2017年10月19日木曜日

皿の上のふわふわ

「地上の飯」(中村和恵)がとてもよかった。すごく乱暴に説明するならば、「食べることにまつわるいろいろを書いたエッセイ」なのだが、なんというか、上質だった。

「料理の四面体」を読んだ時も思ったのだが、学者が食をめぐって書く文章というのはとてもおもしろいなあと思う。

いや、学者じゃなくてもいいんだけど。よく考えるとぼくが椎名誠の本をおもしろく読むとき、旅とおなじくらい食に深入りしていたように思う。

数えてみれば、病理より料理の本を多く読んでいるかもしれない。




でもぼくは、食べ物についてはタンパクで、どこに出張したときに何を食べてどう思ったか、みたいなことをまったく覚えていない。

「山口で食べたはもしゃぶが、今まで食べた食べ物のなかで一番おいしかった」、という「自分の口をついて出た文章」は覚えているのだが。

今、はもしゃぶがどうおいしかったか、思い出せない。

「岡山で飲んだ赤磐雄町の日本酒がとてもおいしかった」、という「文章」は覚えているのだが。

ぼくは日本酒の味の違いを言い表せるだけのことばを持っていない。




「それでも町は廻っている」で亀井堂が、

「それを言葉にしていくのが小説なんだよ。突飛な事書こうとしてもだめなんだ」

というシーンがある。はじめて読んだ時、「ああ、ぼくは小説家にはなれないな」と、しっくりきてしまった。

どうおいしいか、どううれしかったか、それを言葉にできないぼく。

食レポもできないしフードエッセイも書けない。

そして、だから、そういう本を読むのがとても楽しい。




料理をことばにできないぼくは、じゃあ、病理をことばにできているのかと考える。

果たしてどれほどできているものか、と、自問する。




「ことばにできない」という歌詞は一発勝負だ。ことばにできない、と言って言葉にしてしまっているわけで。伝家の宝刀をさっさと抜いてしまった小田和正がその後書き続けたすばらしい詩の数々を見るにつけ、「なんと表していいかわからない」をクリエイティブな文脈で用いることができるのは、たった一握りの、ことばに愛された人間だけなのではないか、と考えさせられる。

ぼくは、ことばにできる、と信じて進んでいかなければやってられない方の、人間である。

2017年10月18日水曜日

病理の話(132) 診断のスピードと確度

現代の診断学は2種類にわかれる。

「1.その場で決めなければいけない診断」と、

「2.その場で決まるわけがないが、いつか決めなければいけない診断」だ。




「1.その場で決めなければいけない診断」は、まちがうと、いけないことがおこる。

具体的にどういけないことがおこるかというと、ざっくり言えば、脳に酸素や栄養が行かなくなって、患者の人生が終わる。

脳梗塞とか心筋梗塞とか肺塞栓とか、銃創とか、たいてい、これだ。

心臓が動かなくなるから死ぬ、肺で酸素をとれなくなって死ぬというのは結局のところ、脳に血液が行かなくなることが一番まずいのであって、極端な話、死にかけている人全員に瞬間的に人工心肺を接続する技術があれば、大部分の救急患者はしばらくの間生きることができる。

※中には敗血症のように、全身に菌が蔓延して、サイトカインの嵐が体中を吹き荒れるタイプのやばいやつもあるので、まあ、全部が全部「脳を生かせばOK」というわけではないんだけれど。




では、

「2.その場で決まるわけがないが、いつか決めたほうがいい診断」

とは、何か。

せき(咳)が代表である。

せきに苦しんで病院に来た患者は、たとえば喘息かもしれないし、気管支炎かもしれないし、心不全かもしれないし、逆流性食道炎かもしれない。

これを100%の確率で確定診断するというのは、実はかなり難しい。

詳細な問診(医療面接)と、ある種の検査で、あるひとつの疾患の「可能性」を100%に近づけようとするのだが、ものごとにはいろいろと例外みたいなものがあって、ま、100%の診断が出せることはほとんどない。

名医であればあるほど、決まらない。逆説的だけれど。名医とは小さな可能性も見逃さない医者だから、低確率であっても有り得る病気というのをスパスパ思い付くわけで、いつも100%の診断を出すなんて怖いことはしない。

診断が100%になるまで動き出さないわけではなく、70%くらいの確率でこれだろう、と思った時点で、アクションを起こす。

「これはぜんそくだとしたらこの薬が効くだろうし、ぜんそくじゃないとしてもこの薬を出して悪いことはあまりないな」

のように判断し、ぜんそくの薬を出す。

患者は薬を飲んだり吸ったりする。

医者は、ここで、「様子をみる」。1週間とか、2週間とかだ。

もし薬が効けば、そして、医師と患者の双方が納得すれば、診断は「ぜんそくで確定」となる。

もし薬が効かなければ、「ぜんそくの薬が効かなかった」という新たな情報を加えることで、「では少しまれな感染症か? たとえば心臓の病気? あるいは食道に胃酸が戻ってくる病気か?」と、各々の診断の選択肢が少しずつ入れ替わっていく。




「1.その場で決めなければいけない診断」をしている人の方が偉いとか、すごいとか、そういうことを言いたいわけではない。

「1.その場で決めなければいけない診断」というのは誤診率も高い。そりゃそうだ。様子を見ているうちに死んでしまうからだ。生命維持に努めつつ、診断が決まらず、結局死んでしまうというのは救急の現場では毎日のように起こっている。これは医療者が無能だというよりも、現代医療の限界なのである(もちろん多くの医療者たちがこの限界を伸ばそうと日々がんばっているけれど)。



一方、「2.その場で決まるわけがないが、いつか決めなければいけない診断」は、患者と良好な関係を気づいていないと正しい診断にたどり着けない難しさがある。

「効くか効かないかわからないけれど、とりあえずこの薬を試してみましょう」

と言われて、不安に思わない患者はいない。ベイズ推計によってなされる臨床診断学の要諦を、患者にもよくわかってもらえるだけの「会話能力」が必要なのだ。




で、病理診断はどっちにあたるかというと、これはおそらく、

「2.その場で決まるわけがないが、いつか決めなければいけない診断を、今日決めて欲しいと言われて、ばしっと決める役割」

なのである。




勘のいい方はおわかりかと思うが、この仕事、1と2の双方の専門家に、よく怒られる。

1の方には、「いいよなー病理は、死ぬか生きるかの世界じゃないんだもん」とあざけられ。

2の方には、「病理にまで出すんだから、ビシッと決めてくれよ、細胞まで見てるんだからさ、わかるだろ」とたかをくくられる。

フフ、わかるわかる。まあまかせておきたまえ。1でも2でもない診断というのを見せてあげますよ。

2017年10月17日火曜日

一瞬だけど閃光のように

中学生くらいのときにサインの練習をしたっけなあ。

あのとき考えたサインのいくつかは、今もおぼえている。

子供の考えるサインなんてものは、自分がスポーツとか芸能とかで有名になったときに、色紙にかっこよく、見栄え良く書くためのデザインだ。

だから、とにかくめちゃくちゃに書きづらい。無駄に凝っている。

シャッと縦棒書いておいて、そこから横にシュッシャッと飛び出て、ここがくるんとしてこっちとつながって……。

そういうのを考えるのが楽しかった。




ぼくはスポーツ選手にも芸能人にもならなかったけれど、幸いというか不幸にしてというか、今、毎日サインを書く生活をしている。

病理診断報告書にデジタル署名をしたあと、印刷した報告書にボールペンでさらにサインをつける。

狭いスペースにすばやく名前を書くことを数百、数千と繰り返すうち(計算したら、今の病院に来てから50000回くらい名前を書いているはずだ)、もともと「市原」と書いていたものがだんだんと省略され、「機能によって淘汰されてできあがったデザイン」。

まったくかっこよくない。スタイリッシュさがない。

けれど、中学生のときに書いていたサインよりも、はるかにサインっぽく仕上がってしまった。



当院の病理診断報告書はそろそろ完全にペーパーレスに移行するので、サインを書く機会も激減する。出張先や当院の関連病院の診断書を書くときくらいしか、サインをしなくなる。

そしたら、今のサインを捨てて、もう少しかわいいかんじの、サインの中にうさぎが浮かび上がってくるようなデザインのやつを新たに作り直してもいいかもしれない、と思う一方……。

中学生のころのように、サインを考えるだけで1日がぱあっと明るく楽しくなるような感情は戻ってこないだろうなあと、わかっている。知っている。



書店に置くポップを書きながら、そんなことをずっと考えている。

2017年10月16日月曜日

病理の話(131) カメラマンも舞台演出家も背景を気にするものだと思う

手術で採ってきた臓器を目でみて、病気(たとえばがん)のあるところを切り、切り口の写真をとる。

病気はどのようなカタチをしているか。

色調をみることで、血液が多く流れ込んでいたかどうか(燃費がわるいヤツかどうか)、硬く瘢痕のようになっていないかどうかがわかる。CTやMRIの画像を頭に思い浮かべる。

輪郭をみることで、この病気が周りにしみ込んでいるか、それとも周りを押し広げているかがわかる。がんであれば周りをぶちこわしながらしみ込んでいくだろう。顕微鏡を見なくても、けっこうわかるものなのだ。

病気の切り口を、ナイフの背の部分で少しなでてやる。

ナイフの背に、黄色くぼそぼそとした、しめった耳垢のようなカスが付着するとき、そこには「もろくてぼろぼろとした組織」があることがわかる。こういうのは「壊死(えし)」である。

壊死というのは細胞が死んだ部分だ。

がんは、自分があまりに急激に増えて大きくなるものだから、うっかり周りから栄養をとるスピードが追いつかないことがある。だから、病気のへりの部分ではすごく元気にまわりにしみ込むけれど、病気のど真ん中では「餓死」してしまっている場合がある。そういう壊死成分がどれくらい含まれているか、切り口を見て、ナイフの背でなでることで、ある程度わかる。

十分に観察を終え……。

顕微鏡標本を作る場所を決める。すべてをプレパラートにしていたらきりがない。診断に必要な部分をじっくり見極めて。


そして、病気を顕微鏡でさぐりにいく……。




トゥルルルル。

(ガチャ)「はい病理市原です」

「あっ、先生おつかれさまです。今いいですか?」

「はいどうぞ」

「ID言いますね。○○○○○○……」

「○○○○○○……XX XXさん。はい、この方ぼくが診断しましたねえ」

「ええ、その方です。病気の診断たいへんよくわかりました。どうもありがとうございます。それでですね、実はちょっと追加で、『背景』について検索していただきたいんですが……」





背景。

たとえば胃。たとえば肝臓。これらは、がんをはじめとする病気が出る際に、「がんではない部分」にも変化がある。

周りの、がんではない胃粘膜や肝細胞にも、なにがしかの異常が起こっていることがある。

あたかも、「らんぼうな校風の高校を中退して、不良になった」みたいに。

がんをとりまく「環境」を観察することで、がんが出てきた「原因」のようなものが見えてくることがある。

だから、医療者はときどき、「背景」を気にする。



この背景の評価が実に難しいのだ……。



「がん」というのは、医療者にとって、無意識のうちに「本気で取り組まねば」と気を引き締めるものである。

がん以外の病気をなめているというわけではないのだが。病気に貴賤はないのだけれど。

やはり、臓器に「がん」があるとき、医療者はそこにぐっと着目してしまう。

なんとか見定めよう、やっつけてやろうと、やっきになる。必死になる。

無意識のうちに、「背景」の観察はおざなりになる。



だから、「意識して」、背景を観察しないといけない。がんじゃないからどうでもいいや、ではなく、「がんに関係のある情報が少しでも得られないだろうか!」と、かなり気を強くもちながら、入念な観察をしなければいけない。





……なんだか当たり前のことを言っているように聞こえるだろう。

ぼくだって当たり前だと思っている。

けれど。

こないだ、ある病気の「背景」について、ある発見をした人がいた。

その発見を人づてに聞いて、ぼくは「うわああああ」と思ってしまった。

この病気、とてもよく知っている。何度も診断している。なんなら、ほかの病理医よりも、ぼくは少し詳しいかも知れない(専門のひとつとしている領域である)。

けれど、こんな「背景」、考えてもみなかった。

がんとは離れた部分に、こんな変化が出ているなんて。




盲点、とか、落とし穴、という言葉がよぎる。

人間は無意識のうちに、見たいところを選別し、見づらい領域を作ってしまっているのかもしれない。

意識して、穴をふさごうとしないと。

声出し確認をするように、細かい観察をこころがけないと。



病気とその背景を解析するという作業は前に進んでいかないのだ。ああぁー。自分で気づきたかったなあ。これ……。

2017年10月13日金曜日

からだすこやかじゃ にぶる~

「トクホのマークがついたお茶」をコンビニで売っている。

ふつうのペットボトルに比べると高い。

けっこう高い。

脂肪を代謝する力を高めてどうとか言ってる。

効きやしねぇよ、と思うけど、ま、こういうのって、気休めに「のっかった」ほうがけっきょく効くもんだよなあ、とか思って、しばらくスルーしていた。




最近、朝にペットボトルのお茶を買って職場にもちこんで、仕事中にちびちび飲みながら働いているのだが、くるくるあちこちで働いているうちにペットボトルの前を離れてしまい、結局帰宅するまでぜんぶ飲みきれない、ということが続いた。

もったいないので冷蔵庫にひやしておく。

翌朝、冷蔵庫から取り出すのを忘れる。

職場につくころに気づく。

あっお茶……。

しょうがないから買い直す。

がんばってはたらく。

今日も忙しかった。全部飲みきれなかった。

帰宅して、1/4くらい残ったお茶を冷蔵庫にしまう。




……昨日、冷蔵庫をあけたら、ちょびっとずつ中身の入ったお茶のペットボトルが4本あった。

ジャスミンジャスミンウーロン麦。

やめてくれ、と思った。

そこでピンときた。

「あのトクホのお茶……。あれ、量は少ないけど、もしかして、今のおれには、ちょうどいい量なんじゃねぇのかな?」




ためしに高いやつを買ってみた。ヘルシーになりそうな名前のやつを。

仕事が終わるころ、ちょうど飲み終わった。やったあ!

ほくほく顔で、スタッフのひとりに話してみた。このお茶ね、ちょっと高いし、量も少ないけど、この量がぼくにぴったりなんですよぉ。

スタッフは言った。

「先生、元気ですね……いろんな意味で……」





そうだろうそうだろう。

ニュアンスを超えたところに健康はあるんだぞ。

2017年10月12日木曜日

病理の話(130) 大中小と主観的評価あれこれについて

細胞の良悪(命に関わるか、そうでないか)を判断するとき、しばしば参照されるのが「細胞核の大きさ」である。

大きさ。

大きいか小さいか。

細胞核が普通よりも大きければ悪性の可能性が高い。

あるいは、ごつごつ感。

細胞核が普通よりもごつごつしていれば、がんっぽい。

実にあいまいな尺度ではないか! そんな、人によって判断が変わるような基準で、がんかがんではないか、人間の一生に関わる問題を診断するなんて。なんて主観的なんだ! 病理診断は病理医の胸先三寸で行われているッ!



みたいな話を(主にネットで)目にすることがあるんだけど、ま、心配しなくても、これに関してはそうそう問題になるケースは多くない。


実は、核の大きさとかごつごつ感とか、クロマチンの量とか核膜の不整さとか、核小体が目立つかどうか、といった尺度は、思ったよりも「アナログ」ではない。

核の大きさが「小」「中」「大」として。

「小」と「大」が多いのだ。「中」が少ない。

ごつごつ感の強さが「弱」「中」「強」として。

「弱」と「強」が多いのだ。「中」が少ない。



何を言いたいのかというと、どんな病気の病理診断においても、「あきらかな異常」がどこかにみられることが多く、「中間的で、迷う」ような所見は意外と少ないのである。



これにはおそらく理由がある。

核が大きくなり、形もごつごつになるというのは、核の中に含まれているクロマチン≒DNAの量が異常に多くなり、容れ物の中におさまりきらなくなるためだ。いわゆる増殖異常のサインである。

この「DNAの増殖異常」には、基本的に、はどめがかからない。

正常の細胞では「制御がはっきりしている」から、核の大きさは小型で均一に留まっている。

しかし、がん細胞では「制御がきかない」のだ。やたらめったらとDNAが複製されまくる。

「ほどよく1.5倍くらい増やそう」とか、「まあせいぜい2倍にしておこう」みたいな遠慮は、がんにはない。

「とにかく無制限でゴー!」となっているのが、がんだ。



「弱」「中」「強」のカテゴリーにわけるとするならば、「中」で留まっているケースは意外と少ない。異常があるならひたすら「強」として出てくる。



だからこそ、人間がプレパラートで見てもはっきりわかるくらいに、細胞のカタチとして異常を見つけることができるのだ。



毎日細胞を見ていれば、9割5分くらいの細胞は、秒単位で「いいか悪いか」を判断することができる。もちろん、残りの5分では十分に迷わなければいけない。

毎日細胞を見ていれば、「弱」と「強」の区別はなんなくつくようになる。5分の「中」ではもちろん迷うが。



……「毎日細胞を見ていれば」。

毎日細胞を見ていないとどうなるか。

弱と強の区別がつかないのである。だから、ま、素人から見ると、病理診断というのはとても主観的に見えてしまう。

まあもう主観的ってことでいいけど。

けど主観にも根拠があるよってことは知っといてほしいナって思う。





今の「ナ」が気持ち悪いと思った人、それを主観というのです。

2017年10月11日水曜日

この事ばかり気にかかる

「猫たちの色メガネ」を読んでいた。

ぼくはすぐ、読んだ本を何かにリンクさせたがる悪いクセがある。この本を読んで考えたことはアレに使えるなあ。この本みたいな風景を前にも何かの本で読んだぞ。ああ感動した、この感動はあれと同種の感情だ。これと同じジャンルの本はほかにあの人とあの人が書いていたなあ……。

「猫たちの色メガネ」を読みながら、ああ、そういう読み方ばっかりするようになったぼく、つまんねぇ男だなあ、と思ってしまった。



なんでもそうだ。一日の中で経験したことすべてに意味を求めている。

ツイッターでひとつリプライが来たなら、その経験をどこかに書き留めて、いつか別の話題でうまいこと放出しようと考えている。

日常でした何気ない会話のひとつをいつまでも大切にとっておいて、いつかブログの記事にしたらうまいこと書けちゃうんじゃないかと虎視眈々と狙っている。

なんだかつまんねぇなあ、と思ってしまった。



そこに起こった出来事に、意味はある。理由があり背景がある。積み重なった無数の選択がある。人の意志でどうにもならない、自分で選んでいるようで実は全く選択肢がない、選ばされている選択もある。

そして、ああ、なんかそういうことがただ、起こったのだなあ、と、写真1枚を撮って先に進むようなやりかたも、できるのだと思う。



インスタ慣れした世間はみなそうやって、あらゆる出来事に意味づけすることをもはやあきらめているようにも思う。

ぼくも、全ての出来事に理由を問いかけるのをやめてみたほうが、いいのではないか。




「猫たちの色メガネ」の本文中、「こ」だけは違うフォントが用いられている。

なぜだ? と問わないで、そういう本なんだなあ、と。

……生まれ変わらないと無理だな、問わずにいること。




あらゆる物事に何かをリンクさせたがるぼくは、「こ」に気づいた日の夜、ほとんど眠れずにずっと「こ」のことを考えていた。何かうまいこと書けないだろうか、と、考えながら。