2019年5月31日金曜日

病理の話(328) 病理医は細胞の何をみているか

今日のは熱心に病理学を勉強している医学生向けだよ。よろしくね。なお、後半ではちょっとエッチな人妻が登場するよ。



顕微鏡で病気の細胞をみるとき、ぼくら病理医はいったい何をみているのか。

よく「細胞の顔つき」などと表現される。これはいかにも主観的だ。

細胞が癌かどうかは、病理医の気分によって決められている! なんて、したり顔でつぶやく人もあらわれてしまう。

けれども実際にはもう少し客観的で、根拠がしっかりとある観察をしている。今日は、そのへんの話をしよう。あと1000文字くらい書いたら、エッチな人妻を登場させるから待っててね!





すべての細胞は、あるべきタイミングに、あるべき場所で、決まった働きをすることが望まれている。

配置。周囲との関係・量比。機能。そして活動している時間の長さ。

これらは、すべて細胞ごとにコントロールされていなければいけない。そうしないと、人体という複雑なシステムは自己を保っていられない。

逆にいえば、これらのどれかが狂っている細胞は、「がん細胞」かもしれない。正常の細胞からかけ離れた何かを示している細胞を探す。それが、病理医の仕事だ。



一例をあげよう。



細胞の「配置」は、細胞同士のくっつき方とか、細胞が作り上げる構造の形をみることで、わかる。

細胞がしっかりと手を繋ぎながら並んで、試験管のような構造を作っているならばよし。

細胞どうしの手の繋ぎ方がおかしく、細胞と細胞の距離が一定せず、試験管であるはずのものが丸底フラスコみたいになったり、三角フラスコみたいになったり、あるいは枝分かれする”しびん”のようになっていたら、異常だと判断する。

これらのうち、特に、枝分かれはやばい。

試験管を作るはずの構造が枝分かれしているときには、どこかに必ず、「本来の細胞どうしの手の繋ぎ方では達成できない、分岐」がある。

手が2つしかない人は、両隣の人としか手をつなげない。人が手を繋いで並んでいる限り、「分岐」なんて起こりようがないのだ。

それなのに、人の列が「分岐」しているとしたら、誰かが手を3本以上持っているということになる。

わかるかな? 分岐がないはずの構造が分岐する、というのは、「圧倒的な構造の異常」なのである。




手が2本あるか3本あるか、というのは、「主観的」に決めるものではなく、「客観的」に判断できる。

「なんとなく正常の構造からかけ離れている細胞集団を探せ」というと、えらく主観的な作業に感じられてしまうけれどね。

病理医は、「なんとなくかけ離れを探す」のではなく、「根拠をもって、客観的に、かけ離れを意味する像を探す」のだ。それが職能である。





ごめんね800文字ちょっとしか書かなかったわ。1000文字に達しなかったので、エッチな人妻はまた今度にします。残念ですね。

2019年5月30日木曜日

山口さんちのツトムくんこの頃少し

ソニーの、首にかけるタイプのBluetoothワイヤレスイヤホンを使っている。

特に不満はない。

仕事中、イヤホンからメールの着信音やSlackのアラートが鳴るのがべんりだ。

顕微鏡をみていても連絡にすぐ対応できる(デスクの周りにいれば)。




強いて言うならば、意外と充電がもたない点は不満かも。

午前中に充電して、午後使い始めると、夜にバッテリーが切れてしまう。

だから、有線のイヤホンも未だに使っている。ワイヤレスの充電が終わったら有線に切り替える。




有線イヤホンはゼンハイザーという会社のやつを使っている。

一番安いやつではない。

それなりに高い。

けれどもバカみたいに高いものではない。高級イヤホンとまではいえない。




ぼくはイヤホンから流す音量をかなり小さく絞っている。業務中に話しかけられることもあるし、電話だってかかってくる。

そうなると、あまり高価なイヤホンを買っても、その音質は十分には享受できない。

あまり強力にノイズキャンセルするのもまずい。

そういうあれこれがあって、選んだ。




ゼンハイザー、5年ほど使ったろうか。

今日、とうとう、左側から音声が出なくなった。断線したのだろう。

まあよくもったほうだと思う。毎日使っているのだ。

車なら2回は車検に入っている。

いちどもメンテナンスせずに5年持つ道具なんて、もう、この世の中には少なくなってきている。




イヤホンを買い換えようと思ってAmazonを開いた。われながらだいぶ横着になったなあと思う。

「本は書店で買う、アマゾンは使わない」

と、あれだけ普段からアピールしているわりに、本以外のものについてはアマゾンを便利使いしている。




さまざまなイヤホンを探して画面を右往左往する。

おすすめが表示されても、それをなぜおすすめされているのか、理由がわからない。

先日ピエール中野氏が紹介していたAVIOTのワイヤレスイヤホンを以前に買ったから(職場では使わないのだ)、AVIOTがちらちらと目の端にうつる。

でもぼくがほしいのはあくまで有線のイヤホンだ。

だって無線のはもうあるんだから。




いったん、アマゾンをはなれて、Googleで、「イヤホン 有線 おすすめ」と検索する。知らない有名人や手練れの記者達が、ぼくにイヤホンをすすめてくれる。

ぼくは結局何がいいのかよくわからず、今まで使っていたゼンハイザーの同じモノを、アマゾンで探し当て、クリックして、買った。色すらも前と同じにした。





ぼくはネットの買い物を便利で使いこなしているつもりでいる。

けれども実際、よく考えてみると、AIがどれだけ高度なおすすめをしてくれても、結局はAIのいうことを無視して、今までと何も変わらないものを買ってしまう。

AIが進歩しても、使う方の脳が保守的だから、恩恵を十分に受け取っていないのだ。




性格的な問題がある。

3杯目はビール以外の飲み物にしようかなと思っても結局ビールを飲んでしまう。

今週の土曜日はラーメンを食おうかと思っていても結局うどんを食ってしまう。

白のTシャツはGUで買ってしまう。

行動変容の加速度が限りなくゼロに近い。

慣性が強すぎる。





そういえば、ぼくはそもそも5年前に、なぜゼンハイザーのイヤホンを買ったのだったか?

たしか、おそらく、ツイッターで、少し仲の良い人が、ゼンハイザーいいですよ、とすすめてくれたのではなかったか。

ぼくの根本のところにある、一番変容しない部分というのは、「なんかプロっぽい人が、自分より詳しい人が、にこっと笑ってすすめたものは、ひとまずそのまま使ってみる」というものだ。

だからきっと5年前も、だれか、ぼくよりはるかにイヤホンに詳しい人のいうことをそのまま聞いたんだ。

そこは変わっていないと思う。

今後、AIを使いこなすためには、この、「人のよさそうな先達にたずねた結果を盲信する」という行動を変容する必要がある。




なかなかしんどいのではないかという気がする。地球上での等速度運動は摩擦に負けるから、知らず知らずのうちにそっと減速していく。ぼくはもう減速し始めているはずなので、そろそろ、変容しないといけないと、わかっているはずなのに。

2019年5月29日水曜日

病理の話(327) 医者は顕微鏡をみて何がしたいのか

サッと病院言ったらパッと病名がついて、ガッと治療方針が決まってパッと治る。

これが理想なんだけど、いろいろと障壁がある。




想像してみるといい。




たとえば同じ「かぜ」であっても、

「かぜです! よかったですね」というシチュエーションと、

「かぜです! おつらいですね」というシチュエーションがあるだろう。

ないかな? ぼくにはあるよ。




この2つは単純にとらえ方の違いだろうか?

気の持ちようでどちらかに決まる、という類いのものだろうか?




違うのだ。みなさんもよくご存じかと思う。

ひとことで「かぜ」と言ってもいろいろな「かぜ」がある。

1.ただ鼻水だけが出ているかぜ。

2.ちょっとノドが腫れたかな、くらいのかぜ。

3.なんど鼻をかんでもくしゃみがとまらず、熱があって目のまわりがむくんで、全身がだるくてヘンな音のせきが出る、かぜ。

これらをぜんぶ「かぜ」と呼ぶのは乱暴ではないか? という話だ。




まあ病気の名前はなんでもいいんだけれども、病気を相手にする上では、

・どこが具合悪いのか? 【場所】

・どれくらい具合悪いのか? 【程度】

を考えないと治療なんてしようがない。

同じ「かぜ」だって、程度が軽ければ放置して治るのを待てばいいし、鼻がグズグズしている人に胃薬を使ってもだめだろうさ。





そしてこの「場所」や「程度」を考えるとき、医者は患者を目で見たり、脈を取ったり、胸の音を聞いたり、血液検査をしたりするんだけれど、CTとかMRIまで駆使してもどうしてもわからない、確認しきれない情報というのがいくつかある。

それをみるのに、ときおり、顕微鏡が役に立つわけだ。




たとえばある臓器に棲み着いた「へんな細胞」が、すごく活動性が高くて、周りをぶちこわす力も強くて、ばんばん体のあちこちに飛び散っていきそうな悪いタイプのやつなのか、それとも、しばらく放っておいても別に増えもしないし周りを壊しもしない、良いタイプのやつなのか。

「細胞レベルで、病気の本質が良いか悪いか」を決めた方が治療方針が立てやすいとき。

ぼくらは顕微鏡で、病気の内部にひそむ細胞を見極める。




活動性が高い細胞というのは、正常の細胞に比べると、細胞の形状に違いがある。

具体的には、「いっぱい細胞分裂をして早く増えたい細胞」はおしなべてDNAの入れ物である「核」がでかい。ちょっとでかい、とかじゃなくて、あきらかにでかい。「核」のカタチもおかしい。円形でなくぎざぎざとしていたり、妙な切れ込みが入っていたりする。

「核」以外の部分にも変化が出る。細胞のエネルギーを生み出すミトコンドリアの量が異常に多くなっていたりすると、細胞質の色合いが変わってくる。細胞の本来の挙動である「となりどうし、なかよくくっついておとなしくしていること」が崩れてくると、細胞間の接着度合いがみだれて、細胞がばらばらと離れてきたりする。

細胞は基本的に組み体操をしている。細胞1個で何か仕事をするのではなく、複数の細胞がある程度決まったカタチでフォーメーションを組む。「悪い細胞」はこのフォーメーションをきちんと作らない。不良の学生は運動会で組み体操には参加しないのだ。

これらの細胞が「悪い奴だ」とわかったら、次は、そいつらの配置をきちんと読む。

臓器の表面にちょろっとだけ存在する、っていうのと、臓器の内部に深々と突き刺さっている、というのとでは対処が違うからだ。




病理医の仕事を、「黙って座ればピタリとあたる、安楽椅子型探偵」みたいなものかと想像される方がいる。灰色の脳細胞を存分に使って推測を重ねていく仕事。まあそれも一面の真実ではある。

でも、顕微鏡診断というのは、どちらかというと、「現場に残された手がかり」をきちんと探して、その場で何が起こっているのかを多面的に見極める、「現場型」の仕事に近い。

これをよく、ポワロってよりコナン君に近いよ、と説明している。ときどきキック力増強シューズを使うとなおいい。

2019年5月28日火曜日

WWWの最後のひともじはウェーブではないです

今日は何も予定がないから早く帰ろうと決めていた日に、Facebook経由でメッセージが届いた。そこには、

「今日の研究会には参加されますか? そこでちょっと見て頂きたいプレパラートがあるのですが」

とあった。

なんということだ、今日は研究会があったのだ。完全に忘れていた。できればそのまま忘れていたかった。カラッと忘れて帰宅してビールを飲んで寝て、翌日になってメールが3通くらい入って、

「昨日の研究会はご欠席だったようですのでこちらでご相談をいたしますが」

みたいなことが書いてあって、あっイッケネ、忘れてた、テヘ、みたいな感じで人生をうまいことスルーしていたかった。



もうだめだ。知ってしまったからには出なければならない。Facebookはクソである。




人類ってのはいつから「寄り合い」をやるようになったのかな。

集まって、お互いに助け合う。

自分の肩にいっぱい荷物が載っている場合には少しラクになるかもしれない。

自分が今ヒマだという場合にはかえって忙しくなるかもしれないけれど。

あっ、昔は、生存競争に忙しくて、「ヒマ」という概念自体がなかったりして。

孤立して孤独で自由であるというのは、安全が保証されている今だから言えることで、むきだしの大自然に一人で立ち向かったら、ヒマなんて全く存在しなかったのかもしれない。

みんな孤独だと両肩にいっぱい荷物が載っていたのかも。

生まれたての人類(?)は、きっと、そうだったのかも。

だから寄り合ってスクラムを組んで、お互いの荷物をきちんと減らそうとしたのかも。

多くの人が集まると、言葉だけでは会話が進められない(うるさくなって仕事にならない)から、目線とか顔色だけで考えていることがわかるように、顔認識のための脳システムが高度に進化したのかも。





ご先祖様の苦闘の末にたどり着いた今、大自然は見事にパッキングされ、ぼくらは一人で、ヒマをもてあましながら暮らしていけるようになった……。

だから群れなくてもよくなった……。

群れるのめんどくさいな……。

なーんてことを、無責任に、脳天気に、今まさに考えている。




今なんとなく思ったのだけれど、石器時代の人類も、内心、「群れるのめんどくせぇな」って思っていたんじゃなかろうか。

「あー今この瞬間に都合良くマンモスの頭の上に隕石が落ちてきて、俺の目の前にほどよくボイルされた肉がごろんとおちてこねぇかな、それを一人で、誰もこない見晴らしのいい高台で、ひなたぼっこしながらのんびり食って昼寝でもしてぇな」

って思ってたんじゃなかろうか。

いやいや群れていたんじゃなかろうか。

そのときの記憶が、進化の末に、適者生存して、ぼくの脳に残っているからこそ、「群れるのめんどくせえな」という感情が出力されてくるのではなかろうか。





ぜんぜん関係ないことをいうけど「感情の波が押し寄せる」みたいなフレーズ。あれ、「寄せては引く」から波なのだろうか。それとも、定期的に強くなったり弱くなったりを繰り返すから波なのだろうか。

ぼくは感情が強くなったり弱くなったりするのは波というよりもむしろ、バッファにかかるタイムラグなんじゃないの、と思うことがある。脳ほど高性能なコンピュータであっても、すべての感情をノータイムではじき出せるわけじゃないように感じる。リングみたいなポインタがぐるぐると回って脳がカリカリやっている間、感情が出力されない待ち時間があって、そのあと一斉に放出されて、また読み込んで……。性能の悪いWi-Fi環境下で動画をみるように、ぼくらの脳は感情をつっかえつっかえ吐き出している。それは波というよりも……。




まあネットサーフィンっていうくらいだから波でいいのか。じゃあ波でいいです。

2019年5月27日月曜日

病理の話(326) 病理の話を延々と書き続けている理由というかネタバレ

病理の話というのはつまるところ「病気のりくつ」もしくは「ヤマイのことわり」のことなので、えー、ちょっとだいそれたことを言うならば、

「生きている人はみんな興味を持つ」

と思う。



いや、ま、「みんな」って言葉を使うと反発がくるんだけどね。

「みんなってことないだろう」ってね。

「俺はそこまで興味ねぇよ」なんつってね。

確かに、今とっても元気で、若くはつらつとしていて、自分が病気になるなんて信じられない、みたいな人は、自分が具合悪くなったときのことなんて考えたくもないだろうし、リアルに想像もできないし想像するつもりもないだろう。

でも、そういう人もいずれ年を取り、病気のことが気になる日がくる。

一生のどこかでは、多かれ少なかれ「病気のおはなし」に興味が出る。

だからぼくが書いている「病理の話」という連載はずるいんだ。

基本的に病気についてどうこう書けば、それはもうまちがいなく「みんな(いつかは)興味を持つ話題」なわけだから。

ごめんねこんなにアクセス数稼いじゃって。

でもしょうがない。みんな興味があるんだもの。



ただ、ぼくが書いている「病理の話」は必ずしもビョーキそのものについてだけ書いているわけではなくて、実はもうひとつ、大きな柱がある。

こっちのほうは、必ずしも読む人みんなが興味をもつわけではない……。

というか大多数の人はほとんど興味がないんじゃないか、と言われている。

それはいったい何かというと、「病理医というレアな職業人が病院の中でなにをやっているか」ということだ。



こんなことを書くと「いやー私はそういう話興味ありますよ!」というリプライが来るのだけれど、それはあなたがこのブログに対してたまたま適性があるからであって、ぶっちゃけ同じ内容を朝日新聞の朝刊で連載しても連載は2か月ともたないだろうし、報道ステーションのワンコーナーで視聴者に向かって語りかけても「好きな人は好きな話題でした、次です」とか言われてしまうだろう。




「病理医の話」はつまるところ職人と職人芸の話だ。

だから受け取り手を選ぶと思う。

ただし、病院で働いている人々のうち、ごく一部の人だけは、この「病理医の話」をとても熱望する。

このブログの読者であるあなたがちょっとひくくらいのレベルで、病理医の話を聞きたがる人が、病院にも少数だがいるのだ。

それは誰かというと……。




内視鏡医、肝臓内科医、腎臓内科医、血液内科医、腫瘍内科医、放射線科医……。

そう、医者だ。

それも、主に「がんを扱う医者」。

あるいは、がんに限らずとも、医者に限定せずとも、「病理医と日常的に付き合っていく必要がある医療人」である。




病院には看護師がいっぱいいる。栄養士も理学療法士もソーシャルワーカーも、医療事務を担当する人も、清掃やリネンを担当する人も、食堂とか理髪店とか売店で働く人もいる。その大半が病理医のやっている仕事そのものには興味がない。

そして、医者だけをとりあげてみても、医者の7割程度は病理医のことを知ろうとは思っていない。必要に迫られていない。そこまで興味をかきたてられていない。

糖尿病や高血圧をしっかり管理していくタイプの医者は病理医のことを知る必要がない。

救急車から転がり出てくる患者の生きるか死ぬかに直面する救急医は病理医のことを知る必要がない。

大半の外科医も、病理医のことを別に知らなくても食っていける。やっていける。





けれども、限られた一部の医者は、病理医のやっていることに興味が有る。

病理医が、顕微鏡を用いて細胞を観察し、そこから何かを導き出すプロセス。

結果だけではなく、途中経過……思考の筋道そのものを、知りたがっている。





かつてある内科医が、ぼくにこう言った。

「細胞を直接みられるんだから病理医ってのはラクな仕事だよなあ。直接みられないものを推理しているぼくらからすると、犯行現場を直接みて考える探偵みたいなもんで、ずるいなあって思うよ。」

この内科医は、病理医の出す結果には興味があるのだが、「思考のプロセス」に興味がない。

病理医が何をみて、どう考えて、レポートにまとめているのかを「ラクで、ずるい」とまでしか評価していない。

この内科医だけが特に薄情なのだろうか? ぼくはそうは思わない。

大半の医者は……病院ではたらくほとんどの人は、同じ意見だと思う。

あるいはそこまでの意見すら持っていないだろう。「病理医? 別に知らんでもいいわ。知らんけど普通にしっかり働いてくれとったら、それでいいわ」。




ぼくらはみな、究極的には、他人の仕事の「結果」には興味をもつのだけれど、「それが生み出されるプロセス」に興味をもつのはずっと後回しになる。

テレビがなぜ映るのか。

飛行機がなぜ飛ぶのか。

興味はもったことがあるだろう。でも、それを最後まで追究した人が世の中にどれだけいるだろうか?

「なんか難しいことがあるんだな」だけで、まあよしとして、得られる結果だけを享受するのが、普通の人間だ。





病理診断という仕事もこれといっしょなのである。

「病理ってどうやって診断出してるんだろうなあ」と、「テレビってどうやって映ってるんだろうなあ」みたいなノリで、くびをつっこんでいろいろ調べてみても、ほとんどの人は、「うん、なんか難しそうなことやってるってのはわかったよ。」と言って、プロセスを理解することをあきらめる。

それが健全だし普通だと思う。




けれどもぼくらは、職人的な人間は、いつか誰か、ニッチでマニアな、ぼくらの仕事のプロセスにとても興味をもつ人が激レアなタイミングで出現したときに備えて、

「病理医ってのはこういうことをやってます」

と、書き記しておく必要がある。

だって少なくとも、病院の中の、3割くらいの医者は、ぼくらがやっている仕事に興味がある、さらにいえばその思考プロセスとかメカニズム自体にも興味があって、これらを直接仕事に活かそうとしているのだ。

たいした数じゃない。

少ない。

マニアだ。オタクといってもいい。

けれども、「世界の誰が読むんだろうこんなもの」という文章に、心を踊らせる人がいると知ってしまうと、ぼくらはそれを用意しておかなければという義憤に駆られる。





病理の話はかれこれ300回以上書いているのだけれど、その半分くらいは、世界の片隅でじっと病理医に興味を持ち続けているレアキャラのために書かれたものだ。

あなた方、普通の読者のみなさまが、そうと気づかずに、オタク向けの文章を、つい読んでしまっている、という構造をつくるために、ぼくはツイッターというシステムを悪用している。

あなた方、の中にひそむ本物のマニアがよろこんでくれることを目指しつつ、あなた方、ぜんぶが「悔しいけどオタクの心意気を感じちゃう」くらいに育ってくれるように、ぼくはずっと悪巧みをしている。





実をいうとぼくはお気軽な推測をしていて、それは、

「たぶんほとんどの人は丁寧にお膳立てをすると、テレビがなぜ映るのかを完全に理解してよろこぶようなマニアックな性癖を隠しもっている」

ということだ。この見通しは甘いかもしれないが、あながち外れたモノでもないんじゃないかな、という、仄暗い確信のようなものがある。

2019年5月24日金曜日

なにみてはねる

外食が難しくなってきた。あぶらモノが腹に来る。

とくにカツ丼がどすんと来る。なかなか頼めない。

かつて、椎名誠がカツ丼の話を書いていた。無尽蔵の体力の持ち主も最近はカツ丼がちょっとしんどくなってきているようだ。

そういえば嬉野さんもカツ丼の話を書いていた。山形のとある宿のとなりにある食堂のごはんがとてもおいしい、特にカツ丼が絶品だ、という話で読んでいるだけで腹が減るような名文だった。



ものを書く人はどこかのタイミングでエッセイの中にカツ丼のことを書く。

これはぼくが今までの40年間で見つけた数少ない物理学的な真理だ。

世の中には2種類のもの書きがいる。

何かにカツ丼についての話を書いたことがあるもの書きと、これからカツ丼についての話を書く予定のもの書きだ。




なおぼくはいわゆるもの書きを自称するつもりはない。だからカツ丼についての話は以上でおしまいにする。だいいち、ぼくはもともとカツ丼をそう頻繁に食べない。しょっちゅう食べるのは牛丼のほうだ。今日は牛丼の話をしようと思う。

ぼくが牛丼を食べに行く店はある程度決まっている。

5割は吉野家である。

2割がすき家

2割が松屋

そして残りの1割はなか卯だ。




なか卯、と書くと、とたんに昔のことを思い出す。




ぼくは12年前に、築地のあたりでうろうろとしていた。もう干支が一回りしてしまったんだなあ。でも未だに一部の記憶はきちんと残っている。国立がんセンター中央病院(当時)の病理に朝から晩までいりびたり、標本そっちのけで臨床医達と画像・病理対比にいそしみ、論文を読みまくっていたころのこと。

勉強していたって腹は減る。ただしあまり時間はない。築地市場も銀座も目の前だったがそういうシャレオツなザ・トーキョー的飯を食ったことはほぼない。昼は大抵コンビニで買っておいた飯を食った。これが現実である。

がんセンター時代にぼくはあくまで「お客さん」だった。任意研修生というやつである。自分の診断しなければいけないルーチンは少ない。だから1日中勉強ばかりしていたが、仕事もせずに勉強できる集中力の限界はだいたい12時間くらいだった。夕方も6時を越えると少し疲れてくる。7時過ぎにはおひらきにすることが多かった。

慣れない東京生活で疲れたぼくは、夜にあえてどこかに繰り出すようなことはしなかった。札幌においてきた家族のことが気になって、はしゃぐ気持ちにもならなかった。だから結局、毎日毎日、がんセンターのどでかいビルのそばにあったなか卯か、フレッシュネスバーガーのどちらかで晩飯を食った。それ以上遠出できなかったのである。

なか卯、フレッシュネス、なか卯、フレッシュネス。

ぼくはあそこで一生分のなか卯とフレッシュネスを食い終わった。




最近は、なか卯の看板をみても痙攣しなくなったし発疹も出ない。

けれども一時期はなか卯をみるだけで体調が悪化した。なか卯アレルギーだったのだと思う。

長い「なか卯断ち」のすえに、今では10回に1回程度、なか卯に入るようになった。とはいっても、今はそもそも牛丼自体を食べる頻度が減っている。せいぜい月に1度のペース。となるとなか卯に入るのは年に1度くらいだ。

うまいこと減感作療法が決まり、ぼくのなか卯アレルギーは2年ほど前に根治した。

でも、根治したというのはあくまで「生活に支障の出るレベルの症状が出なくなった」というだけであって、まったく症状が消えたわけではない。

カウンターに座って、濁りきったあの冷たいお茶を一口すする。

すると、今でも必ず、当時のことがものすごいスピードで思い出される。





当時ぼくはがんセンター横のなか卯で、インド人っぽい名前の店員とよく顔をあわせた。食券を置くと半分をちぎって持っていくのだが、そのちぎり方がいつも、点線を無視した雑なもぎり方だった。彼はいつもいうのだ、「ぎゅうどんおまちしました」と。お待たせしました、と、お持ちしました、のハイブリッドだ。ぼくは彼のものまねが得意である。けれども誰にも見せたことはない。ぼくはいくつかものまねができる。その大半は人前で披露したことがある。けれどもなか卯の店員のまねだけは見せたことがない。

当時ぼくはがんセンターに通うのに、東銀座という駅で降りて歩いていた。駅からがんセンターに向かう途中には早朝からやっているタリーズコーヒーがあって、ぼくはそこで毎朝、「本日のコーヒー」を一杯飲んだ。タリーズにはとてもかわいらしい店員がいたのだが、2か月くらいでいなくなった。別にその店員のために通っていたわけではなかったけれど、その店員がいなくなってからのタリーズは少しつまらなかった。でもそのことに気づいたのは札幌に帰ってきてからしばらくして、サッポロファクトリーの中に突然タリーズコーヒーができたときのこと。へえ、あのタリーズがこんなところにね、と思って中を覗いた瞬間、「その店員」がいたような気がして、ぼくは東京にいたときのつらい毎日をフルセットで思い出し、手足の毛細血管がいっせいに縮んでこごえてしまった。

当時ぼくは馬込駅そばのクソみたいなレオパレスに住んでいた。まわりには爬虫類が経営しているのではないかと思われるほどにまずいラーメン屋が1軒あった。なぜかぼくは1週間に1度、日曜の昼に、そのラーメン屋に通った。あらゆるメニューが均質にまずかった。でもぼくはそれをまずいと思うだけの味覚を失っていた。何の問題もなかった。札幌に帰ってからとある普通のラーメン屋に入ったときに、急に舌の上に味覚が戻ってきて、なんだ、あの店は激烈にまずかったんだな、と、ようやく気づいた。ぼくは東京で五感のいくつかを失っていた。



築地にいたころのぼくは後から振り返れば激しく人生を転換させていた。

大学院時代、研究に対してはとにかくあらゆることがうまくいかず、絶望に絶望が積み重なっていくだけのがっかりミルフィーユみたいな状態だった。天才だと思い込んでいたまぼろしの自分と決別し、家庭を大事にして遊びを嗜む、地に足の付いた実存としての人間になる必要があった。けれども、ぼくはまだ、自分の頭脳に未練があった。X軸Y軸Z軸それぞれに独立する価値観が配置された空間上で、ぼくはいつも非線形に飛び回りながら、ほんとうにいるべき座標を見失っていた。別のラボからの誘いを断り、大学に残る道もあきらめ、そうそうに市中病院で常勤病理医となることを決めるも、直後に築地での研修が決まったことで、ぼくは自分が「何年目の何」になるべきなのかがわからなくなってしまっていた。



ものすごいスピードで思い出すのは、わからなかったころのこと。

かつてのぼくが「わからない存在」だったことを俯瞰しながら、「わからないままだ」と感じる。





なか卯の牛丼は「和風牛丼」という。

洋風牛丼や中華風牛丼を定義せずに和風を名乗るなか卯の姿勢は卑劣だ。

玉ねぎをつかわずに普通のねぎを使う。

だしの味が「ほら、これで和風になったじゃろう」とばかりに効いている。

だから和風牛丼。安易である。

牛丼というよりも「家庭ですき焼きをやった翌日に、あまった汁とネギを肉に絡めなおしてご飯にかけた丼」だと思って食っていた。

ねぎの中から、ねぎの芯みたいなものがときどきピヨッと出てくる。こいつには味がしみていないことがある。

ねぎは玉ねぎに比べると剛性が高いのか、箸で持ち上げるとしばしば汁がはねてぼくのワイシャツの一部を小さく汚した。

ぼくは築地のなか卯で隔日ペースで、これはなかなかうまいな、と思いながら和風牛丼を食っていたけれど、馬込のラーメン屋で週に一度ラーメンを食えるくらいには舌がばかだった時期の話である、ほんとうはなか卯の牛丼はまずかったのだと思う。ぼくには時間がなかったし余裕もなかった。敗北に満ちあふれた大学院を通り過ぎ、深々と全身に刻まれた無数の傷から血を流しながら、生まれて初めて津軽海峡よりも南で暮らすことになり、燃焼した油脂と蛋白質のにおいがするような焦げた生活の中で、なか卯の牛丼を60回食った。




ぼくはなか卯の牛丼はもう一生分食った。今、1年に1度のペースで、すっかり回復した舌がなか卯の牛丼をうまいうまいと味わうことがあるが、ぼくはそのときに必ずあの頃の、味覚を失っていた頃の苦悶を思い返している。ぼくは一生分のなか卯を食ったあのころに一生を終え、今、一生のその先にある場所で当時のぼくをときおり眺める。なか卯は年に一度食えば十分だ。そういえばなか卯の「卯」とはうさぎという意味ではなかったか。

2019年5月23日木曜日

病理の話(325) 遠隔診断という概念が我々からまだ遠く隔たりがある

実際に患者のそばで行わなければいけない「医術」というものは、どんどん少なくなっている。

たとえば、放射線科の用いる画像診断は、遠隔で行うことが可能だ。直接患者のそばにいなくても、画像だけをネットで飛ばせばいいからだ。

北米では、20年くらい前からすでに、CT, MRI画像を「地球の裏側にいる放射線科医」に読影してもらう遠隔放射線診断システムが本稼働している。

遠隔で放射線画像診断をする医者が登録する会社があるのだ。病院は会社と契約して、撮った画像の評価を「外注する」。

記憶によればナイトホークという名前の会社があった。地球の裏側にいる放射線科医だから、読影はいつも(北米時間の)夜中に行われる。なかなかキマった名前だなと感じた。

むかし、スーパーファミコンという古典的なハードにF-ZEROというレースゲームがあった。その中には「ナイトオウル」という名前のコースがあった。

ぼくはナイトホークという名前を聞いたときにまずこの「ナイトオウル」が頭の中で混線してしまった。それ以来、遠隔画像診断の話をするときには、頭の中に、F-ZEROのメタリックな画面とイカしたBGMが思い浮かぶようになった。脳が軽くバグって接続がイカれたのだ。

F-ZEROというゲームはレースゲームなのだが、本編に生きている人間が出てこない。その意味では、遠隔診断のイメージとも完全に離れているわけではない。まあ、その後、スマブラでキャプテンファルコンが信じられないようなパンチを打つようになり、イメージはゆがんでしまったのだが……。




話を変えよう、ダヴィンチという手術システムをご存じだろうか。

https://www.mitsuihosp.or.jp/davinci/

知る人ぞ知る、というにはもうずいぶん普及したシステムだ。

いわゆる「マニピュレーション・システム」である。ロボット手術というと正確ではない。ロボットが自動で手術をしてくれるわけではないからだ。

このシステムには執刀医が必須である。人の役割は失われていない。

執刀医の手の動きに応じて、「千手観音の手のようなロボットっぽくみえる機械」が患者のお腹の中を切って縫ってくれる。




ただ、人の役割は失われていないが、人のいるべき場所については微妙に変化している、ということに気づく。

冷静に考えると、ダヴィンチを使って手術をするならば、執刀医が患者の側にいる意味はないのである。





こういうと絶対に怒られる。

「何かあったときにすぐ対処しなければいけないだろ! 外科手術は放射線画像の読影とは違う! 執刀医は患者の横にいないとだめに決まってる!」

けれども頭を柔らかくして考えれば、「執刀する人」と、「そばにいて対処する人」をイコールで結ぶ必要はないのだ。

そばにいて対処する人は、執刀医とは違ったシフトで、違った給料体系で、より最適化した状態で待機すればいい。経営者であればそこからいくつかの「給料を抑えるためのヒント」を見いだすだろう。

(経営視点のない医者は、めぐりめぐって医療の効果を下げる。)





ちょっと想像するとほかにもいいことがある。

ブラック・ジャックのような「神の手をもつ外科医」というのは最近聞かなくなったが、レアな手術を、すでに何例か経験したことのある外科医がもっぱら担当する、いうことは、今でもよくある。神の手までは必要ないにしても、世の中のほとんどの医者が経験していない手術を先駆的に行う人はやはり神様扱いされる。

この場合、神様を遠方から呼んでくるよりも、遠隔でダヴィンチ的にやってもらうほうが圧倒的にラクだろう。交通費かかんないし。

まあ実際にダヴィンチがそのように用いられているケースはたぶんまだほとんどないと思う(いろいろ倫理とか制度的な障壁があるし、ダヴィンチを使えるケースもまだまだ限られている)。けれど、将来的に、ダヴィンチの適応がもっと広がれば、「遠隔の外科医に介入してもらう」という話も出てきそうだな、とは思う。

何度もいうが外科医は「それはむり!」と言う。

けれども経営者が「それ魅力!」と言ったとき、外科医は反論できるのだろうか?

少なくともぼくは反論できない。






さて病理診断だ。病理診断こそは患者のそばにいる意味が無い。

だからもうどんどん遠隔化していいと思う。

こういうと「切り出し(臓器を直接目でみて、どこをプレパラートにするか決める技術)は、遠隔ではできないだろう。直接臓器を手で触れなければ!」と反論される。

一流病理医ほど、そう言う。

けれども外科医の反論といっしょだ。

「切り出しをする人と、組織診断を遠隔でする人を、分けて考えてシステム構築してみたら、何かいいことが起こらないかな?」

この柔軟な発想こそが医療現場では大切なのではないか、と思う。





今までの医療を担ってきた人たちは、自分たちが理想的な医療環境を作ったと自負しているだろう。

ぼくは今が一番いいと思う。医療は確かに、どんどんよくなっている。

よくぞここまでのシステムを作ってくれた、と、尊敬を払う。

その上でなお、人間のやれることには限界があることも十分承知だ。

都会と地方とで医者は偏在し、患者と医療者の言いたいことは微妙にすれ違い続け、8割の満足はあるけれども、決して10割の満足には達しない。





ぼくはあらゆる医療を遠隔システムを用いて再構築すべきだと思う。

「医療者は患者に寄り添わなければだめだ」という誰もが認めるヒューマニズムを残したまま、一部の「遠隔向きの医療」をどんどん遠隔システムに切り替える。

そうして、浮いた分のコスト……金銭もそうだが、特に、頭脳労働をさまたげる手間の部分を、医療に還元しないと、医療はこれ以上に上がっていかない。





誰かが患者のそばで、患者に寄り添い続けるために、誰かは患者のそばを離れて頭脳労働に特化した方がいいのではないか。

病理医は頭がいい。すぐに気づいてくれるだろう。

ぼくらは知恵の側にこそいるべきだ。