2018年10月18日木曜日

プロの海女

「何かひとつのことに熱中できるなんて今だけだよ」と若い人に言いたくなることもあるのだが、結局この年になってもいちおうまだ熱中はできている。

ただその持続時間は短くなった。我に返る回数が多い。長時間の没入が難しくなっている。

海女さんのように「潜っている時間に働く」イメージでいる。熱中しているときというのは、深く潜水しているときの感覚に似ている。

けれども、そのイメージでいうと、日頃ぼくたちは、海面に浮いているときにも目配りをしたり会話をしたり、ものを書いたり受け渡しを行ったりすることが多い。

まあ実のところ、海上にいる時間の方が長くはなる。

潜水できる時間は昔よりも少ない。

けれど「熱中していない」とは思わない。




誰よりも深く潜って海の底にある真珠を採って帰ってくるために必要なものとはなにか?

真珠の知識?

脚力?

肺活量?

言語化しきれない、直感のような何か?

すべてにおいて練度を上げれば、同じ距離を潜ったとしても、それにかかる時間は少なくなるだろう。

はたからそれを見ている人は、「潜っている時間が短いね。やっぱり、年を取ると長いこと潜れなくなっちゃうんだね」と思っているかもしれないが、まあそれは実際にあると思うんだけど、でも劣化しているわけじゃないんじゃないかなあ、と思ったりもする。





そして今までの話をぜんぶひっくり返すようなことをいうが、海女さんのことはよくわからないけれども、ぼくたちのような人間は、成果はともかくとして「長く潜り続けている自分」のことが純粋に好きだったりする。誰よりも深く潜って、短時間のうちに真珠をいくつも集めている優れた海女さんもまた、もしかすると、心のどこかにぽっかりと、「昔はもっと長く潜っていたのになあ」というさみしさを抱えているものなのではないかなあ、と、他人事を邪推してしまうのである。

2018年10月17日水曜日

病理の話(253) あるからには意味がある

健康診断などで血液検査をすると、血液の○○という値が高いからどうだとか、低いからどうだとか言われる。

やれHDLコレステロールの値がどうだとか。

中性脂肪の値がどうだとか。

γ-GTPの値がどうだとか。

おかげで、これらの物質は「高ければ悪」という考え方で知られる。しかし、実際には血液検査で調べる項目の物質というのはほとんどが「体の中でよかれと思って作られて使われている物質」だ。



人体の中に存在する循環システムには、さまざまな物質が流れ込んでいる。ここにたとえば毒を流すと人は死んでしまう。だから、そもそも人体は、血液の中に何を流すかというのをとても慎重に考えて選び尽くしている。

そこに流れている時点で何か意味があるのだ。逆にいえば意味が無いものは流さない。シャットアウトしている。

血液の中に水銀が流れてますよー、ちょっと健康に気を付けないといけませんねー、なんてことはないのだ。水銀なんか流れてたら即死であろう(量にもよるだろうけれど)。

「もともと、血液の中に流して使うもの」だからこそ、血液の中にいられる。それが、程度問題として「やっべ、流しすぎた」になっていると確かにあまりよろしくない。

コレステロールだって中性脂肪だって本来は体の役に立つ物質。多すぎるのが問題だ、というだけのことである。




……まあここまではいいだろう。

では、ひとつたずねる。

「ビリルビン」はどうか?

間接ビリルビンとか直接ビリルビン。これらは、血中に流れてはいけないものだろうか?

医療者に尋ねよう。

間接ビリルビンの血中濃度の基準値は? 直接ビリルビンの血中濃度の基準値は?



まあ詳しい値はどうでもいいのだが、これらは、「血中の中に微量であれば存在していい物質」なのである。基準値が「ゼロではない」。微量ならOK.




……さて、人体は、この「微量ならOK」をどれだけ許しているのだろうか……?

ぼくは今そういうことを考えている。




毒は毒だけど少量ならしょうがない、だからビリルビンもちょっとならいいんだ。

そういう考え方は基本的に人体はやっていない。

完全な毒はそもそも流さないように何重ものトラップをかけて遮断するのが人体だ。

であれば、「ごく微量のビリルビンの機能に期待する」ということがあるのかもしれない……。





そう思っていろいろ検索をしてみたのだが、血中の微量なビリルビンがもたらす機能はよくわからなかった。日本語版Wikipediaには抗酸化ストレス作用があるかもしれない、と書いてあるが果たして本当かどうかわからない。別に抗酸化ストレス作用のためだけにこんな毒性の高い物質を用いなくてもよかろう。ヘモグロビンを作る際に使った鉄材があまりにもったいないので再利用している? うーん、だとしても血液への混入を許す意図はなんだ……?





人体のすべてに合目的な機能があるわけないじゃん、という考え方もある。男性の乳首、尾てい骨、ほくろ、これらにはおそらく前向きな機能はないと考えられている。

でもなあ。「適者生存の末に残ったもの」ってのはほんとうに選りすぐられた精鋭なんだよ。まして血液という循環システムの要に、ビリルビンみたいな物質を少量でも許した人体の”意図”がわからない……。




まあ酸化還元反応の触媒になってるんだろうけれどな。人体、わからない。人体、むずかしい。ソンゴクウ、いいやつ。

2018年10月16日火曜日

つばをとばすやつを見ても思い出す

創作者も、表現者も、ほぼ間違いなく、ある瞬間にはユーザーであるはずだ。

すぐれた絵画を描く人間も飯を食い本を読むだろう。あるいは音楽を聴き、枕で眠るだろう。

すぐれた文章を書く人もトイレで用を足す。Suicaにチャージして電車に乗る。確定申告で会計士と相談する人もいれば百均で買った貯金箱に小銭を貯める人もいる。病院で胃薬を受け取る。




それなのに、クリエイティブの話ばかりする人がいる。口を開けばものづくり。何かにつけて人集め。アイディア。セレンディピティ。

作ることの話ばかりする。

あるいは、ユーザーの話をやたらとする。ただし自分はそこに含まれていない。あくまで自分の商品を使う「他人」の話ばかりする。




なぜそこまで、自分がユーザーであるときの話をしないのだ。





「人間の10割をあえて語らない」

「公私を分ける」

みたいなことだろうか。

何かを生み出す自分が、「生み出さないときの自分」を隠す。

そういうことだろうか。

おそらくは尊敬と金と力を集めるための技術なのだろう。





で、まあぼくの嗜好性の話をするけれども、ぼくが尊敬する仕事人は、基本的にほぼ例外なく、「自分が何かをクリエイトする話」よりも、「自分が何かを消費する話」の方を上手に語る。

医師。

研究者。

作家。

編集者。

音楽家。

教育者。

マンガ家。

ライター。

ぽろぽろと思いつくままに上げていく。顔を思い浮かべる。アイコンしか思い浮かばない人もいる。

ほら、みんな、自分が消費するときのことを楽しそうに語っている人ばかりだ。やっぱりな。




人間・市原のためだけに今から自己啓発書的なものを短く書く。

 「クリエイティブの話しかしない仕事人はあやしい」





クリエイターという言葉をみるとスーパーミルクチャンを思い出す。

「クリエイターは気が短いんだよぅー」。

ラジャー了解。寿司でも食い行っか。

2018年10月15日月曜日

病理の話(252) ケッペキすぎない程度に病気の分類

病気を治すにはいくつかの手段がある。「いくつかの」ときたら分類だ。分類万歳、分類みな兄弟である。ぼくらはみんな分けている。分けているから給料もらえるんだ。

失礼、病理医は分類マニアなので分類について五億六千万四六時中考えている。だから分類となるとテンションが上がってしまう。話を元に戻すぞ。


病気を治すにはいくつかの手段がある。「いくつかの」ときたら分類だ。今日はその分け方の中でも、一般の人がそこまで熱心には考えていないほうの分類を紹介する。

「病気を治すやり方を時系列で分ける」というやり方がある。


1.かからないようにする

2.かかった瞬間に治す

3.かかってだいぶ時間が経ってからがんばって治す

4.かかってだいぶ時間が経ってから病気を抱えたまま寿命が来るまで生きることを目指す


時系列で分ける、の意味がおわかりだろうか。番号の若いほうから、「病気にかかる前」「かかってすぐ」「かかって時間が経ってる」と、病気にかかっている期間の長さごとにざっくりわけているのである。

3,4あたりを見ると不思議に思う人がいるかもしれない。「なんで病気にかかってから放置するの?」「普通さっさと治すでしょ」。いや、そうもいかないのである。だって、世の中の病気の多くは「本人が気づかないうちに悪くなり、悪くなってから気づくもの」だからだ。「2.かかった瞬間に治す」ためには、「かかった瞬間に病気だとわかる」必要がある。なかなかそうはいかない。



もう少し詳しくみてみよう。



1.かからないようにする、なんてのはこれ、治療じゃなくて予防じゃん、という人もいるだろう。そう固いことを言わないでほしい。将来かかるかもしれないからかかる前に治す。ドラえもんも言っていたぞ、「焼き芋は食べる前にオナラをする」と。

2.かかった瞬間に治す、というのはさっきも書いたけどいわゆる「早期発見」の話である。病気の中には、早く見つければ見つけただけ治しやすいという類いのものがある。ただ、ご想像のとおり、これはものすごく難しい。ちょっと物騒な例え話をお許しいただくならば、「交通事故なら絶対に救急車を呼ぶべきか」という話を想像してほしい。

 (1)車にぶつかってどさっと倒れた →これはもう一刻も早く病院にいそぐべき。頭を打っているかもしれない。腰をぶつけているかもしれない。早ければ早いほどいい、病院で調べないと、あとで大変なケガがわかることがある。出血し続けているかもしれない。

 (2)亜音速で飛行しているドラゴンにぶつかって全身バラバラにくだけちった →これは病院に行く意味がない。ゆうしゃは しんでしまっている。さっさと教会に行って蘇生してもらうべきである。

 (3)紙飛行機が背中にぶつかった →なかなか本音を語らない幼なじみが授業中にふせんで折った小さな飛行機をぼくにぶつけてきて恋の交通事故である。ハートに重大な傷を負う前に一刻も早く一緒にカラオケに行くべきだ。恋は盲目だからと言っても眼科の出る幕はない。

 なんだか最後は追憶と妄想の世界に入ってしまったが、「事故ならぜんぶ急いで救急車」というのは間違いだ、といいたいだけである。場合によるのだ。
 そして「がんなら絶対早期発見すべき」も間違っている。ゆっくり見つけても対処がかわらないタイプのがんというのがある(たとえば49歳未満の甲状腺乳頭癌などはいつ見つけてもたいして治療がかわらない。たとえリンパ節転移が見つかったとしてもである)。個人的には大腸癌は早く見つけるに越したことはないと思っている。なお、膵癌は「早く見つけたつもり」でも実は発生からすでに15年が経過しているというスネーク的潜伏の達人なので、科学の進歩が待たれる。


3.かかってだいぶ時間がかかってからがんばって治す →がんだとこのケースが多い。実際、がんの治療は「総力戦」になる。すでに体の中にいるはたらく細胞たちが、がんと精一杯戦っている状況で、それでも打ち倒せないようながんは、もはや小さなゲリラではなくすでに国家レベルで戦争をしかけてきている巨悪なのである。だからこちらも様々な戦略を立ててのぞまなければいけない。

4.かかってだいぶ時間が経ってから病気を抱えたまま寿命が来るまで生きることを目指す → ……ここだよ。哲学は。

……「2.」と「3.」をじっくり読んでいると、考え込んでしまう。病気というのは早く見つけるに越したことはないのだけれど、場合によっては早く見つけたって総力戦で戦わなければいけないこともあるし、逆にゆっくり見つけてもちょろっと直せてしまうときもある。そう、「時と場合による」。ビシッと断定できない、玉虫色の、お医者さんが好きそうな厳密トークで申し訳ない。

で、この「場合による」を突き詰めていくと、ぼくらはある事実に気づくのである。

 「病気というのは、常に完治を目指すべきものなのか?」

いやいや病気なんだから治せよ、という直情的思考は決して間違ってはいない。世の真理ではある。しかしちょっと考えてほしい。

ぼくの体の中にがんがあるとする。このがんは将来ぼくの命を奪うのだが、がんがぼくの命を奪うタイムリミットは、無治療だと20年。ある治療をすると50年。ある治療とある治療を組み合わせると150年だと仮定する。

さあ、ぼくはこのがんを、治療するべきか、否か? 治療するとしたらどこまで本格的にやるか?

これをコーヒーでも飲みながら3日くらいゆっくり考えると、けっこう多くのことを考えつく。人によっては「150年! ぜったい150年!」とか、「はぁ? 150年ってことはがんは消えてないで150年かけてじわじわでかくなるってことでしょ? そんなの治療じゃねーから! その場しのぎだから!」みたいに突っかかってくることもある。

……でもねえ、ぼくは「50年」の治療でもいいかなって思うことはある。



命の長さは比べられない。私の50年にかける思いとあなたの50年にかける思いは違うだろう。どちらが正しいというものではない。




あと、ひとつ、付け加えておく。

もしあなたが、「がんを抱えたまま生きる状態」を、「特別な、かわいそうな、不幸な状態」としか考えられないならば、ぼくからの小さなおせっかいであるが、「そんなことはないぞ」と言っておきたい。

そもそも科学を突き詰めていけばわかることだが、今ぼくの体の中にはすでに無数のがんがある。これはもう確率的に間違いない。それらのがんが、体の中の「はたらく細胞たち」によって精一杯倒され、あるいはおとなしくされているというのがホントのところである。

はたらく細胞たちの防御をかいくぐって巨悪に成長したがんだけが、いわゆる「病院で診断するがん」として目に見えるようになる。

ぼくらは知らないうちに、がんと何度も戦って勝利しながら今を生きているのだ。

そしてその勝利は常に完勝ではない。今この瞬間にも、ぼくの体の中で「川中島」は起こっている。ぼくの体の抵抗勢力とがんがにらみあったまま動かない、均衡状態もしょっちゅう起こっているはずなのだ。目にはほとんど見えない、細胞レベルでの話だが。

「がんを抱えたまま生きるなんてかわいそう」? いやあなたも私もいますでにそうだから。免疫ががんばってそう思わせないでいるだけだから。



その上でね。健康に生きるとか、すこやかに暮らすために、「がんを完全に消し去ること」を唯一の目標にしてしまうというのは、ちょっと、ケッペキすぎないですかねえ、なんてことを思うことも、なくはないのである。

いや、気持ちはわかるのだけれども。

2018年10月12日金曜日

となりの家っsay

WANIMAを聞く気がしない時点で、「若者の感性」はもうわからなくなっている。

たぶんそういうことなのだ。

SNSがあるからぎりぎり若者の文化の「情報部分」だけはぼくに届く。探して集めることもできる。しかし、「情念の部分」だけはどうしても届かない。彼らがおしくらまんじゅうをして熱く湿った空気をぼくが吸うことはない。汗もかかない。写真のような光景だけは見ることができるが、五感に訴えかけてくるものがいろいろと少ない。

だからWANIMAを聴けない。聞こえるけれど。




ぼくらが中学生くらいのときにSNSがあったら、ぼくらの文化に対して40歳前後のおっさんたちが知った顔でネタツイをする様子をみて「キッモ」と思っていただろう。

だから突然WANIMAの話をしはじめたぼくをみた中学生がいたとしたらきっと「キッモ」と思っているかもしれない。あるいは「キッモ」という言葉の選択がそもそも間違っているかもしれない。今もぼくはどこかの誰かと断絶している。そのことに普段気づかないでいられる。世界は優しい。つながっているように勘違いさせてくれる。

ぼくが中学生だったときにはおっさん側が見えなかった。そして今、ぼくはおっさん側にいて、はるか過去に中学生だったときのことを引き合いに出して、現在と過去を比べて「俺は両方知ってるヨ」とやっている。けれどほんとうは何もわかっていない。過去の中学生は現在の中学生とは違う。同様に、過去のおっさんも今のぼくとは違うのだろう。

ずれている。ねじれている。世界は優しい。ぼくはそれに普段気づかずにいられる。




そういう世界の中で、なんだろう、言葉に上手にアクセントを乗せた人の話だけが、クラスタを超えて人々の間をツルツルと滑っていく。





書籍の依頼が来た。書き下ろしで、医療者とか病院についてのあれこれを書くみたいな内容を支持された。

つまんなそうだなーと瞬間的に思った。けれども、これはたぶんぼくが「WANIMAを聞く気がしない」と思っているのと似た根から出てくる感情だ。

それをつまらないと思っているぼくは、誰かからみてつまらないのかもしれない、と思った。

ぼくは垣根を越えてみたい。

そんなことはできないということも知っている。

隣の庭をのぞき見したおっさんが見ているものは、数十年前にそこで遊んでいた自分の姿だけだ。うすくぼやけて、編集されている。






編集者から来たメールをもう一度みる。

「実用や暴露的内容というより、
日常や実態をのぞきみる読み物としてのおもしろさに重きを置いてはどうか」

と書いてある。

ああ、そうか、あなたも垣根を越えたいのだ。

ぼくはエッセイを書き下ろすことにした。医エッセイ的な何かを書く。

2018年10月11日木曜日

病理の話(251) ある日の病の実況中継

ある臨床医が病理検査室にやってきたのは、もう1時間くらい前のことだ。

それからずっと、ふたりで顕微鏡をみている。

臨床医は顕微鏡を覗くために、メガネを外して集合顕微鏡の前に置いた。

そのメガネに先ほどから、悩む臨床医の肘が当たっている。




「効くだろうか」

「うーむ……」




ぼくらは一緒に細胞をみている。

この患者はがんではない。

ある内科的疾患をかかえた人だ。

長い経過があり、これから新しくいくつかの治療をしようという計画もある。

その上で、あるもう一つの治療を加えるべきかどうか。

臨床医は悩んでいた。




ぼくはその話を聞く。

「……という状態なんです。この人には、元からAという病態があるかもしれない」

「はい」

「その上で、Aに対しての治療Xを提案している。これはおそらく近日中に行われる」

「なるほど」

「しかし血液検査の結果を見て、悩んでいます」

「もうひとつ、Bという病態が隠れているのかもしれない、ということですね」

「そう。細胞はどうですか」

ぼくらはまた一緒に顕微鏡をみる。



すでに、臨床医にはいちど、一緒に顕微鏡をみてもらった。レポートに記載した内容もすべて説明済みである。

細胞が形作るパターンの先に病理医が求めたひとつの解。それは多くの先人達が組み上げた学問の先にある。比較的確固とした答えである。

臨床医はそれに上乗せをしたい。

ニュアンスを聞きたがっている。

エビデンスの先にある、ふわふわとした、「この患者が結局どうなりそうか」という曖昧な予測。

エビデンスの手前にある、細胞の顔付きといってもいい。




ぼくは言葉を選んで答える。

「ここに破壊像がひとつ。」

「はい」

「そして、この細胞分布」

「ふむ」

「おまけにここに起こっている細胞の変性。これは血液データの○○を直接説明している可能性がある。あくまで可能性ですが、その本丸を見ているのではないかという気がする」

「ふむ……」




臨床医の心はもう決まっているのかもしれないと思う。

病理検査室の中で、ぼくが全く違う角度からどう思ったのかを聞きながら、彼は自分の心の中にある「まだ言語化されていない確信」みたいなものを少しずつ言葉にしていく。




「けれどここまでです。正直、あとはわかりません」

「うん、ありがとう。わかることとわからないことは、よくわかりました」




彼は肘で押し続けていたメガネを手に取り、去っていこうとして、ふと足をとめてこう言った。

「もう何年も前に、違う先生が似たような症例を経験してね、そのときは△△病院の人たちと相談しながら、うまいことやっていったらしいです。さあ今回はどうしようかなと思っていた。けれどもどこか前と違うところもあるんだよな、と思っていた。それで聞きたかったんです。細胞がどうなっているのか。またお願いします」

ぼくは答える。

「また教えてください」






「また教えてください」に答えてくれる臨床医と、仕事をするといい。

何がどういいのかという強いエビデンスはない。

けれども、ぼくの経験が「たぶんほんとうだ」と言ってくれている。

推奨レベルの極めて弱い、プライベートコメントレベルのエビデンスであると考えていただいてかまわない。

2018年10月10日水曜日

無視するべきではないかと言われた

おやつを食べる習慣を失ってしまった。

出張に行くと自分用にごっそりおみやげを買ってくる。

そのいくつかは職場にキープして、仕事のあいまにぼそぼそと食べる。

ここしばらく出張がなかったので、デスクのお菓子を食べ尽くしてしまった。

すると、とたんに、おやつを食べなくなってしまった。




食べたくて食べていたわけではなかったらしい。

あるから食べていたのだ。





Nintendo Switchを買ってからというものさまざまなゲームで楽しんでいた。ブレスオブザワイルドはすばらしかった。マリオオデッセイもよかった。スプラ2も神である。

しかしある日、ゲームでもすっかなと思ったところ、たまたまSwitchの充電が完全に切れていた。充電するのを忘れていた。

充電器を指したままプレイすればいいかな、と思ったが、充電器に指してもゲームができるようになるまでに数分のタイムラグがあった。

その数分でふと、ゲームをするのがめんどうになってしまった。

それ以来、半年以上、ゲームをしないままでいた。




ゲームをしたくてやっていたわけではなかったのか。

充電があったからやっていたのか。





ときおり、自分の診断しなければいけない標本が完全にゼロになることがある。

するとぼくは働く気もゼロになってしまう。

「積み仕事」があるからこそ働くモチベーションが保てている。

それがわかっているが、診断はおやつとかゲームと違って「あとでゆっくり味わう」類いのものではない。

意図的に診断を遅らせることはできない。

となると、積み上げた山が無くなることを防げない。

じゃあどうするか。

論文を書けばよい。

教科書を書けばよい。

学術を探究し、それを後世に伝える仕事だけは永遠に無くならない。

よかったなあ。おやつやゲームと違って、仕事だけは、一生やっていけそうじゃないか。

ただ、タイムラインに返事してないリプライが溜まっているときは、まずそっちを消化してしまう。

リプライは無くなることがない。

おやつよりもゲームよりも仕事よりも確実に続けられるもの。

それはリプライだ。食べたいわけでも遊びたいわけでも働きたいわけでもないが、リプライが残っている限り、リプライは続いていく。そういうものだ。