薄くすることが必要なのである。
一方。
たとえば子宮頚部の細胞診検査とか、肺や膵臓のブラシ細胞診検査と呼ばれるものは、ブラシの上に細胞を1個、もしくは少量ずつくっつけて採取してくる手法だ。
細胞1個の厚さというのは大して厚くない。小さいものだと5μmくらい。大きくてもまあ、普通は10とか20μmくらいだ。
検体内から採ってきた肝臓とか胆嚢とか、胃からつまんできた小指の爪の切りカスくらいの、センチとかミリ単位の検体であれば、先ほどの「薄切」で削り節みたいにしないと、光を透過させることはできないが。
細胞がごく少数ずつ、ばらけて採れてくるタイプの検査だと、そのままプレパラートに載せても、透過光で見ることができる。
「細胞診」は、この、「細胞をそのまま載っけた検査」のことを言う。
「組織診」は、削り節のほうである。
それがどうした。いっしょじゃねぇか、と言われてしまう。けど、けっこう違う。
組織診(削り節)は、断面だ。細胞の輪切りをみる。
これに対して、細胞診は、細胞の厚さがそのままプレパラート上に表現される。削り節ではなくて、ええと……盛り土……? は、まずいか……。
ごくわずかな違いではあるが……この、「細胞の高さ」を用いて、診断することができる、細胞診(盛り土)は、ときに、組織診(削り節)よりも、細胞そのものの性状を判断しやすいことがある。
もうひとつ。
細胞診を見るのは、技師さんの方が、たいてい得意なのだ。なぜ? と言われると説明がめんどくさいのだが、普段、盛り土の方は技師さんがいっぱい見ている。削り節の方は病理医が主に見る。
森井は岸よりも、盛り土をいっぱい見ているということである。森井土。なんでもないです。
2017年3月24日金曜日
今やっているのが10倍界王拳なんじゃ
「このメイクをすると、小顔に見えるんで、今すごく流行ってるんですよ~!」
という特集を見たあとに、件のメイクをしている人に出会うと、そうか、顔を小さく見せたいのか……と察してしまう。
「このパンツ、くるぶしが見えるくらいの長さではくと、足が長く見えるんですよ~!」
というCMを見たあとに、くるぶしパンツをはいている人に出会うと、なるほど、足を長く見せたいんだな……と勘ぐってしまう。
「○○を改善できるんですよ~!」系の商品やCMを使っている人は、多かれ少なかれ、世間から「○○が気になってしかたない人なんだな」と思われる。覚悟しておかなければならない。
ぼくは、常々、恐そうに見えるから伊達メガネをかけたり、ザコっぽく見えるからスーツで出勤したりしている。だから、そのへんの「コンプレックスが産み出す、購買力」がとてもよくわかる。
Nintendo Switchを買ったんです、やる時間がないけどつい買ってしまいました! みたいなツイートをしたときも、内心、おそらくはコンプレックスが購買につながったんだ、と思った。
この場合のコンプレックスとは、
・病理医ってひまそう
・なんか遊び方がへたそう
・人生をたのしんでなさそう
と周りに思われているのではないかということである。
だから、
・ひまじゃないよ
・けど遊ぶよ
・たのしいんでるよ
を全部盛り込んだ結果、よくわからない購入報告につながったのではなかろうか。
人間が自分を語る言葉は、多かれ少なかれコンプレックスによって突き動かされているのではないか、という仮説。
これは、おそらく、ぼくがコンプレックスによって行動することがあまりに多いために、ぼくだけだと恥ずかしいので、広く一般論にしてしまえばぼくが一人にならなくてさみしくないだろう、という、「木を隠すなら森、気を隠すなら界王拳理論」の末に導き出されたものではないかと推測できるのだ。
という特集を見たあとに、件のメイクをしている人に出会うと、そうか、顔を小さく見せたいのか……と察してしまう。
「このパンツ、くるぶしが見えるくらいの長さではくと、足が長く見えるんですよ~!」
というCMを見たあとに、くるぶしパンツをはいている人に出会うと、なるほど、足を長く見せたいんだな……と勘ぐってしまう。
「○○を改善できるんですよ~!」系の商品やCMを使っている人は、多かれ少なかれ、世間から「○○が気になってしかたない人なんだな」と思われる。覚悟しておかなければならない。
ぼくは、常々、恐そうに見えるから伊達メガネをかけたり、ザコっぽく見えるからスーツで出勤したりしている。だから、そのへんの「コンプレックスが産み出す、購買力」がとてもよくわかる。
Nintendo Switchを買ったんです、やる時間がないけどつい買ってしまいました! みたいなツイートをしたときも、内心、おそらくはコンプレックスが購買につながったんだ、と思った。
この場合のコンプレックスとは、
・病理医ってひまそう
・なんか遊び方がへたそう
・人生をたのしんでなさそう
と周りに思われているのではないかということである。
だから、
・ひまじゃないよ
・けど遊ぶよ
・たのしいんでるよ
を全部盛り込んだ結果、よくわからない購入報告につながったのではなかろうか。
人間が自分を語る言葉は、多かれ少なかれコンプレックスによって突き動かされているのではないか、という仮説。
これは、おそらく、ぼくがコンプレックスによって行動することがあまりに多いために、ぼくだけだと恥ずかしいので、広く一般論にしてしまえばぼくが一人にならなくてさみしくないだろう、という、「木を隠すなら森、気を隠すなら界王拳理論」の末に導き出されたものではないかと推測できるのだ。
2017年3月23日木曜日
病理の話(61) 戦場で何を探るか
病理医の主戦場というと、やはり「がん診療」である。
では、がん診療においてぼくらがやっていることは何か。
患者さんから採ってきた細胞が、「がんか、がんでないか」を判断するという、イエスかノーかの二択に挑むこと。
たしかにこれがいちばんわかりやすい。
だから、医療者の多くは、たとえばフラジャイルを見た人から「病理医って何なの、知ってる?」と聞かれた時に、
「あー、病院の奥の方で、これはがんだとか、これはがんじゃないとか、そういうのを決めてくれる人たち。」
などと答えているようだ。
ただ実際には、ぼくらはもう少し、細胞を細かく見ている。
「がんか、がんじゃないか」に加えて、いろいろな評価をする。
その評価は臓器ごと、がんごとにあまりに多彩なので、各種の学会から、「がん取扱い規約」などという指針が示されている。
規約に従って、がんを事細かに評価していく。
たとえば、大腸がんなら、こうだ。
・占拠部位(がんがある場所)
・肉眼型(がんが作る、カタマリのかたち)
・大きさ
・断端(手術をしたときに、がんが、採り切れているかどうか)
・深達度(がんがどれだけ深く臓器にしみ込んでいるか)
・リンパ節転移の数
・遠隔転移の数(大腸以外の臓器にどれだけ転移しているか)
・組織型(がんの中でも、何がんに当たるか。細胞レベルでのがんのかたち)
・間質量(がんの周りにどれくらい線維が増えているか)
・浸潤増殖様式(がんがどれくらいばらけてしみ込んでいるか)
・脈管侵襲(血管やリンパ管の中にがん細胞が入り込んでいるかどうか)
・簇出(がんがカタマリからちぎれるような挙動を示しているかどうか)
・神経侵襲(神経の周りにがん細胞が這っていっているかどうか)
・ステージ(がんの総合的な進行度)
・遺残の有無(体の中にがんが残っているかいないか)
これらが、特に手術の後に出される病理報告書には、細かく記載される……。
さて、今の箇条書きを、丁寧に読み込んだ方というのは、どれくらいいらっしゃるだろう。
多くの方は、読み飛ばしたのではないか。
読み飛ばさずにしっかり読んでくださった方も、これによって頭の中に、何か具体的ながんのイメージというものを思い起こすことができただろうか。
ぼくは、この箇条書きをみるだけで、がんを思い浮かべるのは、相当難しいだろうなあと思っている。
実際、臨床医にとっては、これらの項目をすべて埋めてさえくれれば、病理の仕事としては十分なのである。箇条書きの結果をコンピュータに読み込ませて、今後、この患者さんの病気がどうなるだろうかとシミュレーションを考えたり、治療方針を決定したりすることができる。
ただ、実は、臨床医であっても、これらの箇条書きを眺めただけでは
「実際に、がんがどういう感じで広がっていたのか、体の中で何を起こしていたのか」
は想像がつかない。
この箇条書きは、統計を取ったり、ベッドサイドで治療方針を決めるために最適化された「記号」なのである。実体を記号に置き換えて記載した以上、逆に、記号を元の姿に戻すこともできそうなものだが、高度に効率化された病理診断の記号は、元のイメージがつかみにくいものになってしまっている。
いや、ま、慣れていればできるんだけれども。
よっぽど病理に興味がある臨床医でなければ、これらの箇条書きだけをみて、実際のがんの姿を想像することなんでできないのだ。
実はここに、「病理医が人でなければならない意味」が隠されているのではないか、と最近考えている。
具体的には、「記号で事実を処理したときに、ぼくらの心の中に生じる、なんだか煙に巻かれたような感覚」が、患者さん、さらには医療者にとって、無視できない程度のストレスになるのではないかなあ、それはきちんと説明していかないといけないんじゃないかなあ、ということなのだが……。
続きはまたいずれ。最近書いていることは、どれもこれも、ひとつのテーマに向かっています。おわかりかもしれませんけど。
では、がん診療においてぼくらがやっていることは何か。
患者さんから採ってきた細胞が、「がんか、がんでないか」を判断するという、イエスかノーかの二択に挑むこと。
たしかにこれがいちばんわかりやすい。
だから、医療者の多くは、たとえばフラジャイルを見た人から「病理医って何なの、知ってる?」と聞かれた時に、
「あー、病院の奥の方で、これはがんだとか、これはがんじゃないとか、そういうのを決めてくれる人たち。」
などと答えているようだ。
ただ実際には、ぼくらはもう少し、細胞を細かく見ている。
「がんか、がんじゃないか」に加えて、いろいろな評価をする。
その評価は臓器ごと、がんごとにあまりに多彩なので、各種の学会から、「がん取扱い規約」などという指針が示されている。
規約に従って、がんを事細かに評価していく。
たとえば、大腸がんなら、こうだ。
・占拠部位(がんがある場所)
・肉眼型(がんが作る、カタマリのかたち)
・大きさ
・断端(手術をしたときに、がんが、採り切れているかどうか)
・深達度(がんがどれだけ深く臓器にしみ込んでいるか)
・リンパ節転移の数
・遠隔転移の数(大腸以外の臓器にどれだけ転移しているか)
・組織型(がんの中でも、何がんに当たるか。細胞レベルでのがんのかたち)
・間質量(がんの周りにどれくらい線維が増えているか)
・浸潤増殖様式(がんがどれくらいばらけてしみ込んでいるか)
・脈管侵襲(血管やリンパ管の中にがん細胞が入り込んでいるかどうか)
・簇出(がんがカタマリからちぎれるような挙動を示しているかどうか)
・神経侵襲(神経の周りにがん細胞が這っていっているかどうか)
・ステージ(がんの総合的な進行度)
・遺残の有無(体の中にがんが残っているかいないか)
これらが、特に手術の後に出される病理報告書には、細かく記載される……。
さて、今の箇条書きを、丁寧に読み込んだ方というのは、どれくらいいらっしゃるだろう。
多くの方は、読み飛ばしたのではないか。
読み飛ばさずにしっかり読んでくださった方も、これによって頭の中に、何か具体的ながんのイメージというものを思い起こすことができただろうか。
ぼくは、この箇条書きをみるだけで、がんを思い浮かべるのは、相当難しいだろうなあと思っている。
実際、臨床医にとっては、これらの項目をすべて埋めてさえくれれば、病理の仕事としては十分なのである。箇条書きの結果をコンピュータに読み込ませて、今後、この患者さんの病気がどうなるだろうかとシミュレーションを考えたり、治療方針を決定したりすることができる。
ただ、実は、臨床医であっても、これらの箇条書きを眺めただけでは
「実際に、がんがどういう感じで広がっていたのか、体の中で何を起こしていたのか」
は想像がつかない。
この箇条書きは、統計を取ったり、ベッドサイドで治療方針を決めるために最適化された「記号」なのである。実体を記号に置き換えて記載した以上、逆に、記号を元の姿に戻すこともできそうなものだが、高度に効率化された病理診断の記号は、元のイメージがつかみにくいものになってしまっている。
いや、ま、慣れていればできるんだけれども。
よっぽど病理に興味がある臨床医でなければ、これらの箇条書きだけをみて、実際のがんの姿を想像することなんでできないのだ。
実はここに、「病理医が人でなければならない意味」が隠されているのではないか、と最近考えている。
具体的には、「記号で事実を処理したときに、ぼくらの心の中に生じる、なんだか煙に巻かれたような感覚」が、患者さん、さらには医療者にとって、無視できない程度のストレスになるのではないかなあ、それはきちんと説明していかないといけないんじゃないかなあ、ということなのだが……。
続きはまたいずれ。最近書いていることは、どれもこれも、ひとつのテーマに向かっています。おわかりかもしれませんけど。
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