今までやってきた仕事や遊びの中で少しずつ見えてきた自分のキャラクタ性というものがある。端的にいうとぼくはメインよりサブが向いているということ。主役より引き立て役が似合うということ。ぼくの天職は触媒ではないかな。そこにいることで周りの仕事が早く正確になる。
だから声をかけられたときになるほどなと思った。ぼくはこれからあるネットラジオを手伝うことになるのだが、今回の企画の中心人物はぼくではない。重要な人間がほかにいて、ぼくに仕事を与えた。その仕事内容を聴いて、非常に納得した。今回のぼくの役割はまさに触媒だったからだ。
なお、誤解をおそれずに書くが、ぼくが求められている役割は実は純粋な触媒ではない。冷静に先を読むと、ぼくにも化学反応が及ぶことになる。触媒でありながら消費される因子ともなる。これはなぜかというと、おそらくだが、今回ぼくに声をかけた「主役」もまた触媒としての高い能力をもっているからだ。ぼくの本来の性質は触媒なのだが、同等以上に強い触媒能力を持った彼の力によっておそらくぼくにも化学反応が及ぶ。その逆もまたしかりである。
企画段階で、安住アナウンサーのやっているラジオがおもしろいから一度聴いておけといわれた。ぼくは安住アナのやっているラジオを聴いたことがないのだが、聴こうと思えばすぐ聴ける。こないだ、燃え殻さんのラジオを北海道で聴くために、radikoに課金してタイムフリー視聴ができるようになったからだ。ぼくはもういつでも、安住アナの番組を聴くことができる。そろそろ聴いておこう。
ラジオというのはテレビと異なり、「視聴者の脳内に浮かぶカメラワーク」を語り手自体がかなりコントロールしなければいけない。何が映っている、何を映してほしい、何をクローズアップしたい、何に目を凝らしてほしい、というのをすべて話術でコントロールする必要がある。
ぼくは今までツイキャスでは基本的に、NHKのドクターGをみながらそれについて語るという「NHKにディレクションをまかせた進行」をしたり、ハリソン内科学を読みながらそれについて語るという「ハリソンにディレクションをまかせた進行」をしたり、ゲストの相手に話を聴くことで何かを浮き上がらせるという「対談相手にディレクションをまかせた進行」をしたり、そういうことしかできないでいた。だから昨今じわじわと盛り上がってきた「ネットラジオのひそかなブーム」には、自分ではうまくのれないだろうなという思いで、遠くからVtuberのやることをじっと眺めていた。
けれども今回ぼくにタスクを与えた相手はそのあたりをよくわかっている。彼は、ぼくの「引き立て役」としての職場威力、「対談相手」としての素材力を使いたいのだと思う。ぼくはその手にまんまとのる。
ライフサイエンスの話をするかもしれないし、エンタメの話が出るかもしれないが、今回はぼくは一切ディレクションを自分でやらないと決めている。ただひたすらに触媒を演じながら因子として消費されていく道をえらぶ。
2018年7月31日火曜日
2018年7月30日月曜日
病理の話(226) 病理研修のコツ無料公開大サービス
病理医は全医師の0.6%程度しかいない(全国で病理専門医は2300人程度、たとえば北海道には100人)という。かなり少ないポジションではある。
となると、病理で研修をする人間もほとんどいないのかと思うと、実はそうでもない。
「病理診断科での研修」を希望する初期研修医というのは、決して少なくない。
将来はふつうの臨床医になりたいんだけれども、研修の間にちょっとだけ病理の勉強をしたい、という人がそこそこいる。
一番多いのは、「腫瘍に関わる科」を希望する研修医である。
たとえば胃がん。たとえば肝臓がん。たとえば肺がん。
これらを専門的に診療したいと思ったら、病理診断について勉強しておくことは必ず役に立つ。というか、病理診断科に来なかったとしても、結局自分で病理の勉強をしなければいけない。だから、短い研修期間の一部を病理に割いておくというのは決して極端な選択ではない。
というわけで最近は初期研修医がちらほら病理に現れる。けれども彼らは別に病理医になりたいわけではないので、彼らを病理診断科のルーチンに組み込んで本格的に働いてもらおうとは思わない。おいしいところだけをつまみぐいしてもらう。1か月とか2か月程度で病理診断学の要点を学ぶというのは無理がある。「とりあえずこれからも一生、病理検査室とのコネがつながるよ」+「この先自分で勉強しようと思ったときのヒントを与えるよ」くらいのことしかできない。
一番いいと思っているのは、それまでの他科での研修で「気になった患者、興味があった症例」の病理を実際にみてもらうことだ。
本人のモチベーションが違うのである。
実際の患者の顔が思い浮かばないプレパラートに没入できるかどうかには経験がものをいう。
普通の医師は、会ったことも話したこともない患者のプレパラート一枚にはあまりうまく興味を示せない。
だから、まずは、「知っている人のプレパラート」からみるのがいいと思っている。症例はなんでもいい。
病理といえばまずは大腸ポリープ、とか、最初は胃生検からみる、などとプログラムを決めている施設もあるかとは思う。ぼくは元々そうやって育ったタイプだから、悪いやり方とは全く思わない。けれども、まだろくに内視鏡診断も経験していない状態で、小指の爪の切りカスよりもちいさな胃生検や大腸ポリープのプレパラートをみせられても、「これが診断か!」と実感するのは少々むずかしいように思う。
最初にみる標本が皮膚生検であっても、肝生検であっても、卵巣腫瘍であっても、胆石症の胆嚢であってもいっこうにかまわない。
頻度、重要度、所見の多さ。そういうことが重要なのではない。
だいじなのは、「この人の、この病気のプレパラートを、俺は生まれて初めて病理で見たんだったな」と意識して、知識を芋づる式に伸ばしていくプロセスではないかと思っている。
その上でぼくが初期研修医になるべく早い段階で教えると決めていることを特別にみなさんにも公開する。これは本当に特別大サービスである。完全にプロの教育だからだ。本来、無料でこんなところに書くなどありえない。これを読んだあなたは人生が変わるだろう。それくらいの貴重な情報である。くれぐれも心に刻んで欲しい。
1.夕方5時以降はプレパラートをみてはいけない。帰れ。目が疲れる。
2.当直明けに病理診断をしてはいけない。帰れ。目が疲れる。
3.顕微鏡の光量を落とそう。自分がよかれと思って設定した光量の6割くらいで十分なので、光量をしぼれ。目が疲れる。
4.接眼レンズがずれていると乱視みたいになって、酔う。学生実習の顕微鏡で酔った人はたいてい安い顕微鏡を使ったからだ。安い顕微鏡を使ってはいけない。目が疲れる。
5.腰を曲げないことだ。首の角度にも注意せよ。目が疲れる。
となると、病理で研修をする人間もほとんどいないのかと思うと、実はそうでもない。
「病理診断科での研修」を希望する初期研修医というのは、決して少なくない。
一番多いのは、「腫瘍に関わる科」を希望する研修医である。
たとえば胃がん。たとえば肝臓がん。たとえば肺がん。
これらを専門的に診療したいと思ったら、病理診断について勉強しておくことは必ず役に立つ。というか、病理診断科に来なかったとしても、結局自分で病理の勉強をしなければいけない。だから、短い研修期間の一部を病理に割いておくというのは決して極端な選択ではない。
というわけで最近は初期研修医がちらほら病理に現れる。けれども彼らは別に病理医になりたいわけではないので、彼らを病理診断科のルーチンに組み込んで本格的に働いてもらおうとは思わない。おいしいところだけをつまみぐいしてもらう。1か月とか2か月程度で病理診断学の要点を学ぶというのは無理がある。「とりあえずこれからも一生、病理検査室とのコネがつながるよ」+「この先自分で勉強しようと思ったときのヒントを与えるよ」くらいのことしかできない。
一番いいと思っているのは、それまでの他科での研修で「気になった患者、興味があった症例」の病理を実際にみてもらうことだ。
本人のモチベーションが違うのである。
実際の患者の顔が思い浮かばないプレパラートに没入できるかどうかには経験がものをいう。
普通の医師は、会ったことも話したこともない患者のプレパラート一枚にはあまりうまく興味を示せない。
だから、まずは、「知っている人のプレパラート」からみるのがいいと思っている。症例はなんでもいい。
病理といえばまずは大腸ポリープ、とか、最初は胃生検からみる、などとプログラムを決めている施設もあるかとは思う。ぼくは元々そうやって育ったタイプだから、悪いやり方とは全く思わない。けれども、まだろくに内視鏡診断も経験していない状態で、小指の爪の切りカスよりもちいさな胃生検や大腸ポリープのプレパラートをみせられても、「これが診断か!」と実感するのは少々むずかしいように思う。
最初にみる標本が皮膚生検であっても、肝生検であっても、卵巣腫瘍であっても、胆石症の胆嚢であってもいっこうにかまわない。
頻度、重要度、所見の多さ。そういうことが重要なのではない。
だいじなのは、「この人の、この病気のプレパラートを、俺は生まれて初めて病理で見たんだったな」と意識して、知識を芋づる式に伸ばしていくプロセスではないかと思っている。
その上でぼくが初期研修医になるべく早い段階で教えると決めていることを特別にみなさんにも公開する。これは本当に特別大サービスである。完全にプロの教育だからだ。本来、無料でこんなところに書くなどありえない。これを読んだあなたは人生が変わるだろう。それくらいの貴重な情報である。くれぐれも心に刻んで欲しい。
1.夕方5時以降はプレパラートをみてはいけない。帰れ。目が疲れる。
2.当直明けに病理診断をしてはいけない。帰れ。目が疲れる。
3.顕微鏡の光量を落とそう。自分がよかれと思って設定した光量の6割くらいで十分なので、光量をしぼれ。目が疲れる。
4.接眼レンズがずれていると乱視みたいになって、酔う。学生実習の顕微鏡で酔った人はたいてい安い顕微鏡を使ったからだ。安い顕微鏡を使ってはいけない。目が疲れる。
5.腰を曲げないことだ。首の角度にも注意せよ。目が疲れる。
2018年7月27日金曜日
松本で買った北杜夫がまだ未読のまま積んである
ちかごろ、本を読むと少し眠くなる。これはよくないなあと思う。ときには本当に寝落ちしてしまうこともある。
たぶん、「本を読む自分でいたい」から、無理して本を読んでいるのだろう。
つまりは心の底から読みたくて読んでいる本じゃないから、途中で眠くなってしまうのだ。読み続ける気力よりも体力回復をうながす睡眠力のほうが強い。
そんな読書はつまらないからやめろといわれた。誰に? なんかそのへんを通りがかった宮沢賢治に。
そもそもぼくは、これまでの人生において、いつもいつも「読書サイコー!」と大喜びして本を読んできたのだろうか?
決してそうではなかったと思う。あたかも読書家みたいな情報発信をしてきたが、それはあくまで「読書家を気取るとSNSではちやほやされるから」である。読書が楽しいときのことだけ発信して、読書がつまらなかったときのことを発信しなかった。バイアスだ。
冷静に考えたらぼくはそこまで読書を毎回楽しんでいるわけではない。
けっこうな頻度で、「最後めんどくさくなったけど一応がんばって読み切った本」とか、「ゆっくり読み過ぎて読み終わるころには冒頭に何が書かれていたか忘れた本」とか、「寝ながら読んだためにほぼ読んでいないに等しいのだがとりあえず最後までページをめくった教科書」と出会っている。
でも、そうやってでも本とふれあい続けているうちに、なんだろう、たまに、「こ、これは最高だなあ」と思える本と出会う頻度もまた少し上がっていくような気がする。
こんなことを書くと、なんだか、無理矢理グラウンドを何十周も走らせる体育会系のスポーツクラブのやり方も一理ある、みたいな論調に見えるし、あまりいい気分はしないのだが、しかし……。
「多少自分を痛めつける程度の読書をしたほうが結果的によい読書をできている」ことは事実である。
そんなマゾヒスティックな読書、お子様にはおすすめできません。
読書は大人になってから。
ぼくはもともと、学者とか哲学者の類いが、新聞とかテレビで「私の愛読書」みたいなものを公開するのがとても嫌いだった。「100冊には絞れません」とかいいながら、いかにもインテリゲンチャといわんばかりのブックリスト。端的にその自己顕示欲マジでうぜぇなと思った。一般人が俺の読む本をまねしたいのか、いいだろう、見て震えろ! とばかりに、「図書館の棚のみえやすいところに置かれがちな本が6割+著者はそこそこ有名だがタイトルがマイナーな本4割」の構成でドヤと広げられるリストが心底いやだった。なにをすかしていやがる。ソムリエ気取りか。
でも、そんな跳ねっ返りだったはずのぼくは、なんだかSNSをちらちら見ながら、「読書してる俺けっこうほめられるなあ。」なんて、ありきたりな承認欲求をぴちゃぴちゃ満たしている。やってることはエライ学者の皆様方の劣化コピーみたいになってる。うける。
40になる歳に、すでに「本を読んで眠たい」みたいなことまで書いている。脳の劣化が深刻だ。
あーあ、やっぱ、偉くなる人たちは違うな!
ぼくは本をみると、中身が自分を大きくしたとか、世の深淵に触れたとか、そういうことよりも、とりあえず、「この本読んだぜってみんなにツイートしてやろう」みたいな欲望ばかりがふわふわわいてくるんだ。まったく残念なことだ。そんなことだから、寝るんだ。ああそうだよ、それが真実なんだ。
今は「極論で語る総合診療」を読んでいる。これがなかなかおもしろくて、2回ほど寝たけれど起きてまた戻って読み直したりしている。読み終わったらツイートするんだ、とてもたのしみだ。ぼくは結局、そういう読書しかできない。
たぶん、「本を読む自分でいたい」から、無理して本を読んでいるのだろう。
つまりは心の底から読みたくて読んでいる本じゃないから、途中で眠くなってしまうのだ。読み続ける気力よりも体力回復をうながす睡眠力のほうが強い。
そんな読書はつまらないからやめろといわれた。誰に? なんかそのへんを通りがかった宮沢賢治に。
そもそもぼくは、これまでの人生において、いつもいつも「読書サイコー!」と大喜びして本を読んできたのだろうか?
決してそうではなかったと思う。あたかも読書家みたいな情報発信をしてきたが、それはあくまで「読書家を気取るとSNSではちやほやされるから」である。読書が楽しいときのことだけ発信して、読書がつまらなかったときのことを発信しなかった。バイアスだ。
冷静に考えたらぼくはそこまで読書を毎回楽しんでいるわけではない。
けっこうな頻度で、「最後めんどくさくなったけど一応がんばって読み切った本」とか、「ゆっくり読み過ぎて読み終わるころには冒頭に何が書かれていたか忘れた本」とか、「寝ながら読んだためにほぼ読んでいないに等しいのだがとりあえず最後までページをめくった教科書」と出会っている。
でも、そうやってでも本とふれあい続けているうちに、なんだろう、たまに、「こ、これは最高だなあ」と思える本と出会う頻度もまた少し上がっていくような気がする。
こんなことを書くと、なんだか、無理矢理グラウンドを何十周も走らせる体育会系のスポーツクラブのやり方も一理ある、みたいな論調に見えるし、あまりいい気分はしないのだが、しかし……。
「多少自分を痛めつける程度の読書をしたほうが結果的によい読書をできている」ことは事実である。
そんなマゾヒスティックな読書、お子様にはおすすめできません。
読書は大人になってから。
ぼくはもともと、学者とか哲学者の類いが、新聞とかテレビで「私の愛読書」みたいなものを公開するのがとても嫌いだった。「100冊には絞れません」とかいいながら、いかにもインテリゲンチャといわんばかりのブックリスト。端的にその自己顕示欲マジでうぜぇなと思った。一般人が俺の読む本をまねしたいのか、いいだろう、見て震えろ! とばかりに、「図書館の棚のみえやすいところに置かれがちな本が6割+著者はそこそこ有名だがタイトルがマイナーな本4割」の構成でドヤと広げられるリストが心底いやだった。なにをすかしていやがる。ソムリエ気取りか。
でも、そんな跳ねっ返りだったはずのぼくは、なんだかSNSをちらちら見ながら、「読書してる俺けっこうほめられるなあ。」なんて、ありきたりな承認欲求をぴちゃぴちゃ満たしている。やってることはエライ学者の皆様方の劣化コピーみたいになってる。うける。
40になる歳に、すでに「本を読んで眠たい」みたいなことまで書いている。脳の劣化が深刻だ。
あーあ、やっぱ、偉くなる人たちは違うな!
ぼくは本をみると、中身が自分を大きくしたとか、世の深淵に触れたとか、そういうことよりも、とりあえず、「この本読んだぜってみんなにツイートしてやろう」みたいな欲望ばかりがふわふわわいてくるんだ。まったく残念なことだ。そんなことだから、寝るんだ。ああそうだよ、それが真実なんだ。
今は「極論で語る総合診療」を読んでいる。これがなかなかおもしろくて、2回ほど寝たけれど起きてまた戻って読み直したりしている。読み終わったらツイートするんだ、とてもたのしみだ。ぼくは結局、そういう読書しかできない。
2018年7月26日木曜日
病理の話(225) 資質とか指向性とかそのへんのアレ
あなたが病理医に向いているか、向いていないか、という話をする。この話は何度か書いているのだが、そのたびにぼくの書く内容が少しずつずれている可能性はある。つまりその程度のことだ。確固たる信念とか断固たる決意のようなものはでてこないので気楽に読んでほしい。
まず病理医に向いている医学生というのはいない。病理医に向いていないという医学生もいない。
だから安心してそういう向き不向きの話を捨てて、いさぎよく勉強をしてもらいたい。結論はこうだ。
では結論を先に書いたので以下は詳細を述べる。
病理医というのはほかの医者と同じく、誰でもできる仕事である。医師免許さえもっている限り、ぼくらの仕事に面と向かってダメ出しをできるほどエライ人間など社会にはそうそういない。誤解を恐れずにいうがぼくらはやりたい放題だ。どれだけ無能でも、どれだけ悪を背負っていても、医者になれば、刺されて殺されるまでの間は医者として働くことができる。給料だってきちんともらえる。その意味で、向いていないから路頭に迷うということはない。だから、自分がうまくやっていけるだろうか、みたいな考えは根本のところであまり切実な悩みにはならない。これは病理医に限った話ではなく、医者全般にいえる話なのである。残念ではあるが。
けれども。
ぼくらにちょっぴりでも良心が存在する場合、使命感が存在する場合、抑止力が存在する場合、誰かの悲しい顔が少しでも想像できる場合、ぼくらは、自分の仕事によって誰かが期待値未満の人生を送ってしまう恐怖に身を焦がすことになる。
自分の判断がここで2秒遅かったためにこの人の人生は2か月ほど縮まってしまった、みたいなことが医療の世界ではよく起こる。ほんとうにきつい。もし、ある瞬間患者を担当していた医者が自分以外だったならば、患者の人生は苦痛を伴いつつも2か月伸びたかもしれない。あるいはその瞬間自分を含めて医師がひとりもいなければ、アディショナルタイム的な2か月間は誰も意識しなくて済んだかもしれない。自分がうっかり関わってしまって、期待値を伸ばすフリをして伸ばせなかった、という状況が、シンプルかつ最大のダメージを、患者とその周囲と、おまけに自分自身に叩きつけることになる。
医学生はしばしば、そういう「とっさの判断が他人の人生に影響する」というイベントの多い、少ないで、専門科を選ぶ傾向がある。循環器外科みたいなイチかバチかの仕事はつらい、皮膚科であれば患者は死なないからラクだ、いや逆にラクだと張り合いがない、俺は外傷外科の最前線でばりばり働くほうが性に合っている、いやいや麻酔科だと手術がない日のQOL(クオリティオブ自分のライフ)がよい……など。
でも本当は、どの科もそれほど大した違いはない。これはあくまでぼくの意見であり、従ってぼくは個人的に断言するが、医者である限り、「科がどこであっても患者の人生を思って煩悶することになる」。多い少ないではない。生き死にの違いがあるかもしれないが、しかし、死なないからいいなんて言葉は生命をなめている。とっさの判断とか現場の興奮とか決断の重さの違いが科ごとに違う、というのは医学生が陥りがちな錯覚であり幻想にすぎない。
もしあなたが「科ごとに真剣さは違うだろう」と考えているならば、あなたは所詮、他人の人生をその程度のワクでしか見ていないということだ。そもそも医者に向いていない気もするが、ま、そういう人でも、冒頭述べたように、医者というのはやっていける。君個人の問題としてはまったく問題ない。
向き不向きなんてどうでもいい。「立ち向かう」というのは、自分で相手に正対することで成り立つ言葉である。受け身になって「自分の顔がいまこっちを向いている」とか「今はそっちを向いていない、反対をみている」などといっている場合ではない。足を鳴らせてそちらを向く。ただそれだけのことなのだ。
なお、このタイミングでいちおう書き添えておくと、我々医療者というものは「科ごとの向き・不向き」は重要ではないのだけれども、「自分が一緒に働く人たちとの相性」というのは厳然として存在する。
自分がその科に向いていようが向いていなかろうが、上にいる人間にボコスカに「てめぇ向いてねぇよ」といわれたら、その職場環境は普通につらい。だからまあ、人のいいボスがいる場所を選んだほうがいいぜとぼくは後輩達に告げる。このアドバイスのほうが、あるんだかないんだかわからないその人の「職業適性」なんかよりも、よっぽど将来にわたってその人を救うことになると信じている。ただこの話は今日の本筋とは少しずれている。
さて、というわけで、病理医に向いていない人というのはいない。向けばいいのだ。そちらを。能動的に。ただし、20年、30年と病理診断医として働いていて、もし「成長」をできなかった場合、その人が繊細であればあるほど、「自分は病理医になるべきではなかった」という後悔が精神を滅ぼすことになるだろう。向いていないわけではない。給料だってずっともらえる。誰も別に自分をしかり飛ばしたりはしない。それでも、悔やんで胸をかきむしることになる。
これはぼく個人の意見であり、なんと断言すらはばかられるレベルの話なのでそっと書いておくが、病理医としてやっていく上で重要なのは、医学生とか研修医などというタマゴ段階での向き不向きなどではなく、病理診断医になってから、どれだけ継続的に勉強を続けられるかだ。なってからの方が重要なのだ。そこまでの人生で勉強した量なんて、病理診断医になってからの勉強量と比べたら凱旋門とホチキスの針くらい違う。違わなければいけない。
これは脅しではない。だからまだ迫力が足りないだろう。ここからはさらに脅しのニュアンスをこめることにする。
なにせ、病理医というのは、ほかの医療者たちから日々言われ続けるのだ。
「いいなあ患者に接しないなんて」
「当直しなくていいなんてうらやましい」
「ずっと座って顕微鏡みてればいいなんて最高だね」
もちろんこれらはすべて明確な悪意を秘めた揶揄である。そこらの医者と大して変わらない給料を、そこらの医者よりはるかにラクそうな姿勢・体勢で獲得し続けているぼくには、基本的に敵意が向けられる。寝られない10年目の医者はうらめしそうにいう、「そのしごと、やりがいあるんですか」。肌がぼろぼろになった20年目の医者がすわった目でいう、「その本読んでる時間も給料発生するってのがいいね」。
これを跳ね返すだけの何かが自分の中にないとこの仕事は正直つらい。他者のうらやみ、さげすみをいなして逸らして跳ね返すために、胸の電光掲示板に光らせ続けておかなければいけない一文がある。
「ええ、おかげさまで、脳だけで給料をいただく仕事ですのでね。」
ほかの医療職のみなさまが寝食を惜しんで体力勝負に挑むのと同じ、あるいはそれ以上の時間をかけて、脳を無限に成長させ続ける覚悟が必要なのだ。そうしないと、かえってつらいのである。もちろん、無限といったって、有限の値に無限に近づき続ける漸近線かもしれないのだ今のぼくは。それでも無限に成長しようという気概に違いはないのである。
少なくとも「55まではたらいたらあとは開業してのんびりだな」的な人生設計が頭をかすめるタイプの人間は、病理診断医を長く続けるごとに自責の念にとりまかれることになる。それでどれだけの仕事ができるのだろうかと。自分が病理診断医として胸を張って生きていけるだろうかと。
これだけ書くと「なあんだ、結局、勉強し続けるだけの精神力がない人は病理医に向いていないってことじゃないか。」といわれてしまいがちなのだけれども。
ぼくらはみな、医学部を受ける前に必死で勉強してここに辿り着いたのだということを、忘れてはいけない。
勉強以外の「向き・不向き」をあらためて探すことに比べたら、少なくとも、過去に一度は「勉強は向いているね」と大人達にいいくるめられた時期の記憶がある分、「勉強は向いてますよ」と旗を掲げるくらいなんでもないではないか。
そう、医学生が病理医になる上で向き不向きなどはない。みんな一度は通ってきた道だ。もうすでに、「君はそういう勉強には向いているよ」と認められてきた道だ。
だからなんのことはない。
病理医に向いている・向いていないなどという議論はいらない。ただ勉強し続ける覚悟だけあればいい。ぼくはだから全ての医学生にとって病理診断医はふつうになれる職業であるよと言い続けることになる。
2018年7月25日水曜日
はいはいお茶の初出はフラジャイルの何巻でしょうか
朝からやることがとても多いとわかっていた日、とりあえず朝食をとらずに出勤して2時間ほど働いた。そののち、病院のローソンが開いたのを見計らって、朝食を買った。
ついでにペットボトルのお茶も買った。
ふだん、出勤してから昼飯までの間はとくになにも食べたり飲んだりしていないのだが、この日は「朝食と一緒に買ったお茶」があったので、午前のあいだずっと、お茶をちびちび飲んでいた。
ふと思う。
スルスル飲めるしお腹がたぷたぷにもならない。「あれば飲める」し、どちらかというと、「お茶があるほうがうれしい」のだな、午前中は。
逆にいえば、日頃、午前の仕事中、ぼくはずっとカラカラだったのだろう。自分でも気づいていなかった。
イヤホンが壊れたときには、また少し違ったことを思った。午後の仕事中にはよく、イヤホンで聞こえるか聞こえないかくらいの音量にしぼった音楽を聴いている。新しいイヤホンが届くまでのあいだ、ぼくは、午後の無音に耐えていた。そこでまた考えた。
午前中は無音でもいっさい気にならないのに、不思議だなあ。
もしかすると、午前中も音楽を聴いてみたら、それはそれで快適なのかもしれないな。
午前中は脳がばたついているのだろう。お茶を飲む気も音楽を聴く気もわいてこないまま、メールに返事をしたり、原稿の手直しをしたり、後輩がみた標本のチェックをしたりしている。その間、とくに喉が渇いたとも耳がさみしいとも思わない。
バイオリズムには「欲望が表面に出てくるかどうか」みたいなリズムも含まれているのかもしれない、と感じる。そして、思ったよりも「本人が気づいていない欲」みたいなものもあるんだな、と思う。
たとえば午前中、ぼくの勤務する部屋の窓の外を、そこそこの音量で「お~い、お茶」といいながら走る車、みたいなのがあったとしたら、ぼくはそこで「あっ、お茶が飲みたいなあ」と思うだろうか?
それとも、「騒音うるせぇな、イヤホンでもするか」となるだろうか?
広告は、「自分がほんとうは何をしたいのか気づいた、と思わせる作業」だと聞いたことがある。
そんな魔法みたいなこと、人生の中ではそうそう起こらない。
いつだってぼくは、「たまたま」が連れてきたお茶に喉を潤しては「そうかあ、お茶を飲みたかったのかぼくは」と気づかされるし、「たまたま」が連れてきた無音にさみしさを感じながら「それにしても、四六時中音楽がないとつらいわけではないのに不思議だなあ」と首をひねる。
たぶん、ぼくは、カモだ。CMひとつにダマされて物を買うタイプのカモだ。
なのに世の中は、少々、広告がへたすぎるのではあるまいか?
ついでにペットボトルのお茶も買った。
ふだん、出勤してから昼飯までの間はとくになにも食べたり飲んだりしていないのだが、この日は「朝食と一緒に買ったお茶」があったので、午前のあいだずっと、お茶をちびちび飲んでいた。
ふと思う。
スルスル飲めるしお腹がたぷたぷにもならない。「あれば飲める」し、どちらかというと、「お茶があるほうがうれしい」のだな、午前中は。
逆にいえば、日頃、午前の仕事中、ぼくはずっとカラカラだったのだろう。自分でも気づいていなかった。
イヤホンが壊れたときには、また少し違ったことを思った。午後の仕事中にはよく、イヤホンで聞こえるか聞こえないかくらいの音量にしぼった音楽を聴いている。新しいイヤホンが届くまでのあいだ、ぼくは、午後の無音に耐えていた。そこでまた考えた。
午前中は無音でもいっさい気にならないのに、不思議だなあ。
もしかすると、午前中も音楽を聴いてみたら、それはそれで快適なのかもしれないな。
午前中は脳がばたついているのだろう。お茶を飲む気も音楽を聴く気もわいてこないまま、メールに返事をしたり、原稿の手直しをしたり、後輩がみた標本のチェックをしたりしている。その間、とくに喉が渇いたとも耳がさみしいとも思わない。
バイオリズムには「欲望が表面に出てくるかどうか」みたいなリズムも含まれているのかもしれない、と感じる。そして、思ったよりも「本人が気づいていない欲」みたいなものもあるんだな、と思う。
たとえば午前中、ぼくの勤務する部屋の窓の外を、そこそこの音量で「お~い、お茶」といいながら走る車、みたいなのがあったとしたら、ぼくはそこで「あっ、お茶が飲みたいなあ」と思うだろうか?
それとも、「騒音うるせぇな、イヤホンでもするか」となるだろうか?
広告は、「自分がほんとうは何をしたいのか気づいた、と思わせる作業」だと聞いたことがある。
そんな魔法みたいなこと、人生の中ではそうそう起こらない。
いつだってぼくは、「たまたま」が連れてきたお茶に喉を潤しては「そうかあ、お茶を飲みたかったのかぼくは」と気づかされるし、「たまたま」が連れてきた無音にさみしさを感じながら「それにしても、四六時中音楽がないとつらいわけではないのに不思議だなあ」と首をひねる。
たぶん、ぼくは、カモだ。CMひとつにダマされて物を買うタイプのカモだ。
なのに世の中は、少々、広告がへたすぎるのではあるまいか?
2018年7月24日火曜日
病理の話(224) ヒーラの永遠
ぼくらは年老いて死ぬことをできれば避けたいと思うことがある。
まあ必ずとはいわない。年を取るのが自然なことだと悟っている瞬間もある。
ただ、たいていの場合は、できることなら老化は避けたいなあと感じている。それが人というものだと思う。
しかし、人間の体にはときおり、老化(経年劣化)しない細胞というのが出現する。
それは、がん細胞だ。
がん細胞を体の中から取りだして、培養液のなかで上手に育てると、ほとんど半永久的に育てることができる。
普通の細胞だと、そうはいかない。細胞分裂の回数には限りがあり、培養していると最後にはそれ以上分裂できなくなってしまう。分裂できなくなった細胞は、しばらくの間は生存しているが、やがて損傷し、死んでいく。
これは細胞レベルでの老化と呼ぶことができる。
でも、がん細胞は、事実上無限に培養し続けることができる。
世界中の実験室で、今この瞬間も、無数のがん細胞が育てられている。それらは、実験によってさまざまに手を加えられ、刺激を与えられ、薬を投与され、遺伝子をいじられ、光らされ、踊らされ、ゲルの中で泳がされ、溶かされてめちゃくちゃに見られ、とされているが、一部は「またきちんと培養するために」凍結保存されている。
おそらく永久になくなることはない。
1951年、元来は動物学者であったジョージ・オットー・ゲイは、ジョンズ・ホプキンス病院の組織培養研究所にて、ひとりの女性患者から摘出された子宮がんの細胞を培養することに成功した。
歴史上はじめて、人類が「人類の細胞を培養液中で育てた」のである。
この細胞は患者の名前をもじってHeLa細胞と名付けられた。当時の医学では「患者から取り出した細胞は誰のものか」という取り決めすらなかったため、この細胞は患者の了承を得ずに、世界中の実験室で用いられ続けた。まちにまった細胞だった。「ヒト由来の細胞を実験室で培養する」というのは夢の技術だったのである。
ぼくが大学院時代にいたころ、HeLa細胞を使ったことがある。ジョージ・オットー・ゲイの最初の分離からは50年近くが経過し、距離だって何千キロも離れた極東の町に、HeLaはやってきていた。北海道大学の中にあるマイナス80度のディープフリーザーの中で、チューブに入って大事に保管されていた。大学院生たちは分注されたHeLaをときおり溶かしてはFBS培地中で育てて実験に使ったのだ。
この記事を書くためにひいたWikipediaには少々感傷的な文章が載っていた。
”すべてのHeLa細胞は(最初に分離された細胞と)同じ腫瘍細胞の子孫である。これまでに世界中で培養されてきたHeLa細胞の塊の総計は(元の患者の体にあった細胞量)をはるかに凌駕すると推定できる。”
無限に生き続けるHeLa細胞は、しかし、実は完全に元と同じ細胞ではない。
継代(培養を続けること)を繰り返すにつれ、実験室ごとにこまかな遺伝子変異が蓄積し、HeLa細胞はその株ごとに少しずつ異なる形態を示し始めている。実験においては細胞ごとのわずかな違いが結果に影響することがあるから、慎重な研究者達は、よりオリジナルのHeLaに近い細胞が登録してある「セルバンク(細胞銀行)」に保存してあるHeLaの細胞株を買うのだという。
そう、不老不死には弱点がある。永遠に細胞分裂を続ける細胞の中には、DNAの傷やコピーミスが少しずつたまっていくのだ。人間を含めたあらゆる生命は、不老の道を捨てて、有性生殖による繁殖という道を選んだが、これはひとつひとつの細胞があまりに長く分裂し続けることによる
「澱(おり)の蓄積」
を避けたためではないか、と推察することができる。
汚いものをためこんででも永久に分裂しようとする存在こそががん細胞だ。
がん細胞には、いわゆる「散り際の美意識」がない。
だから、我々は、おおっぴらには「がん細胞の無限」をうらやましいとは思わないようにしている。
本当は心のどこかで、「不老、うらやましいなあ」とつぶやいているとしても、だ。
まあ必ずとはいわない。年を取るのが自然なことだと悟っている瞬間もある。
ただ、たいていの場合は、できることなら老化は避けたいなあと感じている。それが人というものだと思う。
しかし、人間の体にはときおり、老化(経年劣化)しない細胞というのが出現する。
それは、がん細胞だ。
がん細胞を体の中から取りだして、培養液のなかで上手に育てると、ほとんど半永久的に育てることができる。
普通の細胞だと、そうはいかない。細胞分裂の回数には限りがあり、培養していると最後にはそれ以上分裂できなくなってしまう。分裂できなくなった細胞は、しばらくの間は生存しているが、やがて損傷し、死んでいく。
これは細胞レベルでの老化と呼ぶことができる。
でも、がん細胞は、事実上無限に培養し続けることができる。
世界中の実験室で、今この瞬間も、無数のがん細胞が育てられている。それらは、実験によってさまざまに手を加えられ、刺激を与えられ、薬を投与され、遺伝子をいじられ、光らされ、踊らされ、ゲルの中で泳がされ、溶かされてめちゃくちゃに見られ、とされているが、一部は「またきちんと培養するために」凍結保存されている。
おそらく永久になくなることはない。
1951年、元来は動物学者であったジョージ・オットー・ゲイは、ジョンズ・ホプキンス病院の組織培養研究所にて、ひとりの女性患者から摘出された子宮がんの細胞を培養することに成功した。
歴史上はじめて、人類が「人類の細胞を培養液中で育てた」のである。
この細胞は患者の名前をもじってHeLa細胞と名付けられた。当時の医学では「患者から取り出した細胞は誰のものか」という取り決めすらなかったため、この細胞は患者の了承を得ずに、世界中の実験室で用いられ続けた。まちにまった細胞だった。「ヒト由来の細胞を実験室で培養する」というのは夢の技術だったのである。
ぼくが大学院時代にいたころ、HeLa細胞を使ったことがある。ジョージ・オットー・ゲイの最初の分離からは50年近くが経過し、距離だって何千キロも離れた極東の町に、HeLaはやってきていた。北海道大学の中にあるマイナス80度のディープフリーザーの中で、チューブに入って大事に保管されていた。大学院生たちは分注されたHeLaをときおり溶かしてはFBS培地中で育てて実験に使ったのだ。
この記事を書くためにひいたWikipediaには少々感傷的な文章が載っていた。
”すべてのHeLa細胞は(最初に分離された細胞と)同じ腫瘍細胞の子孫である。これまでに世界中で培養されてきたHeLa細胞の塊の総計は(元の患者の体にあった細胞量)をはるかに凌駕すると推定できる。”
無限に生き続けるHeLa細胞は、しかし、実は完全に元と同じ細胞ではない。
継代(培養を続けること)を繰り返すにつれ、実験室ごとにこまかな遺伝子変異が蓄積し、HeLa細胞はその株ごとに少しずつ異なる形態を示し始めている。実験においては細胞ごとのわずかな違いが結果に影響することがあるから、慎重な研究者達は、よりオリジナルのHeLaに近い細胞が登録してある「セルバンク(細胞銀行)」に保存してあるHeLaの細胞株を買うのだという。
そう、不老不死には弱点がある。永遠に細胞分裂を続ける細胞の中には、DNAの傷やコピーミスが少しずつたまっていくのだ。人間を含めたあらゆる生命は、不老の道を捨てて、有性生殖による繁殖という道を選んだが、これはひとつひとつの細胞があまりに長く分裂し続けることによる
「澱(おり)の蓄積」
を避けたためではないか、と推察することができる。
汚いものをためこんででも永久に分裂しようとする存在こそががん細胞だ。
がん細胞には、いわゆる「散り際の美意識」がない。
だから、我々は、おおっぴらには「がん細胞の無限」をうらやましいとは思わないようにしている。
本当は心のどこかで、「不老、うらやましいなあ」とつぶやいているとしても、だ。
2018年7月23日月曜日
ウィンドウズ佐藤
パソコンがだんだん重くなってきた。大量にメモリを積んだ特注品だったのだが、さすがに買って5年経つ。よく今まで持ったな、というくらいだ。限界だろう。
キーボードはぶっこわれて外付けのキーボードを別に用意しているし、ブラウザ内はしばしば広告表示のときに激烈に動きが悪くなりいかにもマルウェアと戦っている予感がする。売りだった起動の速さも今や見る影もない。メールクライアントソフトはしばしば真っ白になる。
何もしてないのにぶっこわれたわけではない。
さまざまに使い倒した。
アップデートも大量に行った。
だからもう限界なのだ。
次から次へとアップデートしなければいけない製品というのは結局、出荷時に不完全な状態で売られているわけで、買っらあとはほうっておいても末永く使えるテレビとか冷蔵庫とかファミコンなんてものがいかにすばらしい製品だったかと古き時代を懐かしむ。
けどまあパソコンってのは人間を目指して人間を超えていくものだから。
人間だって日々、アップデートをしないと生き残っていけない。あらたな驚異にさらされ、気づかぬ恩恵を受けられなくなる。
同じようにパソコンはアップデートを繰り返すし、そのうちアップデートしたファイルでハードディスクがぱんぱんになり、動きが悪くなり、かんじんなときに寝落ちする。まったく愛着がわくこと程があるにもこの上ないったらありゃしない。
買い換え。
ぼくはMacを買わない。使わない。iPhoneもiPadもMacbookもデザイン、コンセプト、使い勝手、すべて大好きだけど、Macを使っている人たちが基本的にあまり好きではないからだ。本人はなんにも悪いことしてないんだけどその本人を使ってどうこうしている人たちと合わないので本人とも距離をおいてしまう。そんなところも、人間に似ているなあ、とか思う。
だいたいスタイリッシュなパソコンが好きな人というのはだめだ。
多少のどろくささ、多少の得手不得手、多少の滋味みたいなものと根気よくつきあうような人のほうが、一緒にいて居心地がいいに決まってる。
あれ、パソコンを人に例えていたのか、人をパソコンに例えていたのか、なんだかわからなくなってきた。
とにかくぼくはWindowsだ。仕事ではWindowsしか使いたくない。
という文章を今、自宅のMacで書いている。
なあに、何もまちがってはいない。これは仕事じゃないのだから。
キーボードはぶっこわれて外付けのキーボードを別に用意しているし、ブラウザ内はしばしば広告表示のときに激烈に動きが悪くなりいかにもマルウェアと戦っている予感がする。売りだった起動の速さも今や見る影もない。メールクライアントソフトはしばしば真っ白になる。
何もしてないのにぶっこわれたわけではない。
さまざまに使い倒した。
アップデートも大量に行った。
だからもう限界なのだ。
次から次へとアップデートしなければいけない製品というのは結局、出荷時に不完全な状態で売られているわけで、買っらあとはほうっておいても末永く使えるテレビとか冷蔵庫とかファミコンなんてものがいかにすばらしい製品だったかと古き時代を懐かしむ。
けどまあパソコンってのは人間を目指して人間を超えていくものだから。
人間だって日々、アップデートをしないと生き残っていけない。あらたな驚異にさらされ、気づかぬ恩恵を受けられなくなる。
同じようにパソコンはアップデートを繰り返すし、そのうちアップデートしたファイルでハードディスクがぱんぱんになり、動きが悪くなり、かんじんなときに寝落ちする。まったく愛着がわくこと程があるにもこの上ないったらありゃしない。
買い換え。
ぼくはMacを買わない。使わない。iPhoneもiPadもMacbookもデザイン、コンセプト、使い勝手、すべて大好きだけど、Macを使っている人たちが基本的にあまり好きではないからだ。本人はなんにも悪いことしてないんだけどその本人を使ってどうこうしている人たちと合わないので本人とも距離をおいてしまう。そんなところも、人間に似ているなあ、とか思う。
だいたいスタイリッシュなパソコンが好きな人というのはだめだ。
多少のどろくささ、多少の得手不得手、多少の滋味みたいなものと根気よくつきあうような人のほうが、一緒にいて居心地がいいに決まってる。
あれ、パソコンを人に例えていたのか、人をパソコンに例えていたのか、なんだかわからなくなってきた。
とにかくぼくはWindowsだ。仕事ではWindowsしか使いたくない。
という文章を今、自宅のMacで書いている。
なあに、何もまちがってはいない。これは仕事じゃないのだから。
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