2018年8月31日金曜日

病理の話(238) 群像劇と風雲たけし城

「この病気の原因はなんなんですか」と問う人は、明確な答えを必要としている。

「ある細菌が感染したからだ」

「〇〇という遺伝子が変異したからだ」

しばしばこのような回答が用意される。

しかし、世の中にあるほとんどすべての病気は、単一の仕組みでは説明できない。




ある細菌に感染して病気になるとする。この場合、原因として考えられるものは

・細菌

だけではないのだ。

・その細菌を退けられなかった人体の防御機構

もまた原因のひとつとなる。

これが実に難しい。




人体の防御機構が細菌を退けられないとはどういうことだろうか?

・ある細菌に対する防御力が、生まれつきよわっちい。

これはわかりやすい。でもほかにもある。

・ある細菌に対する防御システムを、ほかの敵に対する防御に割いてしまっているため、人員不足に陥ってしまっていて、うまく防御できない。

なんてパターンがありうる。

・たまたまそのとき全身の栄養状態が弱い。すべてのシステムが省エネモードであった。だから防御力が弱かった。

これもひとつの原因となるだろう。

まあちょっと考えるとそういうこともあるだろうなとわかるのだが、人間というのはとにかく、原因から結果を一本の線でつなぎたい生き物なのである。

自分の親類ががんになって、自分もがんになれば、これはもう絶対に遺伝だ! と思いたくなってしまうだろう。

そんなに単純ではない。原因は常に複合的だからだ。



*



現代に残る「ヘモクロマトーシス」という病気がある。これは遺伝の影響をそこそこ受ける病気で、適切な治療がなされないとたいていは中年以降に命の危険がある。

こんな物騒な病気が脈々と遺伝してきたのはなぜなのか、と疑問に思った学者がいたらしい。そしてずいぶんといろいろなことを調べた。

すると、ある奇妙なことがわかった。

ヘモクロマトーシスの患者はたしかに中年以降になると命の危険があるのだが、実は、ペストという恐ろしい感染症に対して、ほかの人より抵抗力があるということがわかったのだ。

人生の中盤から後半にかけて命を縮めてしまう病気にかかることで、人生のいつでも死に至る危険性があるペストから生き延びることができる。

そんな思いもよらないメカニズムがあったからこそ、ヘモクロマトーシスという病気は現代にまで脈々と受け継がれてきたのではないか、というのである。




あまり普段考えることがないのだが、病気というものは、時代、文化、医療の成熟度、平均寿命などによって定義が変わってしまう。

そもそも感染症が主たる死因であった100年くらい前までは、乳幼児期や若年、壮年期においていかに感染症を切り抜けるかが、生命にとって重要な問題だった。

ところが、衛生環境がよくなり、抗生物質が次々と見出され、寿命がのびることで、それまで遺伝子が必死に次世代につないできた「いずれ体を悪くするかもしれないけれど当座の危機を乗り越えるのに役に立つ病気」みたいなものが、今度は人に害をなす存在として立ちはだかる。




病気の原因は複合的だし、病気というもの自体が実は流動的な概念でもある。

「すべての人々が健康になるような医療」を目指した先にはきっと新たなヤマイが待っている。けれどもぼくらはそこに、向かわないわけにはいかない。

風雲たけし城といっしょだ。ひどい目にあうとはわかっているけれど、先に進まなければそれはそれでひどい目にあう。そういうものなのだ。

2018年8月30日木曜日

金だけが旅をする

判断に迷う事態に直面している。

この一文に、熟語が3つも含まれている。読者として小学生を想定していたらこういう文章を書いてはいけない。

どうしたらいいかなあ。ぼくは、おきてからずっと、かんがえていた。

……いまどきの小学生はもうちょっと漢字読むかもな。




何が悔しいんだという勢いで叩きつける雨の音を聞いている。ここは札幌。たまに雷が落ちている。鳴っているのではなくあきらかに落ちている。

ツイッターで「雷」と検索すると、近隣に住んでいるのであろう女子高生たちのアイコンがずらりと並ぶ。見事に女子高生だらけだ(まあ中学生もいるかもしれないが加工されたプリクラは全員ぺこ&りゅうちぇるに見える)。女子高生顔出しアカウントたちは、雷が鳴ると高確率で「雷やば」とツイートする傾向がある。雷というのはいまどき、ネットで検索するとどこらへんで光っているのか一目瞭然だ。だから、そこにむらがるおじさんたちがいる。「怖いですよねー(><) もしかして近くに住んでますかね?」というリプライがぞくぞくとぶら下がる。雷鳴ナンパだ。これほど醜い世界が世の中にはある。認めて慎んで生きていかなければいけない。

無防備な学生とあわれなおじさんの話をしたいわけではない。




明日の夜には関西に出張する。

雨の音を聞きながら、ぼくは出張の移動について朝から考え込んでいた。

今降っている雨は、明日の関西での天気には全く関係がない。

けれどもなぜだろう、雨の音を聞いていると、「ああ、出張のときには雨に気を付けないとなあ」という気分になる。

まるで違う場所に行くのにふしぎだな。

実際、天気予報のはじきだした答えは深刻だった。

台風が2つくる。

台風20号シマロンのせいで、ぼくの乗る飛行機は飛ばないかもしれない。




札幌から大阪に行くにはいくつか手段がある。関西国際空港、伊丹空港、神戸空港あたりに直行便で飛べば話は早い。ただこれらは微妙にダイヤが違っており、23日(木)の通常勤務が終わった後に移動できる手段は、基本、関空便しかない。

関空便が飛ばないといろんな意味できつい。

業務終了後に飛ぶことができる他の空港というと、羽田くらいだ。

羽田から新幹線で大阪か。これはアリだ。たぶん一番確実だろう。

しかし札幌のみんなもそんなことはよくわかっているとみえる。千歳・羽田便は夕方から夜にかけてほとんど満席だった。ビジネスマンの動きは速い。木曜日の午後から夜の羽田便が一席も残らず埋まるというのは、(たとえ前日だとはいえ)普通では考えられない。やはりみな、台風情報をみて、いろいろ考えているのだろうと思った。今回の台風を避けようと思ったら羽田便。これはもう誰が考えてもその通りなのであった。

羽田経由の道が経たれた今、ぼくに残された選択肢は、「関空便の時間を早めること」である。

とうぜんだが、昼の便に乗るためには、木曜の仕事を休まなければいけない。

おまけに、チケットを変更するには金がかかる。ぼくのチケットは「早割」だったからだ。

話が混沌としてきた。




たとえばANAは、天候によってフライトに遅延や欠航が出そうなときには、たとえ早割でチケットをとっていても無料で便の変更をしていいよ、というサービスがある。

しかし台風の前日になっても、「欠航のみこみ」は発表されていない。

だから早割の予約変更ができない。

予約を変えようと思ったら、一度フライトをキャンセルして、別の便をとりなおす必要がある。

きっちり金がかかる。

……早めに動かないと、このあとの情報次第では、昼の便も埋まってしまうだろう。

ここは追加料金を覚悟で先に予約を変更するべきか……。

しかし昼の仕事を休むとなると、職場でいろいろと相談をしないといけないなあ。




最近の研究会は製薬会社の補助をあまり得ていない。だから金が無い。

研究会にとって講師の交通費・宿泊費というのは講演料以上に鬼門である。

近くのドクターで済ませれば安く上がるが、遠くから呼ぶと当然高く付く。

聴衆は近くのドクターの話をわざわざ聞きに行ったりはしないのだった。

だから講師は遠方から呼ばれる傾向がある。

ぼくは知っている。にこにこした顔で「今度講演してください」と依頼してくるあそこの病院長も、あちらの医長も、あちらの主任部長も、みんな、ぼくを呼んだ直後からさまざまな金策に走り、研究会の参加費をいくらにするかでずっと頭をひねっている。

そういうのを知っていると、ついチケットを早割でとってしまう。そして、領収書を提出し、「この額で精算をお願いします」とやる。

そうすれば余計な金はかからない。

いっそ先方でチケットを取ってもらった方がこういうことを考えなくていいから気分的にはラクだ。

自分でチケットをとるといろいろ気を遣ってしまう。

講演者の役得だから、といって通常の往復料金でマイルをごっそり稼ぐ人もいるが、これはもう「性分」だろう。安く上がるにこしたことはないだろうと考えるのがぼくのようなタイプだ。こういう人間は生涯にわたって、なんだか金がたまらない。




早割のチケットがぼくを責める。

今回の出張が冬だったら、札幌からの移動は降雪にやられることが多いとわかっているので、早割を避けて往復料金でチケットを取ったろうな。

いろいろな後悔が頭をよぎる。





一瞬停電があったようだ。ツイッターで北乃カムイが何やら注意喚起をしている。雷はますます強くなる。雨脚も激しくなっていく。





「後期研修医をとっても病院の経営が上向くわけじゃないから、来年はあまり後期研修医をとりたくないんですよ」

と言い放った某病院の経営者の話を伝え聞いた。

金、金、金の話。





「そういうときにあなたが自腹を切ってがまんをしても、けっきょく事態はなにもよくならないわけで、むしろそういう善意に甘えて制度が腐敗するんだから、自腹なんか切ったらだめよ」

わけしりがおで、それでいて何も変えてこなかった老兵の言葉が耳に痛い。




早くデータのやりとりで講演が終わるようになればいいのに。

実際にその人に触れて、同じ空気を吸って、なんなら同じごはんをたべて、わきあいあいと、そんな集まりの中から学術が生まれてくる、って?

うそだよ。生まれてくるのは領収書の山ばかりだ。




仕事を旅と呼んではいけない理由を見た気がしてぼくはでかける準備をする。

病院経営の役に立っていない研修医カンファに出るために、早めに病院に着かなければいけないのだ。いろいろさぼってしまおうかなあ。




……さぼったら、木曜日、早めに大阪に着けるなあ。

そしたらきちんと大阪で仕事ができるんだ。

ぼくはいつもこうだ。

いつもこうなんだ。

2018年8月29日水曜日

病理の話(237) 何度目かとなる病理診断とはなんなのかの話

枝葉末節をとことん語るのもいいが、たまには全体をゆるやかに見ておきたいと思うものだ。

だから今日は、すごく入門的な「病理の話」をする。




病気を診断する理由とはなにか? そこからはじめよう。

あなたが具合が悪いとする。

なんだか体が重いとか、あちこちが痛いとか、熱が出ているとする。

それによってあなたが具体的に今どう困っているか、というのは極めて重要だ。

ただ、もうひとつ、とても重要なことがある。

それは、「このあとどうなるんだろうか」という予測だ。

今仮にあなたが激痛に悶えているとして、その激痛があと5秒でなくなり、その後は一度も痛くならないし、命にも別状がないし、二度と同じ症状は起こらない、となったら、あなたはきっとその激痛を放置すると思う。

しかし、あなたの激痛が、何年にもわたって続くとか、命に関わるとか、そういう「やばい未来」につながっていると、この激痛はもう「がまんできない」。




そう、人間というのは、病気を考えるときに、症状それ自体を現在進行形で「やばい」と思うだけではなくて、それが将来どうなっているのかという未来の話を含めて「やばい」と思っている。




診断というのは、今の症状が何によるのかという原因を突き止めるのが目的……ではない。それもあるんだけれどそれだけではない。

今の症状が何によるのかという原因をつきとめたあと、

「だからこの先どうなるよ」

と予測をセットで提示すること。これこそが診断である。




未来のことは誰にもわからない。

ぼくが今、心臓にナイフがささって血が出始めたとする。あーこれは数分で死ぬなと予測する。たぶん当たるだろう。

けれど数分がたつまえに、太陽が突然熱膨張して地球がまるごと飲み込まれて、10秒後にぼくは蒸発しているかもしれない。

ね、未来は誰にもわからない。




けれど未来というのは確率である程度予測ができる。

天気予報くらいにね。

またねと手を振る君、ミラーで送るぼく。

これはASKAだな。まさかASKAがこんなことになるとは予想できなかった。




話をもとに戻そう。

「診断」、というのは、病気、さらには症状が、「なぜ起こっているのか」「どこで起こっているのか」をきちんと分析し、さらに「将来どうなるか」を予測するために行う。

この予測に必要な情報は多岐に亘る。

病気の勢力。病気を敵の軍隊にたとえるならば、その兵士数。どこに布陣を張っているか。

患者の体力。病気と戦う味方の軍隊はどれだけ大軍か。きちんと防御ができているか。

そして、病気軍の「兵士の顔」や「性格」。

同じ5万人の敵軍でも、きわめて凶悪で自分の命を省みないバーサーカーみたいなタイプが5万人いるのと、瀬戸内寂聴さんみたいな人が5万人いるのとでは、おそらく戦争の結果は変わるであろう。




軍隊の勢力や分布をみるにはCTなどの画像を用いるとよい。体の中に病気がどのように分布しているのかがわかるからだ。

一方、兵士の顔をみるなら顕微鏡がよい。病気というのはつまるところ細胞ひとつひとつが何かをしている場合があり、その細胞まで見ようと思ったら顕微鏡は相当役に立つ。




だからときおり、診断の場面では、顕微鏡診断をする。これを担当するのが病理診断である。




逆にいうと、顕微鏡をみるだけが病理診断ではなくて、さまざまな手段で敵の戦力を解析することそのものが病理診断であるともいえるのだが、それはまた別の話……であり、別の話を今まで236回くらい書いてきているわけである。

2018年8月28日火曜日

おじさんの加算

阿部公彦「文学を <凝視する>」が激烈におもしろくて一気読みであった。

こんな論説みたいな本がおもしろく読めるようになる日が来るとはなあ、と思わなくもない。

でも、ぼくはそもそも中学高校のとき、国語の試験で読む文章のうち論説文が一番好きだったことを思い出した。

別にイキって言ってるわけではなくてそこにはきちんと事情がある。

論説文が好きというよりは試験で小説を読むのが嫌いだった。



国語の試験の最中に小説を読まされると、序文は省略してあるし、クライマックスまではたどりつかないし、勝手に波線や実線を引かれて色を付けられてしまっているし、ちょくちょく小問に答えなければいけないし、行きつ戻りつ、本来の流れを無視して読み込まされたりもして、とにかく、「試験のために一部分を切り取られてしまった作品」の悲しさばかりが目についた。

「一刻もはやく試験解答技術でこの場を乗り切ってすぐに内容を忘れてしまわないといけない」という強迫観念に襲われたりもした。

もしぼくが将来、この小説をあらためて読み直す日が来たら、モノクロの文章のうちこの部分だけがカラーで浮かび上がってくるようなブサイクな読書をしかねない。まったく迷惑な話だ。

ぼくは本当に、そうやって思っていた。

だから試験で読むなら論説文がいい。



しかしまあそういう「試験のための読書」が終わったあと、大学以降は、論説的なものを読む機会がなかったなあと思う。

文学部に進む人というのはこういうのを日常的に読んでいたのだろうか。

ぼくは実用書(つまりは医学書)とフィクションを読んでばかりだった。哲学書の類いにも弱い。まして文化や社会を語る論説なんて手に取ったこともなかった。

今はそれがおもしろく読める。ぼくはおじさんになったんだ。




……いや、違う。

ぼくは中高生のときから論説をかじり読みするのが好きだった。

おじさんかどうかは関係ない。

強いて言うならば、周りの人々がいう、

「それの何がおもしろいの?」

に、毅然と対応できるようになった点だけが、齢を重ねたぼくが手に入れたストロングポイントなのかもしれない。




「それの何がおもしろいの?」に答えるのは大人の仕事なのではないか。

2018年8月27日月曜日

病理の話(236) 病理医に向いているかどうか

「はたらく細胞」がおもしろいということなのだがまだ見ていない。……けれどこのブログ記事を更新するころにはもう見ているかもしれない。

出張のときにはいっぱい本を読むからね。電子書籍ならなおさらです。楽しみにしている。



ぼくの性分を書いておくと、人体に何が起こっているかを描いたものについては一通り見ておきたい。さまざまな伝え方があり、さまざまな届き方があるだろうが、それらを時間の許す限り知っておきたい。

まあでも時間も脳の許容量も無限ではない。どうしたって偏ることにはなるのだが。




世の中にさまざまな書籍があり、メディアがある。人々は、生きていくあいだに、これらのどれかを何度か見て、それぞれに体に対する知識を得る。

生理とか病理の話というのは社会や人生そのものだ。豊富で、難解で、象徴的に語ることが可能で、うわっつらだけをすくっても何か知った気になれるし、どこまで掘っていっても終わりがない。

すなわちぼくみたいに、ブログの記事タイトルに「病理の話」とつければ、もう永遠に書くことがある。ネタに困る日などない。




その上で今日は、「病理医に向いている・向いていない」とか「病理医の資質とは何か」いう話をまたむしかえす。

最新のぼくの考えを書く。いつも考えているから、記事ごとに内容は少しずつ異なっているはずだが、そこはご了承願いたい。




病理医というのは病の理を考えて運用する医者だ。「文字っつら」から判断すればそういうことだろう。

実際には、顕微鏡をみる医者でしょとか実験ばっかりしてて臨床のことを知らない医者でしょとかいろんな言われ方をしているが。結局のところ、「病の理(ことわり)」を突き詰めていくのが仕事である。

そのことわりというのは、先ほどから書いているように、そもそも少ない筋道で語り尽くせるものではない。メディアの数だけ? いや、人の数だけ思いがある。切り口がある。それらにすべて材料を提供できるほど広くかつ深い。

あなたがいまから「社会を端的に描写せよ」と言われたら困るだろう。

社会なんて複雑なものは、人がいればその数だけ物語があるからだ。多種多様なストーリーがそこには存在する。

病理もそれと一緒だ。

実は、描写の仕方が、脳の数だけ存在する。



とはいっても、病理学とか病理診断を実臨床で運用する場合には、病理医みなが好き勝手にしゃべっていては臨床医も患者も困ってしまう。

だからいちおう、決めごとがある。顕微鏡というツールが代表的だ。病理医という存在がなんとなくアイデンティファイされてくる。



その上で……。



病理医というのは常に脳をもって病の理を切り取る仕事であるが、その切り取り方は人によって千差万別。

ある理解の仕方は、今すでに病理医である人たちに、賞賛されるかもしれない。

また別の理解の仕方をすると、今すでに病理医である人たちは、「それは違う。考え方がおかしい。」と、非難するかもしれない。

しかし病理を語ることは社会を論ずることと似ているのだ。となれば、人それぞれにさまざまな切り口があること自体はもうしょうがない。

多くの人が使いやすい、利用しやすい解釈方法というのは確かにある。それに従った方が日常の臨床はうまく回るだろう。

けれども、誰も思い付かなかった新しいタイプの「語り部」が、この世のどこかで病理医をやっていたとしたら、そこには新たな学問が生まれてくるかもしれない。科学が先に進むかもしれない。




すなわち「病理医に向いている」「向いていない」というのは、ない。

それは「社会にいていい人間」「いてよくない人間」をわけるのと同じ事だ。

多様性を許容しない場合、「病理医をやっていい」とか「病理医をやってはだめだ」ということが言える。

けれども脳を用いる学問の世界には多様性が不可欠なのである。さまざまな切り口が科学という光に向かって集まっていくことこそが望ましい。




あなたが脳を使って仕事をしている限り、病理医に向いていないということはありえない。

逆にいえば、脳を使った仕事をしたくない人は、病理医としてやれることがあまりない……かもしれない。

でもそんな人はそもそもいないのではないか?

このブログを読んでいる人は少なくとも今、脳を使っているはずである。

2018年8月24日金曜日

戦い終わり朝が来る

以前に、北海道内で、夜中の高速道路を長距離運転したことが何度かある。

北海道には高速道路がいくつかあるのだが、札幌から旭川方面(うえのほう)に行くときは、旭川まではほぼ片側2車線だ。特に問題はない。

しかし、釧路方面(みぎのほう)に行くときや、函館方面(ひだりしたのほう)に行くときは、札幌を出発してだいたい1時間半くらい走ると、残りの道のりが片側1車線になってしまう。

実に怖い。

第一に狭い。

後ろから速い車がくると最悪だ。

そして、何より、夜間。これがもうマジで地獄で、何がひどいって街灯がない。真っ暗。漆黒。ぽっぽや。最後のはリズムだけでぶち込んでみたが、限界であるというニュアンスは伝えられるかもしれない。

闇の中に、自分のヘッドライトで照らされた路肩の白線と、中央分離帯代わりに雑に植えられた紅白ポール的なにかがひたすら反射して浮き上がる。そのまま黄泉の国に走っているような気分になる。

高速運転をしているのに、登山で稜線上をそうっと歩いているような恐怖にみまわれる。

ちょっと中央方向に車が寄れたら、秒もかからずオフセット衝突してサドンデスである。

ちょっと白線方向に車が寄れたら壁にこすって……。いや、こするですめばよいけれど。橋の上だとそのまま空中にダイブしそうである。そもそも暗闇すぎて今走っているところが橋の上なのかどうかもわからないわけだが、冷静にカーナビなどをチラ見すると「あっ、今、橋の上なのかよ」というのがわかって余計におびえる。




札幌を離れるにつれてラジオの受信状態が悪くなり、ぼくはFMをあきらめてカーステレオをCDに切り替えた。流れ出すスカパラ。よし、いいぞ、スカパラなら明るくなれる。これで行こう。というか、まあ、この暗闇の高速走行中にスマホ操作なんかしたらそれだけで寿命の平均値が80年くらい縮まるだろうし、CDの交換だって絶対に無理で、つまりはもうスカパラを聞くしかない状況だ。でもそうやって選択肢がなくなると、かえって欲が出るのが人間というものである。

できれば大声で歌えるCDがよかったなあ。

闇夜の孤独な運転は怖い。陽気に歌いながら運転したかったなあ。

けれど今さら遅い。このアルバムでボーカルを担当しているのは尾崎世界観や片平里奈といった、一緒に歌うのが困難なアーティストが多かった(なぜこの2名が一緒に歌えないタイプなのかは聞いてみればわかる。2名ともめちゃくちゃ好きだが、彼らの美声はぼくには出せないし、一緒に歌って”汚す”のもいやだった)。

次のサービスエリアでCDを入れ替えよう。

そう決意するも、暗闇はドラゴンボールに出てきた蛇の道のようにどこまでも伸び、次のサービスエリアがいつくるのかも茫としてわからなかった。

ためしにもう一度ラジオに切り替えたら、今度は完全な無音がおとずれた。というかエンジン音やらタイヤの音やらが聞こえていたはずだが、今思い出してもぼくはそのとき無音の中にいた。


ぼくは対面走行の中央を雑に分離しているポールに自分がぶつかっていく想像をした。夜もとっぷりと更け、対向車もほとんどないから、実際はポールにちょっとぶつかったところで死ぬことはないだろう……なんて考えるのはあの暗闇を経験していない人間の発想だ。

肩がガチガチである。




そんなとき、ある本の著者が、ぼくの耳の奥で何かを言った。

「水曜どうでしょう」の嬉野Dであった。



ぼくは当然うれしー(あだ名)に会ったことはないのだが、彼の声は番組で聞いて知っている。彼の書いた本(「ひらあやまり」か、「ぬかよろこび」のどっちかだと思う)を少し前に読んでいて、聞こえてくるのはその本の内容だった。



「むかしね、自動車の免許をとりにいったわけ。すると教習所のおっさんがこういうことを言ったんだ。

人間はみているものに引っ張られる。自然とひっぱられる。

カーブするときには、カーブの先のほうを見ると、そっちにハンドルがひっぱられていく。

気を付けろ。無意識に、見ているほうに、ハンドルは切れていくから」




うれしーがなぜその話を本に書いたのか、という理由をそのときのぼくは思い出せなかった。うれしーは過去の一見関係ないエピソードをうまく練り上げながら最終的に自分の哲学を語る達人なのだけれど、話が結論にたどり着く前がとても長い。だから、「うれしーの何が言いたいかは忘れたが、単発のエピソードだけが記憶に残る」ということが起こる。

ぼくは、うれしーの語る声にあわせて、ゴーゴーうるさい無音の中で小さくつぶやいた。

「センターラインを見ていると、ひっぱられる」

ぼくはいつしか、ヘッドライトに照らされて闇夜にうねりながら伸びていく、路肩の白線を見た。センターにひっぱられるくらいなら、サイドに少し寄るくらいのほうがまだ安心だからだ。

白線をどこまでもおいかけた。うねうねとおいかけていった。




子どもの頃、父親の運転する車に乗って、道南にある母親の実家に移動する際、ひまをもてあましたぼくは弟といっしょに後部座席に互い違いにねころんで、窓を下から見上げた。窓枠の向こうに白く切り取られた曇り空を背景として、電線が3本くらい走っていた。車がするする滑るのにあわせて、電線は上下に波打ちながら、ずっと走り続けた。ぼくはその電線のうねりを飽きずに何時間も眺めていた。カーステレオではぼくら子どもの退屈対策にと「アンドロメロスのエンディング曲」とか「ギャバンのオープニング曲」が入ったテープがかすれた音をずっと鳴らしていた。

かえってこいよ アンドロメロス かえってこいよ なぞのゆうしゃ




翌日ぼくは、特に用もなかったが実家に電話をして近況報告などをし、父親の運転の思い出などをいくつか聞いたりした。洞爺湖に行った記憶はあったが今金に行った記憶はおぼろげだった。今度写真を見せてくれるそうだ。





あれからしばらく経つのだがぼくの耳には未だにアンドロメロスの歌が途切れ途切れに聞こえることがある。もう夜中の高速道路には絶対に乗らない、あれは時空をゆがめる装置かなにかである。ぼくは複数の思い出に取り囲まれてタコ殴りにあったのだ。かえってこいよ かえってこいよ とはやし立てられながら。

2018年8月23日木曜日

病理の話(235) やり方を変えずに解像度だけ上げてもうまくいかない

解像度が上がれば上がるほど真実に近づける、というのは、たぶん正しい。

ただ、

解像度が上がれば上がるほど役に立つ、とは限らない。




1990年代初頭くらいのCTと、それから30年弱が経過した今のCTでは、ほんとうに、まるでモノの見え方が違う。超音波検査なども同様だ。機械が進歩しただけ、画像は実際の臓器のありようを正しく反映する。

肺野(肺の中身)とか、肝実質(肝臓の中身)とか、虫垂炎(モウチョウ)とか、膵炎とか、何を比べても、今のほうが圧倒的によく見える。診断の能力は右肩上がりだ。絶対に今のほうが鋭い診断ができる。

そう、CTや超音波は、「よく見えれば見えるほど、診断能が上がる(役に立つ)」。

けれどこれらは、あくまで「マクロ」レベルでの話だ。

実は「ミクロ」というのは、よく見れば見るほど有用であるという類いのものではない。





胃や大腸にがんができた際に、粘膜の部分だけをこそげとってくるような治療法がある。

ショートケーキの上にごみがついたとき、ケーキごと捨ててしまうのではなく、ごみのついたクリームの部分だけをスプーンかなにかですくってしまえば残りは食べられるじゃん、みたいなイメージ。

このような「こそげとり治療」で病変をとってきたとき、それを何気なく目で見て、

「あーがんがとれたなぁー。一件落着。」と片付けてしまってはならない。

必ず顕微鏡でミクロ観察をする。

肉眼ではわからない変化を顕微鏡で見つけ出すことで、将来そのがんが「こそげとった部分より広く転移して再発する」可能性をある程度予測することができるからだ。




例え話をする。アリの巣を上から見ても、穴の空いている部分しか観察できない。だから小学校でアリの巣を観察する授業をやるときには、水槽に土を詰めて水槽の中でアリの巣を作らせ、「横から断面をみる」という観察法をとる。

がんを見るときも、あれと似たようなことをする。

平べったい粘膜検体をただ真上から見るのではなく、「横から断面をみる」。

そうすることで、「どれだけ深くしみ込んでいるか」がよくわかる。




まず、こそげとってきた粘膜を、短冊切りの容量で、2 mmの幅に細かく切る。

そして、2 mmの短冊のすべてについて、割面(切り口の面)を顕微鏡標本にして観察する。

たかだか直径1.5 cm程度の「粘膜こそげとり検体」であっても、短冊は7枚くらいになる。

これをじっくり顕微鏡でみることで、

「数十ミクロンくらいのリンパ管の中に、がん細胞が侵入して、これから転移しようとしているところ」

なども観察可能となる。

より細かく「真実」があきらかになるわけだ……。




そしてここからが重要だ。

実は、ミクロの所見というのは文字通り「些細すぎる」。

目で見てはっきりわかるほどの変化と比べ、ミクロの変化は、「ある所見Aがあると、絶対にがんは転移する」とは言い切れない。

せいぜい、「ある所見Aがあると、10%の確率で、がんがリンパ節に転移する」くらいのことしかいえない。

変化が小さいあまり、確率でしかその有用性を検証することができない。

極論するならば、顕微鏡であまりに細かく観察して見いだした「真実」は、人間の一生からするとほとんど意味がない、ということが十分にあり得るのだ。




確率で診断を行う局面では、「真実」と「実用」とは必ずしも一対一対応をしない。

(難しい内容なので太字にしておきます)




2 mm幅という細かい単位で病変をすべて観察して、そこに「リンパ管侵襲」という像が1カ所見つかったとすると、ある臓器においては、がんがすでにリンパ節に転移している確率が10%だと予測できる、というデータがある。

「リンパ管侵襲」という些細な真実は、「転移確率10%」という統計データと結びつけることで、はじめて役立てられる。



ここで、技術が進んで、短冊をもっと細かく観察できるようになったとしよう。

検体を2 mmではなく、1 mmの幅ですべて切る。

すると、観察できる面の数がだいたい2倍に増える。

2倍の量を観察して、そこにリンパ管侵襲像が1カ所みつかったき、がんがすでにリンパ節転移を起こしている可能性は……?



実は、この確率を求めることが極めて難しい。少なくとも5%ではない。

観察の手法を変えて得られた真実を統計と結びつけようと思ったら、統計学的検索はすべていちからやり直さなければいけない。

今まで積み重ねてきた統計学をいったん捨て、「1 mm幅で短冊を作って検討した結果」を新たに何百例、何千例と持ち寄り、新しく統計解析をする。

このとき、「1 mmで観察したほうがよりリンパ節転移を高確率に予測できる」ならば、ミクロの観察もマクロと同様に、解像度がよければよいほど診断能が高いということができるのだが……。

実際には、どうも、違うらしい。

1 mmという細かさで些細な所見を集めすぎてしまうと、「些細すぎて人生においてはほとんど意味をもたないような所見」を拾ってしまい、統計学的なデータの切れ味がむしろ落ちてしまうというのだ。



難解な話だがあえて例え話にしよう。

渋谷の雑踏で、むき身の包丁をもって歩いている人を見つけたら高確率でやばいやつだ。

そいつは近々なにか犯罪を起こすかもしれない。

誰かがこのことに気づいたとする。街角にカメラをしかけてそういうアヤシイ奴を発見しようと計画する。

このとき、渋谷の街角だけではなく、全国津々浦々にことごとくカメラを配置したら犯罪予測能はあがるだろうか?

きっと、そう簡単ではない。

たとえば漁協の入り口前を包丁をもってうろついているおじさんはきっとこれから市場で魚をさばくだろう。

イオンの包丁売り場で実演販売をしているだけの人も見つかってしまうかもしれない。

「真実を見つければ見つけるほど人間の役に立つデータが出てくる」わけではないということだ。




以上の話には、まだまだ複雑な側面がいくつも絡んでいて、今日書いた内容だけではすべてを説明できないが、とりあえず現段階でいえることは2つ。

「マクロの解像度はどこまでも上げたいが、ミクロの解像度は上げれば良いというものではない」

と、

「ミクロの所見は真実を見いだそうと思って探すのではなくて、統計学的な処理を加えないと、少なくとも人々の暮らしに実用するデータにはならない」

だ。




ここに気づかずに病理診断をしたり、病理診断を利用しようとしたりする人は本当に多い。個人の感想に過ぎないが、たぶん、医師免許を持っている人の4割くらいは、上記のことをあまりよく考えていない(低めに見積もった値です)。

これもまた、「些細なこと」というのは見逃してもそれほど大きな損害を生まないということだ。病理の話は常に入れ子構造になっている。