2019年3月29日金曜日

モトゥロー

数年前に友だちの犬に言われたことを、今でもよく思い返す。

そのことばは、ぼくの頭の中でテントを張って住み着いているようだ。

ときおり、テントの前をあけて顔をひょこりと出す。こちらを見て何事かジェスチャーをする。気になって仕方がない。

そのことばはぼくの中に長いこと住んでいるうち、見た目が少しずつ変わった。背が伸びた。髪も伸び、無精ヒゲも生えている。けれども、中身はたぶん、変わらない。

こんなことばだ。



「ヤンデル先生には、何か、世界を理解しようとするときに、よりどころにしている言葉、みたいなのがあるんですね。今はさしづめ、『複雑系』でしょうか。」




実際に一語一句こうだったわけではない。

残念ながらぼくの記憶力は皆さんよりも少しだけ悪い。だからこの文章も、今、頭の中に残っているイメージを元に再精製したものだ。ニュアンスはあっているが言い回しは完全に「ぼく作」。そこはご容赦いただきたい。

ぼくは、人の顔、恩義、旅行に行った場所、覚えておくべき電話番号、何もかも、「興味がない」ので、ものすごいスピードで忘れていく。

覚えているのはいつもインデックスの部分だ。インデックス、すなわち見出しや目次の部分だけを忘れないようにしている。その都度、見出しをたよりに、検索しなおすことで記憶を取り戻して補完する。このとき、顔とか、場所とか、イベントの内容などをインデックスとして採用していないので、ときどき信じられないような忘却を果たす。

直近では、タニタ公式の顔を忘れていた。ある会で再会したときに最初わからなかった。勘違いしないでほしいのだがぼくは彼という「実存」自体には強く興味がある。ただし、彼の「顔」に興味がないのだ(なお彼はけっこうなイケメンではある)。

カツセマサヒコの顔も思い出せないが、彼はアイコンに顔が出ているので、ときおり記憶を補強できるから安心だ。さらに言えばぼくはFacebook大賛成派である。顔を出しておいてもらわないと、ほとんどの人の顔を思い出せなくなる。

忘れてしまうのは顔面だけではない。

先ほどのように、犬がかつて言った「ことば」も、細かい節回しについては全く記憶にない。

「ヤンデル先生には、何か、世界を理解しようとするときに、よりどころにしている言葉、みたいなのがあるんですね。今はさしづめ、『複雑系』でしょうか。」

ほんとにこんなことだったかどうかは全く自信が無い。

「ヤンデル先生は、たとえば『複雑系』みたいなキーフレーズを用いて、世界の仕組みを理解しようとしているときがありますね。」

「ヤンデル先生はさあー、何か言葉を手に入れると世界の見え方がグアッって変わるタイプじゃないかなああー。いやーそれはあれだよ、わかるよ、ガハハハ、おもしろいやつだよ。」

「ヤンデル先生は、世界にひそんでいる共通法則みたいなものを、言葉のかたちでピックアップしていこうという気概があるんだピョン。たとえば『複雑系』みたいなキーワードとしてだベシ。」

おわかりだろうか、これらは、ぼくの中では「一緒」である。

犬はかつて、「そういう意味のこと」を、「そういう概念」を、確かにぼくに言った。というか、言ってないかもしれない。概念すらこの数年で少しずつ入れ替わっていった可能性もある。

でも、数年前の犬とのやりとりが、ぼくの脳内で6次産業的に生産・加工・出荷・販売されて、時と共に変質しながら、しっかりとぼくの中に蓄積されていることは事実だ。まるで文芸史とか芸術史のようだなあと思う。今はもう別モノかもしれないが、確かにそこにあった。




ぼくは、どうもさまざまなディテールに対して、「注意」(文字通り、意を注すること)することが苦手だ。かわりに、多くの見出しを自分の中に整理して、その都度確認することで概念自体をまるごと体内に組み立てる。

そのとき、あらゆるディテールの中でぼくが唯一大事に覚えようと心がけている「インデックス」は、「ことば」なのだろう。ぼくはいくつかの少ない「ことば」を頼りにして、あやふやな記憶やあやふやな風景をカタチに仕立て上げている。

犬はそこを見抜いていて、ぼくが数少ないことばを足がかりにして思考を組み立てるタイプの人間だということを指摘したのだろう。




・複雑系、群像劇

・中動態、居場所

・分類思考、系統樹思考

・言祝ぎ、他己顕示欲

・プリコラージュ、SNS




これらはいずれもキーワード、すなわち単語に過ぎない。名言感がないし、座右の銘にすらならないだろう。

けれどもぼくは、秒単位で忘れていく過去どうしを必死で頭の中で組み上げていくために、常にこれらのキーワードたちを「接着剤」にして、あるいは「看板」のように掲げて、なんとか過去と現在と未来を上演するシアターみたいなものを作り上げられないだろうかと、毎日うんうん唸っている。

・シアター

という言葉は、複雑系を世に示す手段として考えた、現時点では最適の「便利なことば」である。

2019年3月28日木曜日

病理の話(308) AI以前に加藤さんが敵

先日の日経メディカルにインタビュー記事( https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/report/t328/201903/560220.html?n_cid=nbpnmo_twbn )が掲載された。

ぼくの腕の組み方がヘタクソなところが萌えポイントなのでちゃんと萌えて欲しい。



この企画を作り上げた日経メディカル編集部のKさん……とイニシャル処理しようと思ったが記事中にふつうに名前が書いてあるから本名表記でいいか……加藤さんは、2017年に日本病理学会のオープンフォーラムを共同企画した実績で(ぼくの中で)有名な、やり手の記者である。

彼はたぶんぼくを下僕のように考えている。ときどき無茶な依頼をくれる。

今回も無茶な依頼がきた。突貫的なインタビューが敢行され、羽田空港で謎の腕組み写真を撮影されるという嫌がらせをうけた。羽田空港といっても別にベンチャー企業の意識高い風シャレオツ写真を撮ってくれたわけではない。「工事中のブースでたまたま白い壁の場所がありました、その前で写真を撮りましょう」と、第2ターミナル1階到着フロアの端っこ(トイレ前)に連行され、警備員が頭の上にハテナを4個くらい点灯させるのをスルーしつつ、バシャバシャと25枚くらい写真を撮られた。羽田である意味は全くなかった。




ぼくはかねがね、

「病理組織診断なんてものは、AIによってほとんどすべて置き換わってしまってかまわない。ヒトがあえてルーチンの病理診断に従事する必要性を感じない」

ということを述べている。つまりは、「AIはヒトより優れている派」なのだが、加藤さんはそのぼくを、あえて

「AIが発展してもヒト病理診断の重要性は揺るがない派」

の論客に選んだ。まったくひどい。この記事でぼくはひたすら「自分の意に沿わないこと」を言わされているのである(笑)。




でも、まあ、ディベートというのは、自分の普段考えていないほうに肩入れしてしゃべるほうが、絶対おもしろい。

「自分が内心思っていることと反対側の立場で、必死でつじつまを合わせ、論理を組み立てる」

という作業がやはりとても楽しかった。加藤さんの思う壺。ぜひ本文を読んでほしい。あ、でも、日経メディカルに登録しないと読めない記事な気がする。となると、非医療者にはハードルが高いだろうな。ごめんね。

というわけで、概略の一部をここに漏洩する。怒られたら謝って消す。今のうち今のうち。




ぼくがこの記事の中で書いた内容は主に4種類の理論から成り立つ(数えてみてほしい)。なかでも一番大きな柱は、

「AIが出してきた結果は必ずしも人間の意志決定(判断)を強制しない」

というものだ。

この話はとても大事で、ある意味、医療に限らず、これから来るAI時代にほとんどの人間が必ず直面するであろう問題ではないか、と思っている。





記事中に書いた例えを少し拡充しよう。

AIによる診断は、おそらく、天気予報に似たものになると思う。

「明日の降水確率は60%です」というのと同じように、

「あなたの病が3年以内に命に関わる確率は60%です」

というかんじで予測がなされる(ざっくりとした例えだ。実際にはもっと高度だと思う)。

ここで、降水確率が60%なら傘を持ってでかけよう、というノリで、我々は「命に関わる確率が60%なら、手術しなければ!」と判断できるものだろうか。

この問題は思った以上に難しい。

手術が失敗する確率が0.5%。

手術がうまくいっても病気の進行がさほど遅くならない確率が33%。

手術がうまくいって病気の進行が遅くなる確率が45%……。

あなたはこれらの数字をみただけで、「じゃ、傘を持って出かけよう」のノリみたいに、「じゃ、手術をうけてみよう」と判断できるだろうか?

ぼくはそんな判断は無理だと思う。




AIができるのは、判断をサポートするデータを提出するところまで。

AIが「診断を決定」してくれるような未来は来ない、というのがぼくの論点だ。




ただこの話には続きがある(それも記事中には書いてある)。

そもそも、患者が相手にするものが、AIだろうが、生身の医者だろうが、「患者が判断するときの困難さ」はさほど変わらないのではないか、という話だ。

患者にとって、自分のあずかり知らぬところにある大量の知識が自分に向かって「さあ決めて下さいよ」と詰め寄ってくる状況は、AIの普及以前に、人の医者を相手にする局面でもしょっちゅう発生していた。

このあたりをもう少しまじめに考えた方がいいんじゃないの……という話を最後に書いている。




まあよかったら読んでみてね。お前どっちなんだよ、って、つっこみたくなるでしょうから。そうなったらしめたもの。

「どっち」って決められないのが人間なんだよ、っていう結論が強固になるだけの話なのである。



追記:この記事を執筆したあとに、早川書房の「予測マシンの世紀」を読んでがくぜんとした。ほとんど同じようなことが、ぼくより巧妙な文体で丁寧に書かれていたからだ。まあそうだよな、みんな同じこと考えるよな、それにしてもあとからぱくったみたいでなんだか申し訳ねぇな、そもそも日経メディカルのインタビューを収録したのはもっと前なのにな、加藤さん、加藤さん、そこんとこフォローしてね、とか、そんなことを思った。

2019年3月27日水曜日

サインはもらえました

できあがって書店に並んだ本を、あらためて自分で読もうとトライしているのだが、目が滑ってしまってなかなか読めないでいる。

校正のときに丹念に読み過ぎた。

あまりに何度も読んだから、覚えてしまった。

読んでいても、ちっとも「おっ!」とか「おお!」がない。新鮮な感動がゼロだ!

だから、つまんない。自分の本はつまんない。

「……なんてこというんだ! おもしろいぞ!」

いや、そういうわけではなくて。

せっかく「紙の本」として形になって世に出たものを眺めても、中身はすべて知ってしまっているし、なんだか気恥ずかしいというか、なんというか、長年連れ添った夫婦がいちいち愛を語らない、みたいな、微妙な距離感になってしまう、ということを言いたかった。

ほめるところと言ったらイラストレーターさんとかデザイナーさんとか編集者とか、そういうところしかない。

もう自分の文章についてはノーコメントになってしまう。






先日コーチャンフォーという巨大書店の中で開催された「藤村・嬉野・かわいい子」のトークショーを見に行った。

藤村さん、嬉野さんというひとたちは、北海道のローカルバラエティ「水曜どうでしょう」のディレクターである。

彼らは最近本を出した。「仕事論」という。おもしろかった。

けれども本題は本の話ではなかった。何かというと、「ドラマ・チャンネルはそのまま!」の宣伝なのであった。ディレクター陣は最近、このドラマの製作にかかりきりだった。イベント開催日は、ちょうど地上波放送の前日である。

かわいい子、というのは元SKEで現在オフィスキューに所属している東李苑(あずま・りおん)さんという、まあほんとに顔のちっちゃいかわいらしい方で、この方はタレントでもありドラマにも出ている。

このかわいい子とむさいおっさん二人がとても楽しそうにトークをするイベント。

話題は終始、ドラマのことに尽きる。

本の話はいっこうに出てこない。

イベントが終わったら、本を持って二人の前に並べばサインをしてくれるという、サイン会もあるのに。

本の話にならない。

ぼくはそれをみながら、「あーわかるなーわかるなー」という気持ちでいっぱいだった。

やっぱ書き終えた本の話って、しづらいよな。





実際にはそんなことないのかもしれない。

トークショーの話題がドラマの内容ばかりだったのも、あるいは、会場にドラマ撮影に関わったスタッフが多くいて、その日のムードがドラマ一色だったから、に過ぎないのかもしれない。

けれどもぼくはずっと考えていた。

「自分の書いた本の話」というのは難しい。

「他人の書いた本の話」のほうが100倍簡単で、楽しくて、ためになり、気恥ずかしくないのだ。

2019年3月26日火曜日

病理の話(307) がけの上で犯人の生い立ちを聞くやつ

ある病気を詳しく調べるとき、「その病気が出た背景」というものを、よく気にする。



たとえば、「がん」のことを考えよう。

まず正常の人体に存在する無数の細胞(ブルゾンちえみいわく60兆個)を、「善良な市民」に例える。

ぼくらの体は、人口60兆人の巨大都市だ。シムシティでもここまで人口は増やせまい。すごいよな。

その、60兆人がうごめく巨大都市の中に、ちょいちょい悪人が出現する。これが「がん」。

悪人は最初はチンピラレベルだが、徒党を組んでヤクザになり、武器を調達してマフィアになり、悪の軍隊みたいになって世界を滅ぼそうとする。

ヤクザとかマフィアくらいの段階で、患者や医療者は「あっ、がんだ」と発見することができる。

なかなかチンピラひとりを捕まえてくることは難しい。善良な人々と見分けがつかない時期があるからだ。

でも、できればチンピラに毛の生えた程度の段階で捕まえてしまいたい。そうすれば、ヤクザやマフィアが街に被害を及ぼすことを防げるだろう。

じゃあ、どういう場所に、チンピラが出現しやすいか?

どういう理由で、チンピラは街に現れるのか?

それを考えるのが、「病気の背景を探る」ということである。





まずは治安だろう。

ある地域において治安が悪いとする。

具体的には、警察がうまく働いていない。あるいは、善良な人々の監視の目が行き届いていない。

教育・啓蒙が不十分だ、ということもあるかもしれない。

いろんな理由で、チンピラの芽が出現する。

万引きをしても平気なひとたち。ヤマザキ春のパン祭りのシールだけはがしてもっていってしまうクソガキ。燃えないゴミの日なのに勝手に燃えるゴミをおいていくやから。

こういった地域では、チンピラが発生しやすいのではないか、と予想できる。

そもそも治安が悪い地域で、チンピラの芽みたいなやつがうようよしていると、ほかにも新しくチンピラが出てきやすい。類は友を呼ぶ。




人体においてがんが出現するときも同じようなことを考える。

体内の警察(免疫)はきちんとがんの芽を摘み取ってくれているだろうか。

もともと荒れた地域で、炎症が頻発していたりしないだろうか。

たとえばそれはタバコに伴う刺激がくりかえしくりかえし加わっている人かもしれない。

さらには、DNAのエラー(教育・啓蒙の失敗)。細胞にさまざまなエラーが蓄積していたりはしないか。




この話をするとたいていの人は、こういう。

「なるほど、そうやって背景をきちんと探れば、がんの予防とか早期発見にもつながりますよね。体の環境が荒れた人からがんが出やすいとわかっていれば、環境を整えるにはどうしたらいいか考えたり、がんが出そうな人をピックアップして早めにがんを探しに行ったりできますもんね」

うん、あってる。

けどほかにもいいことはある。





がんの中でもとりわけ頻度が高いもののひとつ、「大腸癌」は、発生する背景によっていくつかに分けることができる。

そして、分けた大腸癌それぞれに、抗がん剤の効きやすさが違ったり、転移しやすさが異なったりするのではないか、と言われている。

もう見つかってしまったがんに対しても、背景を探ることで、「がんの由来から、がんの弱点を探し出すことができる」かもしれないのだ。




ある病気の背景を探ることは、その病気のウィークポイントを見いだす上でも重要なのではないかと考えられている。

大犯罪集団と戦おうと思ったら、得られる情報はなんでも得る。

情報戦こそが近代医学のあるべき姿なのである。

2019年3月25日月曜日

なぜ今日

ホワイトデーにこれを書いている。

うっかり「お返し」を多く買いすぎた。

去年までチョコをいただいていた方が退職されたのを忘れていた。例年通りの個数を買ってしまった。

もはやすでに「もらったことに対するお返し」というよりも、「何かを差し上げる日」となっている。だからもらった数をきちんと確認せずに、いつもの数でお菓子を揃えてしまったのだ。

ま、そこまで目くじらをたてることでもあるまい。お菓子は、自分のために買っていいものだ。余ったら食う。食うために余らせる。




「さようなら」という言葉は元来、「左様ならばこれにて御免」のような長いフレーズの一部であった、みたいな話をずっと掘り進めていくのは楽しい。

けれども、だからといって、「さようなら」には「左様ならば」の意味を今でも込めるべきだ、とは、ぼくは全く思わない。

慣用化したフレーズには慣用化したなりの使い勝手というものがある。

習慣化したイベントは習慣にまかせて駆け抜けてしまっていい。

元は「甘い愛」に関連したイベントであったホワイトデーも、すっかり「甘い物体」の日として定着してしまった。少なくとも、ぼくの中では。

それが悪いとは思わない。ポジティブにとらえていきたい。




恵方巻きはコンビニの陰謀と言った人がいた。

資本主義に踊らされるな、クリスマスは仏教徒として過ごせ、みたいな人もいた。

彼らはあるいは冗談で言っていたのかもしれない。まあ食品廃棄はいけないことだと思うけれど、それは精神的な問題ではなく、どちらかというと需給バランスを読み違えた社会構造をなんとかすればいいという話だ。資源や食料を大切にしている限り、これらはとてもいいイベントだと、ぼくは思う。

ほんとは土用の丑の日だって、需給をきちんと整えておけば、悪くない日だったのにな。

ぼくはうなぎをもっと喜んで食べたかった。そういう21世紀だったら、今よりもうちょっとだけよかったな、と、思わなくもない。

2019年3月22日金曜日

病理の話(306) 顕微鏡をみる仕事ではなく

「顕微鏡をみて病気を診断する仕事です」。

日頃われわれは、病理診断のことを、このように説明する。

実際には、やまほど言いたいことがあるのだが。



たとえば顕微鏡をみていない時間はとても多い。ほかにもみるべきものはいっぱいある。

けれども、一番イメージがしやすく、他と差別化しやすいから、「顕微鏡をみてます」と伝える。まあこれが一番キャッチーだということだ。

すると、たいていの人の脳内には、パッと顕微鏡が出てきて、少し前のめりで接眼レンズにメガネをくっつけた白衣の男が浮かぶようである。

このようにして病理医のイメージが整う。



昔はこれで十分だったのだが、最近は、脳内に顕微鏡を覗き込む白衣男性のイメージを植え付けた人々から、このように問いかけられることがある。

「『みて判断する仕事』ってことですね。ならば、この先AIが発達したら、コンピュータのほうが見て判断するのはずっと得意でしょうから、病理医はいらなくなりますね」

あなたもあるいはこのような物言いを、どこかで目にしたことがあるだろう。




こういう勘違いがちらほら見られるのにあわせて、ぼくらの説明方法も少しだけ進化した。

病理診断ってどんな仕事なんですか、と聞かれたら、

「顕微鏡をみて考えて語る仕事です」

と答えるのだ。




不思議なもので、「考えて」「語る」をつけると、とたんに「AIに奪われるんですよね」とは言われなくなる。

みんなAIが考えないと思っているようだ。

AIは語らないと思っているのだろう。

まあ考えるし語るんだけどな。




ぼくはこのあたりの話を、かつて、「いち病理医のリアル」の中で、「ドラえもんに会う前に」という章を設けて、とつとつ語ったことがある。

この章が一番人気があった。

AIはいずれドラえもんになるだろうか。

ドラえもんといってもポケットから便利な道具を出すロボットという意味ではなく、「のび太と普通に会話をできるロボット」という意味だ。

そんなの無理だ、という人はいる。

けれどぼくはいけるような気がする。

そして、ドラえもんに会えるようになった日、病理医を含めた大半の人間の仕事は「理論上」失われることになる。

理論と現実とはまたちょっと違うのだけれど……。

2019年3月20日水曜日

デンタリスト醍醐味

バラエティ番組の司会をしている人たちに共通する特徴というのがあって、まあもちろんこれはぼくが勝手にそう思っているだけなのだけれども、

「はじけるように、楽しそうに、笑う」

というものである。

有吉、松本、明石家、上田、などなど諸氏。

みな、アップで笑っているところを映されやすい。



さらに持論を続ける。

バラエティのゲストというのは、「笑い顔やリアクションをワイプで抜いてもらう仕事」ではないかと思っている。

これに対して司会者は、「笑い顔やリアクションを全画面で映してもらう仕事」。

ぼくは両者の違いをこのように考えている。



司会者として名をなす人々に共通するのは「毒舌の回数以上に笑っている回数の方が多い」ということ。

毒舌が多いか少ないかはともかく、笑顔>毒舌であることは確実だと思う。



「良く笑う人ばかりが司会者」であることはおそらく、適者生存の論理というか、ある種の「選択圧」がかかった結果ではないか。

視聴率が瞬間的に上がったシーン、下がったシーンみたいなものをじっくり秒単位で検討したところ、これらの司会者が画面に登場して笑ったシーンで軒並み視聴率がよかったのではないかと予想している。

逆に、笑いが少ない、笑い顔があまり映らない司会者のときは、視聴率が秒単位でちょっとだけ悪くなったのではないか。

以上は勝手な予想だ。でも当たってる気がする。根拠はないけど。確信に近い。理由は「勘」。

いろいろなやり方をしている人たちが、さまざまにテレビに映って、結果的に数字が良かった人たちが残るというのを繰り返していたら、よく笑う人が今こうして残っているんだろうな、という想像である。

専門家の人からするとつっこみどころはあるかもしれない。

けれどもぼくはこの件に関しては、別に「真実」に興味があるわけではないのだ。

そう信じたい、ということである。




笑顔というのは一番「作れない」表情だ。

作り笑いという言葉があるだろう。つまりは、「作るとバレてしまう」からこそ、こういう言葉が市民権を得るのだ。

では、どういうときに笑顔が「出る」か。

自分が機嫌良いから、あるいは機嫌良いよと周りに伝えたいから、笑顔。

自分が好きなことばかり目に入ってくるから笑顔。

これらは微妙に違う。

人を笑わせるための笑顔というのもある。

人の笑いに引っ張られる笑顔というのもある。

自分から自然に出てくる笑顔がどの類いのものなのかを知っておくことは、「司会者」という強力なメソッドにチャレンジする上で有効なのではないかと思う。




テレビに出たい人がいるとして。

ゲストを目指すのはいいが、誤解を恐れずいうならば、夢が小さいと思う。

世に何かを届けたいと思うなら、司会者を目指した方がいい。

オリンピックもワールドカップも目指さないサッカー少年というのがいてもいいけれども、そういった場所にたどり着くのは、「目指した少年」だけだ。

同様に、伝えるために必ず司会者になる必要は全くないのだけれども、あの場所にたどり着かないと、おそらく、いつまで経っても「届かない」ことを嘆き続けるしかないのではないか、と思う。