2018年6月29日金曜日

病理の話(216) 病理とは何か何度目かわからんけど真っ正面から考えてみた

「216回目」という数字はべつにきりがよくもなんともない。

でもまあ今日はそういう気分だ。だから、真っ正面から、病理医とは何をする仕事か、病理診断とは何をやっているのかということを書いてみる。




患者は病院に行ったり医療者と関わることで、大きく分けて3つのサービスを得ることができる。

1.診断
2.治療
3.維持

である。

たいていの人は、病院という場所とか医療者という職業人にそれほど興味がないので、「2.治療」だけが病院のやる仕事だろうと思っている。もちろん、病気を治そうとし、症状を少しでもやわらげようとすることは病院の大切な仕事だ。

でも、それだけではない。病気の名前を決めて、その病気がどれくらいひどいものなのか、体のどこを侵しているのかをきちんと評価する必要がある。これを「1.診断」という。

さらに、「3.維持」というのが医療においては極めて重要だ。すでに診断もつき、治療も行っているからといって、患者がそれで世の中に放り出されるというのはありえない。病を抱えた患者にはサポートが必要なのだ。人はそれを介護の場面や、リハビリの場面、薬の飲み方を薬局で尋ねる場面、病気の予防法を本で探す場面などで実感する。人間が今まで通りの暮らしを「維持」しようとする試みこそは、医療ではもっとも手間がかかり、人手が必要な分野なのである……。



さてと、「3.維持」の話をだいぶ濃厚にしたのには理由がある。病院で働いている人の人数を考えてみると、じつは医者よりも看護師のほうが圧倒的に多い。これは、看護師こそが「維持のスペシャリスト」だからだ。維持こそは人数が鍵を握る。

ほかにも理学療法士、作業療法士、栄養士などはすべて基本的に「維持」のために病院に雇われている人たちである。




では、「1.診断」と「2.治療」を行う人は誰か?

これは原則的に医師が行うということになっている。

医師免許というのは、「2.治療」を行えるほとんど唯一の資格なのだ。だから、「2.治療」をやりたくて医者を目指す人が今でもいっぱいいる。




さあそうなると気になってくるのは「1.診断」の部分である。

病気の名前を決めて、その病気がどれくらい進行しているかを判断する仕事……。

ほんとにとっても大事な仕事なのだけれど、医者の半分くらいはこの診断に命をかけていると言っても過言ではないんだけれど。

病院の中で、「1.診断」だけをやって働いている人というのは、実はほとんどいない。

医者ならたいていは「2.治療」を一緒に行う。他の職種も同様だ。



で、今日の話だけれど、病理医というのは医者の一種である。

医者の一種ではあるが、普通の医者とははっきりちがう点がある。

「2.治療」を全くしない。そんな医者はほとんどいない。

「3.維持」を全くしない。そんな医者もめったにいない。

「2.治療」「3.維持」を両方とも全く行わない。そんな医者は病理医と研究者くらいのものなのだ。




病理医は処置をしない。処方をしない。薬を出さない。注射を打たない。心臓マッサージがヘタ。かっけの検査すらできない。簡単な傷も縫えない。飛行機でお医者さんはいらっしゃいませんかといわれてもいませんと答える。

そこまでして「1.診断」をする。



診断をする方法も変わっている。体の中からとってきた細胞を直接みる。実際に臓器をまじまじと見て、顕微鏡でさらに見る。どこまでも細かく見る。ときに、細胞の形とか配列だけではなく、細胞に含まれているタンパク質だけを特殊な技法で光らせて見る。酵素だけを見る。糖や脂肪すら見る。

そうやって、見て、考えて、分類して、考えて、概念を練り上げて、考えて、また見て、を繰り返す。

それで医者としての給料が得られる。なんとも不思議な仕事なのだ。




病理医は見たものを書いて残す。

患者と直接会話をしない病理医は、静かな部屋に座る。主治医からの連絡を読み、検査データを読み、CTやMRIの画像を読み、患者の背景を読み取り、病気の正体を読み取り、書く。

診断書を書く。

病理診断報告書を書く。

書いたものを主治医が読む。疑問に思えば電話をかけてくる。

病理医はその電話をとる。話す。ようやく話す。話すことがいっぱいある。でも時間はあまりない。適切にかいつまんで話す。





診断・治療・維持の三本柱の、診断だけ、それも細胞をみるという限定された環境下での組織診断という非常に細かく専門的な仕事だけをして、書く。




それが病理医である。





まあこんなとこかなあ。また100回くらい経ったら書きます。「いち病理医のリアル」という本を読むとこのあたりがすごくちゃんと書いてますのでおすすめします。えーと著者はだれだっけ……忘れました。そういえば重版かかりますといったっきりかからなかったな。値段が高すぎたんだと思うな。

2018年6月28日木曜日

全くとは言ってません

ワールドカップの報道をみるたびに「どうせ日本は勝てないんだ」とつぶやくタイプの大人がいて、彼はサッカーをみることで自分の大脳の深いところに眠りこけていた幼児のような感情を蘇らせ、脚をくねらせたり眉をしかめたり口をとんがらせたりしているのだなあ、それはいいことではないか、サッカーに感謝するがいいさと、ほほえましく思った。

いい大人がガキみたいにねじくれた感情を吐露するシーンは貴重だ。

SNSならまだしも。現実社会で、大人はみんな大人としてやっていく。




このブログ記事が掲載されるころには、サッカー日本代表の戦いはいくつか終わっているだろう。書いている今はまだ一試合もはじまっていないからこんな呑気なことが書ける。実際、世の中には、サッカーの日本代表が勝つ勝たないでまるで今後の仕事内容が変わってしまう人、サッカーの日本代表の成績次第で今後の給料がなくなってしまう人、代表を育成したりトレーナーとして帯同したりチームドクターであったりシェフであったりした人、さらにはサッカー日本代表を目指してチームを鍛え上げていく指導者、サッカーを通じて教育を行う者、サッカーから何かをごくごく吸収する哲学者、サッカーによって酒を飲むおじさんなどがいるわけで、そういう人たちはまだ日本代表の試合が始まっていない今もとてもまじめで真剣だ。そんな人たちをぼうっと眺めながらぼくがこんなにのんきなエッセイを書けてしまうのは、ぼくがしょせん傍観者だからである。

傍観者というのは常に平和で無責任で幸せでなければいけない。

このことは実はとても難しいのである。

口と手と金のいずれかを出したらそれはもう傍観者ではない。口を挟んだ瞬間に責任がつきまとう。手を出すからには何かを握らなければいけない。黙って金を出した時点で関係者である。平和で無責任な傍観者でいたければとにかく何も出してはいけない。出していいものがあるとしたらそれは幸せのオーラであり感動の歓声であり満足のため息である。主流煙としてコンテンツを摂取したあとにほわっと吐き出す副流煙だけが、傍観者が出力を許されている唯一のものなのだ。



あとはふぁぼも出していいと思う。そういうスタンスでTwitterをやるのが一番ひとを傷つけないし自分を守ることができる。ぼくは最近、誰にも怒られなくなった。

2018年6月27日水曜日

病理の話(215) 話を聞いたらあれこれ分類

病気を分ける方法はいくつかある。


たとえば、原因でわけてみよう。

・細菌とかウイルスが原因(感染症)

・何かが体の中で詰まる(心筋梗塞、脳梗塞、尿管結石など)

・体の輸出入バランスがおかしくなる(糖尿病、脂質異常症など)

・外からやってきた何かが体の一部を壊す(ケガ、薬剤性の胃腸炎など)

・体内にいる警察的存在が善良な体細胞を攻撃してしまう(自己免疫性の疾患)

・細胞がもっているプログラムの異常(がんなど)



まだあるけど、こんな感じだ。原因が違えば対処法も異なる。




ほかにも、「病気の原因が生じてから、発症までにかかる速度」でわけることもできる。

・すぐ発症……ケガなど

・わりとすぐ発症……心筋梗塞、一部の感染症など

・そこそこゆっくり発症……多くの感染症など

・ゆっくり発症……脂質異常症など

・かなりゆっくり発症……がんなど

この分け方はかなり適当にやった。実際にはかなりバリエーションがある。発症までの速度が違うと、診断のやり方がかわってくる(原因がわかりやすいとき、わかりにくいときがそれぞれあるからだ)。





さらに、その病気がどの臓器で起こっているか、で分けることも可能だ。

・骨や筋肉……ケガなど

・胃……ピロリ菌による胃炎とか薬剤性胃炎とか胃がんとか

・心臓……心筋梗塞、不整脈、弁異常など

・血中……糖尿病とか脂質異常症など

「主座」と呼ばれる、病気が主に巣くっている臓器によって、担当する医師が変わることはよくある。




診断を行うとき、どのような分類を念頭において病気を探るかによって、病気の正体が掴みやすくも掴みづらくもなる。どの分類を用いて病気を決めたらよいかに100%の正解はない。しかし、多くの理論やさらには経験によって、ある程度のやり方が有効であろうと推奨されている。

その「推奨」の根本には、実は、「患者の訴えをよく聞く」というのが含まれている。




で、病理診断は、患者に直接話を聞くことのない病理医が担当するわけだが、何を使って診断するかというと、顕微鏡……はもちろんなのだが、「主治医の話をよく聞く」ことが思った以上に大切なのだ。

だって、顕微鏡をみることで達成できるのは、あくまで多くの分類の中のひとつにすぎない、「細胞の形態」に準拠した診断方法だけだから。

病気の分類は多様であり、その分類それぞれに応じた診断方法がある以上、病理医もまた、「話を聞く」という非常に有効な手段を使わない手はない、と考えているのである。

2018年6月26日火曜日

水どうおおいずみよ

現在ぼくはカメラを2つもっている。ひとつはニコンの一眼レフで、もうひとつはソニーのミラーレス一眼。それぞれ付けているレンズが違う。

で、これらを買って、ときおり持ち歩くようになってから、明らかに変わったことがある。

それは、「スマホで写真を撮るのがうまくなった」ということだ。

……さすがに今、ぼくの脳内イッテQメンバーが全員ずっこけたが、気にしないで話を進める。



カメラを買い、何枚か写真を撮り、できあがった写真をPCで見たり現像したりして楽しんでいるうちに、この画角・この構図だったらスマホでも撮れるな、この保存方法、この閲覧スタイルならスマホで十分ではないかな、みたいなことが自然と思い浮かぶようになった。

で、実際にスマホで写真を撮ってみると、腕が上がっていた。

なんとなくウェブ検索をしてみると、多くのプロカメラマンたちが、「iPhoneでプロ級の写真」みたいな記事を掲載していることに今さらながら気づく。

ぼくが使っているのはiPhoneではなく富士通のArrowsなので無理かな、なんて勝手に決めつけていたけれども。まあプロ級の写真は撮れないが、それでも、カメラを買う前と比べると明らかに写真がよくなっていた。ちょっと笑ってしまった。



なぜカメラを買うことでスマホの写真が上手になったのか。

理由ははっきりしている。「雑じゃなくなったから」だ。

今もっているのがカメラだったら……くらいの気持ちを、一味唐辛子ひとふり分くらい自分にふりかける。まあ一眼レフをもってるわけではないけれど、一眼レフをかまえているような気持ちで……スマホのシャッターをだいじに押す。

もうこれだけで写真がうまくなった。不思議なものだ。




馬には乗ってみよ、人には添うてみよ、カメラは買ってみよ。

実際、馬に一度乗ると歩くのが楽しくなるかもしれない、人に添ってみると自分のアイディアが増えるかもしれない、なんてこともあるかもなあ、とか思っているのだ。

2018年6月25日月曜日

病理の話(214) ゆうしゃと魔王では語れない

昔、医学部でぼくらはこのように習った。

「ある病気Aの原因は、○○染色体の転座によるものです。ですからこの染色体転座に対応した薬を使うとよく効きます」

「ある病気Bは、□□遺伝子の変異によって引き起こされます。現在この遺伝子変異をターゲットとした治療が開発されています」



そう、ある病気には、「黒幕」がいるという考え方だ。

魔王を倒せば世界は平和になるという考え方だ。



その後、さまざまな病気の遺伝子や染色体の異常を検索しているうちに、どうも話はそう単純ではないよなあ、ということを実感するようになる。

マイクロアレイシステムなどを使って多くの病気の「遺伝子異常」を調べている人たちは口々にいう。

「ひとつのがんの中にはさ、遺伝子の異常なんて数百とか数千とか存在するんだよな」

同じようなことを、医学部時代にも習った記憶がある。遺伝子変異というのは少しずつ蓄積していくのだということ。

ひとりの魔王がすべての現況なのではない。

状況はいつも多面的に悪くなり、黒幕は無数に存在するのだ、ということ。



習っていたにもかかわらず、ぼくは心のどこかで願っていた。

がんの黒幕にあたる遺伝子変異を叩けば、がんを直すことができるに違いない、と。

病気の原因はこれだ! と、犯人をひとつに決めることができれば、うれしいなあ、と。

サロゲート・マーカー。

分子標的薬。

これらは魔王を探すものであり、魔王を倒す秘薬だと思っていた。





調べれば調べるほど病気の原因というのは複雑だ。特に、「がん」の場合。

魔王を倒しても残党が力を持っているケースがある。

プチ魔王が数千寄り集まって魔王の町みたいなものを形成していることもある。




病気のくせに生意気だ。やつらは町であり国である。

ひとりのゆうしゃに賃金とどうのつるぎとたびびとのふくを渡して「倒してこい」で済むのならば、がん診療はどれだけ簡単だったろうか!

2018年6月22日金曜日

ラジコプレミアムの月会費を取り戻す手段を探している

そろそろ時効かなと思うので書くが、まあ実は一度どこかに書いたことはあるので時効というか執行猶予が明けたくらいのタイミングにはなるのだが、ぼくは北海道のとあるラジオ局で番組をやらないかともちかけられたことがある。

そのときぼくはボスと相談して「まだそういうことをやれるほどの人間ではないだろう」という判断でお断りした。

今でも人間としてはたいしてかわってはいない。

しかし当時よりももう少しだけラジオが気になっている。




毎日どこかのタイミングで必ずラジオを聴いている。

できればおとなしく、叫ばない、静かなラジオを聴きたいと思っていて近頃はNHK-FMをよく聴く。



ラジオがほかの媒体とくらべて段違いに「いい」ところはどこか、というのを今考えていた。



受け手がキホン「ひとり」だ、というところだろうなあ、とか思う。



品切れがないのがいい。



バズらないのがいい。



距離が近い。イヤホンと鼓膜の距離はミリ単位だ。



遠い。ろくに触れた気にならない。温度ゼロ。



全肯定がある。



ふつうはないのに。



うれしい、ありがたい、がいえる。



ああーツイキャスやるか。



そういうことじゃないんだよ。



リアクションが遅くて近い、遠くて動くやつがいい。



ちきしょう全部やられちゃったなあ。腹立つなあ。

2018年6月21日木曜日

病理の話(213) 主治医と病理医の距離

少し昔の話になる。

臨床医がぼくの仕事ぶりを見て、「この病理医はまだ未熟だな」と考えているかどうかは、なんとなくわかる。たいてい、ぼくにとてもいっぱい話しかけてくる。


「粘膜が主に採れた検体だと思うのですが、私の見た感じでは、粘膜よりももっと深部になにかがある可能性を疑っています。もちろんご高名な市原先生でしたら、顕微鏡をみるだけでも十分に気づかれるかとは思うのですが、老婆心ながら、念のため、粘膜より下の方をじっくりとご覧いただきたく存じます」

「腫瘍を疑って生検していますけれども、腫瘍ではなく炎症の可能性が有り得ます。腫瘍だと決め打ちせず、炎症でも有り得るかどうかを重点的にご検討の上でご高診なにとぞよろしくお願い申し上げます」

「好酸球数については後に申請書類を書くときに必要となります。釈迦に説法とは存じますが、ぜひ好酸球数をチェックお願いいただければ幸いでございます」



臨床医から病理医に情報を提供し、あるいは注文をつけることはよくある。

これらのような注文を、「いらぬお節介」ととらえる病理医もいると知った。「顕微鏡のプロにいちいち注文をつけるな。それくらい見て考えるのが我々の仕事だ」みたいに。

でも、まあぼくは、どちらかというと臨床医の「お節介」がありがたいと感じていた。そもそも、ご高名、ご高診、釈迦に説法、みんな皮肉にしか聞こえない。ありがとう、未熟なぼくに注意喚起してくれてありがとう、教えてくれてありがとう。信用しないでいてくれてありがとう。いつか信頼されるような病理医になるよ。言われるがままに注意を払い、必死で診断の細部を詰めた。





ぼくの仕事が多少なりとも信頼されるようになってから、臨床医が依頼書に書くコメントは少し減った。

「あいつなら言わなくてもみてくれる」

「彼は臨床をよく知っている。余計な注文をつけずとも、自分で内視鏡をみて判断を加えてくれる」

そして、ぼくは少し得意になった。でも、そこからまた少し、考え続けていた。




今、ぼくはとにかく臨床医に「なんでもいいから気づいたことを教えてくれ」とお願いするようになっている。

病理診断の依頼書を書く手間がかかるのは申し訳ないが、それでも、依頼書にはなるべくいっぱい書いて欲しい。

思ったことを。感じたことを。ひっかかったことを。些細だが見逃せないようなことを。

病理の依頼書を、「モレスキン」のように使ってほしい、と思っている。

ぼくが未熟かどうかに関係なく。ぼくがわかっているかどうかを問わず。ぼくがムッとするかもしれない、なんて躊躇せず。

彼らの書いてくることばの端々に、彼らの思考が見えてくるからだ。

臨床医が、「俺たちもまた、病理を理解し、病理のできることと苦手なことを知っておこう」と願っているとき、ぼくはその願いを受け止めて背筋をただす。

臨床医と病理医がそれぞれヒントをかき集めないと正しい診断に辿り着かないような病気がある。

臨床医と病理医それぞれがお互い日常的に使っている専門用語のニュアンスを摺り合わせた先に見えてくる科学がある。

患者とコミュニケーションをとるのと同じくらい、臨床医と病理医が濃厚なコミュニケーションを保つ。短時間でもかまわない、無数のシナプスを同時に発火させるような連携をする。

それこそが病理診断学ではないか、と考えている。




禅とか仏教の考え方に、「最初は円からはじまって、だんだん角がついていき、三角形、四角形、五角形と形が複雑になって、次第にまた円に近づく」というものがある。

これは単なる例え話だが、ぼくは、学者というものは「何度も円に戻らなければ成長できない」のではないか、という思いを強めている。

ぼくが今より未熟だったときの臨床医の態度には、すべて理由があった。

あのときに戻って、またいちから何かを組み立て直そうという気持ちがある。

ここからまた少しずつ角が増えていく。そういうやりかたを繰り返す。