2020年10月30日金曜日

毛玉

職場にはいてきたパンツの毛玉がすごい。最近寒くなってきたので、ワタが入ってあったかいやつを引っ張り出してきたのだけれど、あらためてじっくり見てみると毛玉がすごい。人前に着ていけるような服では無かった。……と、以前なら赤面しただろう。


今は人に会う機会が減っているからあまり問題ない。機能があれば、見た目はわりとなんとかなる。


「ソーシャルディスタンシングによって、モノを大事にすることができる。」


すばらしい。




ちょっと今写真を撮ってみたんだけどグロかったので載せない。なぜだろう。肉眼だとそこまでひどい感じはしないのだが、スマホで撮ると光量の関係か、解像度の関係か、毛玉の凹凸がエモ散らかして、綿の荒野に一揆集が決起したみたいに見えてしまう。お見せできない。


「スマホカメラによって、毛玉はグロくなる。」


また所見を得た。




*



こういったことを少しずつ書きためていって行を埋めることでブログになる。そういう書き方があることは事実だ。ぼくもこれまでに何度かやっている。ただまあ、ぼくのレベルでやると、スッカスカになる。


「一人井戸端会議」において、会話のお題をこうと定める理由はいらないし意味もない(こうやっていうとマツコデラックスを目指すタイプの人が「意味はある」などとつっこんでくるかもしれないが)。


ただ、その小さくて無意味な話題はある種の静電気みたいなものを持っていることがあって、そこにポンと置いてしばらく眺めていると、周りのホコリがよってきてピトピトとくっつく。すると少し話題の質量が増える。


そうやって黙って置いておくうちに、いつのまにか話題の周囲に最初のタネよりはるかに大きな別の話題がくっついていることがあって、あっ、なんでこんな話題を思い付いたんだろう、なんて思って、後から出てきた話題のほうを手に取って眺めていると、とんでもなく長い文章になることがある。そういうことがある。


このことを「氷山の一角」という表現を用いて書いてもよかったのだが、なぜか今日の場合は、一つのコアとなる無意味ななにかを置いて、そこに静電気でもっとでかいものがひっぱり寄せられる、みたいなニュアンスになった。たぶんぼくはそういうことを普段言語化せずに考えているのだろうと思う。


で、その、ぼくが言うのもあれなんだけど、一流の小説家とか一流のエッセイストというのは、最初のコアも大きく育て、寄ってきた別の玉もしっかりと育てて、ふたつが融合したようなテキストを作り上げるのがとても巧みだと思う。逆にぼくは最初のコアにいつまでもいつまでもかかずらう。こだわる。ホコリまみれになった最初の玉を何度でもチラチラとみている。それはもはや他人から見ると毛玉でしかない。ぼくの布地から湧いて出た汚い毛玉。

2020年10月29日木曜日

病理の話(469) 勉強のめやすに4つの分類

「疾患を学ぶ」と言ってもいろいろな方法がある。

あの医者の勉強とこの医者の勉強を比べてみるとまるで違う、ということをよく経験する。

今日の話は医学の勉強法についてなのだけれど、あくまで一部の医者(病理医含む)を想定して書く。それ以外の人にとっては、うまく活用できないかもしれない。念のため、おことわりしておきます。なお、内科医・國松淳和先生がよくこの考え方をなさっていると思われるし、ぼくはそれに影響を受けている。





実地臨床で遭遇する疾患の勉強をするとき、頭の中に4つの分類項目を用意する。

1.コモン×コモン

2.レア×コモン

3.コモン×レア

4.レア×レア

コモン(common: よくある)と、レア(rare: めったにない)の組み合わせである。これだけではなんのことかわからんので、もうすこし細かく説明する。

1.コモン(遭遇頻度が高い)×コモン(典型的な見え方をする)

2.レア(遭遇頻度が低い)×コモン(典型的な見え方をする)

3.コモン(遭遇頻度が高い)×レア(非典型的な見え方をする)

4.レア(遭遇頻度が低い)×レア(非典型的な見え方をする)


つまりは、医者として患者に出会って診察をする際に、「その病気にはどれくらいの頻度でお目にかかるか」と、「その病気として典型的なかたちで診断できるかどうか」で分けておくのだ。ひとつずつ見ていく。




1.コモン×コモン の例:

 「かぜ」、中でも「ウイルス性の上気道感染症」の患者には、医者をやっている限り相当な高確率で遭遇する。「せき、鼻水、のどの痛み」という3つの症状が揃ったパターンが典型的である。
 よくある疾患の、最も典型的な「表現」(どういう症状で医者のもとをおとずれるか)をきちんと勉強する。このことは医者をやっていく上でほんとうに役に立つ。
 きちんと頭に入れておけば、毎日のように使う。

 病理医でいうと、たとえば、胃がんや大腸がんの細胞の特徴を覚えるようなことだ。
 


2.レア×コモン の例:

 「クローン病」という、小腸や大腸などに炎症をくり返す病気がある。発生頻度は高くない疾患である。ふつうに医者をやっていても経験する機会は多くない。しかし、この病気には典型的な症状・所見がある。なかなかよくならない下痢や腹痛、発熱どの症状を見て、内視鏡を行い、「縦走潰瘍」や「スキップする潰瘍」などのいかにも特徴的な所見をみつけると、クローン病ではないかと疑うことができる。
 「クローン病」のことはきちんと勉強しておく必要がある。ただしクローン病の勉強方法がかぜといっしょではうまくいかないんじゃないかな……と思う。なぜなら、「めったに遭遇しない」からだ。たとえば、「下痢や腹痛が典型的」と言っても、下痢や腹痛をひきおこす病気はほかにもいっぱいある。クローン病よりもっと頻度の高い病気が山ほどある。そういったものの中から、「これはレアなクローン病に違いない」と決めるための勉強は、やや特殊だ。「ほかとの差をより意識しなければならない」とでも言うか。

 病理医でいうと、たとえば、Whipple病のPAS染色所見や、ニューモシスチス肺炎のGrocott染色所見を覚えるようなことだ。



3.コモン×レア の例:

 「心筋梗塞」という、大変有名で、かつ重い病気がある。運動や食事の重要性がこれほど一般に知れ渡っても、発生頻度はいまだに高い。
 典型的には「すぐにはおさまらない、強く胸をしめつけられるような痛み、焼け付くような強い胸の苦しさ」で発生する。
 ただし、この病気はまれに、「胸が痛くならない」こともある。
 糖尿病などの持病を持っていて痛みに鈍感になっている場合や、本人が胸の痛みではなくお腹の痛みとして知覚する場合、アゴや肩の痛みがメインで胸の苦しさがあまりよくわからない場合などが、まれに起こる。
 よくある病気のレアな発症様式。当然、診断するのはむずかしい。しかし、ここで診断にたどり着くのが遅れるとたいへんだ。レアな症状を呈することもあるということを医者が知っておく必要がある。
 えーそんなの無理だよーと思うか? はっきり言って、専門の病気を相手にするプロなら、「コモン×コモン」を勉強したあとで、「コモン×レア」にも守備範囲を広げておくべきである。また、自分の専門外の病気についても、「あれ、コモン×レアか!?」と、気づくくらいの訓練はしておいたほうがいい。

 病理医でいうと、たとえば、E-cadherinが陰性とならないinvasive lobular carcinomaを覚えるようなことだ。



4.レア×レア の例:

 正直に言うけれど、これは基本的には後回しである。ほかの3象限をある程度のレベルまで学んでからでないと、字面だけ、写真だけで学んでもまずうまくいかない。それはそうだろう、「めったにない病気」の、「非典型的な見え方」を学んでもしっくりこなかろう。

 ところが、落とし穴がある。学会や雑誌の中で「症例報告」されているケースの一部は「レア×レア」なのだ。だって、病気自体が珍しくて、しかもその見え方も珍しいとなれば、関わった医者は積極的に学会で発表し、論文にまとめるだろう?
 ただ数を稼ぐように論文を読んでその内容をきちんと吟味していない人は、知らず知らずのうちに「レア×レア」を蓄積してしまっているかもしれない。このことに自覚的でなければならない。論文を読み学会報告を聞くときには、意図的にその他の3象限を取り入れるようにしなければいけない。

 病理医でいうと、たとえば、転座型腎細胞癌のあたらしい染色体転座が見つかったという論文を読んで、その転座に特徴的な所見を覚えるようなことだ。






……今日の記事は、さすがにピンとこない人が多かったかもしれない。

なぜなら、「病理医」というレアな職種の、「疾患の勉強」というコモン……いや……比較的レアなジャンルについての記事だからだ。レア×レアはむずかしいのである。ま、でも、記事にはしやすい。

2020年10月28日水曜日

脇目をきちんとふる

ムスカがシータに「流行りの服はおきらいですか」と問いかけるとき、あーなるほど、ムスカくんもこれまでいろいろな人間と付き合ってきたなかで、流行に追われて常に新しいデザインばかり買い求める人にも出会ったし、あるいはその逆に、「流行っている服なんてつまらないでしょう」とばかりに逆方向にすすんでいく人にも出会っていて、きっといろいろな人間に振り回されてきたんだろうなあ、そうじゃないとそのセリフ出ないよなあと、なんだかかわいさを感じてしまうのである。


”「流行りの服がおきらいな」人ってへんくつだよね。自分の好みが他人の好みよりも優れているという「好みマウント」が、言葉のはしばしから出てくるタイプに多いじゃん。ぼくそういうの苦手だ。”


ムスカもきっと、場末の居酒屋の小上がりで、焼酎をウーロンで割って飲みながら、サークルの後輩相手にそうやって恋愛観を語ってうっとうしがられた過去があったんじゃないかと思う。ほら思い出話がはじまるぞ。シータは逃げてほしい。でもそんなあぶない逃げ方はしないほうがいい。






脇目をふる。脇に目をやる。自分から見て、脇。


自分が世の中心にいるわけではない。脇目こそが本道に近いかもしれない。というか、脇目をふるとき、左右のどちらかはおそらく世の中心である。自分の向かう前が中心ということはまずない。


そして世に中心はない。分散型ネットワークには中心点がないのだ。地球の表面において「中心」がどこにもないのといっしょだ。3次元を2次元の地図に展開して、真ん中を日本にするから、ぼくらは日本が真ん中だと思い込んでしまうし、太平洋とか日本海を「右」「左」などと呼ぶんだけれど、本来の地球の表面には「中心」なんてない。そこには球を網羅するネットワークがあるだけだ。右も左も前も後ろも区別がつかなくなるのが、分散型ネットワークの特徴である。宇宙空間に出てしばらくすると、「高さ」と「遠さ」の概念が区別できなくなるように。球面上を歩いていると、どっちが「脇」でどっちが「前」なのかわからなくなっていく。そういう迷い方をする。


脇目をどんどんふる。脇目をきちんとふる。ネットワークの中で何度か同じパルスが通っただけのけもの道を「本道」などと呼ぶことをせず、自分が歩いている道を「本道」だと思い込むこともせず。脇目をふりつづけるなかで、なお、自分の首が自然に戻る部分は、「本道」ではないかもしれないが、自分がなんとなく進んでいきたい方向なんだろう。座頭市のように。ベッケンバウアーのように。草食動物のように。脇目をふりつつ、「前」に向かう。

2020年10月27日火曜日

病理の話(468) 未来の病理診断が今ここに

「Scientific reports」という学術雑誌はなかなか特殊な、いかにも今風の雑誌である。


論文掲載には「査読」といって、複数の人間の審査を経なければいけない。ただし、掲載が決まるまでの時間は早いほうだと思う。すべての論文が「オープンアクセス」といって、誰でもウェブで無料で閲覧できる。


ぼくの勝手なイメージだが、「けっこうよさげな結果を、急いで世に出したい」ときに重宝されているような印象がある。


さてそこにこういう論文が出た。


https://www.nature.com/articles/s41598-020-71737-w


"3D histopathology of human tumours by fast clearing and ultramicroscopy"


”3D histopathology of human tumours...

(訳:3次元組織学 オブ 人間の腫瘍……)


...by fast clearing and ultramicroscopy."

(訳:……迅速組織透明化技術と、ウルトラ顕微鏡によって。)




すごそうな言葉ばかりが並んでいて、そのじつ何が起こっているのかよくわからないと思われるので、ちゃんと解説する。


ふつう、病理医が細胞を評価するときには顕微鏡を使うわけだが、この顕微鏡、虫メガネと違って、そのものにただ近寄っていけば細胞が見えるというわけではない。拡大を上げ続けていくと2つの障害にぶつかる。


1.「拡大をあげればあげるほど、視野が暗くなる。」


小さな面積を拡大していくので、周囲をいくら強く照らしても、構造がよくみえなくなっていくのだ。このことは非常に大きい。


2.「拡大をあげても、細胞の外側ばかり見えてしまい、中身が見えない。」


きわめつけはこれ。細胞というのはゆで卵みたいなものだ。周囲にカラがあり(細胞膜という)、なかに白身と黄身があって、黄身の部分を「核」と呼ぶ。こいつを外からにじりよって観察したところで、見えてくるのはカラばかり。内部を見るのはなかなか大変だということが想像つくだろう。



そこで、これらの問題を一気に解決する手段として、人間はほんとうにかしこいことを考え付いた。


輪切りにするのだ!


タマゴを輪切りにする!


しかも、そのスライスをペラッペラに薄くして、下から強い光をあてる!


こうすると「1」と「2」が一気に解決できる。下から強い光を当てることについてはまあ上から当てても実は一緒やんけと思わなくもないのだが、「スライスする」ことで断面にすれば、カラの内部の構造だって一目瞭然だろう。


そこで「薄切」という技術を使って、組織をペラッペラにする。カンナのおばけみたいなものを使う。


ところがここでひとつ問題が生じた。ペラッペラの組織というのはほとんど透明だったのですよ。だいこんのかつらむきすると向こうが透けて見えるでしょう?


下から光をあてても、薄すぎてなんだかよくわからん、という事態がおとずれた。あちらを立てればこちらが立たず。


で、人間、さらに工夫して、いろいろと細胞を染める技術をためして、最終的に、のび太さんのエッチイー染色というのを考え付いた。正確にはHematoxylin and Eosin (HE)染色という。のび太さんと覚えていい。しずかちゃんだけど。


これを使うと、タマゴの黄身の部分をきっちり染めることができて、なんならカラの部分も繊細に染めることができる。ペラッペラのスライスであってもだ!


というわけで、「薄くペラペラにする」+「色を付ける」+「下から光をあてる」の三位一体攻撃で、わたしたちは普段、細胞をまるはだかにしているのである。エッチイー。





ところが今回のScientific reportsの記事……というか実はそのずいぶん前から、そうだな、10年以上前から、人間達はまったく別の技術開発にとりくんでいたのだ。そこにはあるモンダイ意識があった。いわく……


「薄く切ったら立体構造が見えないじゃん。」


や、ま、そうなんだけどさ! でもそれはもうしかたなくない?


みんながそう思ってたんだけど、いろいろな業界のひとたちが、「組織をまっぷたつにせずに、そのまま透明にして、そこに色をつけて、なんかすごい顕微鏡で見るワザってねぇの?」という開発をはじめたのである。


いやいやそれってすごいぜ。だってまず「組織を切らずに透明にする」ってことだろう。そうしないと光が奥まで届かない。タマゴの中が見えない。


でもこの技術、まじでずーっと開発され続けていた。ぼくが知る限りでも10年弱前にはすでに日本病理学会で発表があったと思う。


そしてこのたび、「めちゃくちゃかんたんに、しかもすばやく組織を透明にできる試薬の組合わせ」がわかったというのだ。それが上記の論文である。


おまけにその透明になったスケスケ組織に、今までのようなHE染色であるとか、各種の免疫染色をそのままやることができるという。さすがにその発想はなかった。


するとどうなるか? 特殊な顕微鏡(ここにも血と汗と涙の歴史がある)をもちいることで、組織をペラッペラのかつらむきにせずとも……まあ実際には完全に切らないというわけにもいかなくて、ブタの角煮の厚さくらいにはしたほうがいいんだけど……組織の構造をみることができるようになった、というのだ!


ぎょえーすごい。3次元構造がみえる! という論文である。この技術をまず発表しておかないと特許とられちゃうだろうから、論文作成者は発表を急いだんだろうな。Scientific reportsに投稿するのもまあわかる。




ただまあ実際に論文を見てみると、これ、「核の中身」まではなかなかみえないね。やっぱり精度はさほどではない。けど、実際の人間の「がん」が、どのように3次元的に進展しているのかをきちんと表現することができている。


これ、たぶんAIと組み合わせると、人間の診断能力を超えると思うよ。それくらい情報が多い。


よーしぼくもこれからは3次元病理医だ。人間の欲望ってのは果てしないな。病理医のエッチイーである。

2020年10月26日月曜日

体幹を鍛えよう

仕事で首や肩周りが重くなるのはまあわかるのだが、最近、家でマンガを読んでいてもあちこちがだるくなる。つまりは体を黙って支えていることがしんどいということだ。


一番らくなのはふらふらしていることである。所在なく歩き回ったり、意味も無くたたずんでいたり、寝っ転がるにしてもキングサイズベッドくらいのソファがあれば便利なんだけどなーと思いながら床の日が当たるところでずっとごろごろ回転している。定常状態でいると必ずどこかの筋肉に負担がかかる、だからいつも加重のかけかたをずらして、ひとつのところに留まらないようにするしかない。


多彩なくらしをすることで、「人生の床ずれ」を起こらなくする。まあかっこよく(?)言うとそういうことになるだろう。しかし、冷静に考えて、これらの面倒な気配りは、「体幹や四肢近位の筋肉をきちんと鍛えておけば必要なくなる」のである。


腹筋と背筋を。体の横側の筋肉を。ふとももや腕を。ムッキムキにしなくてもいい、人並みに鍛えておけばいいのだ。維持できるだけの体力があればいいのだ。そうしたら、また、何時間でも本が読めるし、何も考えずに一日日向に座っていることもできるだろう。


のんびりするためには運動がいる。心を無にするためにも筋肉がいる。




テレビに「20年前、スポーツチャンバラで世界一になった人」が出てきて、ウレタン製のチャンバラ刀を振り回していたのだが、駄々っ子のそれと変わらないように見えた。


ぼくも剣道をしなくなって18年ほど経つ。つまりはああなっている。もはや、していなかったのと同じ状態、いや、「俺も本気を出せばあの頃に戻れる」と感じているぶんだけタチが悪いようにも思う。とりあえず昨日、鬼滅の刃を1巻から読むときに、V字腹筋を足してみた。

2020年10月23日金曜日

病理の話(467) がん細胞を更正できるものなのか

がん細胞は、正常の細胞の性質をある程度兼ね備えたまま、その挙動がおかしくなっている。


たとえば白血病というがんは、「白血球」というだれもがもつ細胞の性質を持っているのだけれど、ちゃんと白血球としては働いてくれず、どこかしら異常になっていて、必要以上に増えたり(増殖異常)、本来の仕事をしなかったり(分化異常)、不死化していたりする。


で、このことを何度かブログに書いているうちに、ある感想をいただいた。


「それぞれの細胞の性質を持っているならガン細胞の記憶をなくして普通の細胞として更正してほしいみたいな気持ちになりました」


まったくそのとおりである。ぼくはよく、がん細胞をチンピラとかヤクザ、マフィアに例えるのだが、彼らを真人間に戻す方法は無いのだろうか?


この発想をおおまじめにすすめて、がん治療に活用できないだろうかと考えている研究者は実際に世界中にいる。ただ、あらゆるがんに「更正」が有効ではないようだ。というかそもそも多くのがんは「更正するには悪事をおかしすぎてしまっている」のである。映画の終盤、更正した悪人が結局死んでしまうシーンを思い出して涙する。レオン一度しか見てないのに覚えてるな。


がんが「悪事をおかしまくっている」というのはどういうことか。これをもうちょっと科学的に書くと、「がんの持っているDNAは異常だらけ」となる。よく、DNAの変異によってがんになる、という言葉があるのだけれど、がん細胞というのはDNAが1,2個変異したようなナマッチョロイものではない。


がん細胞には、少なくても20箇所、多ければ100箇所以上のDNA異常、すなわち「目に見えてやばいプログラムエラー」が存在する。ちいさなミスを入れれば限りない。


一度カンチョーをした小学生を不良とは呼ばないだろう、先生ときちんと話し合えば十分真人間に戻れる。しかし、リーゼントモヒカンにチェーンのついた財布と短ランボンタン、タバコ3本を同時に加えて両手にサバイバルナイフをぶらさげ、マリファナとコカインとハッピーターンを同時に吸引しながら書店で万引きをする高校生がいたらこいつはさすがに更正不可能ではないかと考える。もちろんこれが1名だけだったら児童相談所に連れて行くなり鑑別所に行くなりして一人の人間としての人生をもういちど考えてみようぜと説得するところだが、150万人いたらどうか? おそらくトランプ大統領ではなくても空爆を考えると思う。


そう、がん細胞というのは、異常を数多くもち、徒党を組んでいる。だから薬や放射線などをうまく用いて更正するというのが非常に難しいのである。


ただ研究者というのはあきらめがわるい。完全にマフィア化したがんについては、更正という手段はほとんどあきらめムードなのだけれども、「まだがんになる前の細胞」の、「悪事を起こす予兆」みたいなものだったらなんとか更正できないだろうか? と考えている人はいる。


それはたとえばDNAの異常そのものではなく、その異常を引き起こしがちな「DNAのメチル化」と呼ばれる、DNAの周辺にある異常を人為的に元に戻せないか、みたいな研究だ。まどろっこしいね。言ってみれば、高校生の男のコは多感な時期だけどまだまともなカッコウをしている、しかしその家ではしょっちゅうテレビでVシネマがかかっていて、毎日暴力・淫靡・R-150指定くらいのヤバヤバ動画が放送されている、となるとこれはいずれ高校生もぐれるかもしれないだろう。そういうときに、「テレビ消しましょうねー」と指導を入れる、みたいなイメージだ。


えっこれ難しいんじゃない? と思っていただきたい。その直感は重要である。なにせ、この高校生の周りの家にも多くの住人がいて、彼らもまたテレビを見るのだ。ただしみんなが見ているのはイッテQだったり復活した徳井だったり、あるいはテレビではなくYouTubeやネトフリであったりするのだけれど、町内放送で「お前ら全員テレビ消せ」とやるわけにはいかないだろう。そう、がん細胞の周りには通常の細胞がいるので、これらをまとめて調整しようとするとなかなか大変なのである。


ただそれでも、マフィア化したアホどもを真人間に戻すよりは可能性がある。このため今の日本では、「エピジェネティクス」とよばれる、DNAそのものの異常ではなくてその前段階、あるいは周辺にある情報の異常についての解析がとても進んでいるのである。

2020年10月22日木曜日

じりじりと溜めている

先日先輩と「いんよう!」(ポッドキャスト)で話していたことなのだけれど、先輩は何か文章を書くときにプロット的なものをあらかじめ決めておくそうだ。そうしないと途中で話がうまく転がらなくなる、とのこと。

それに対して、ぼくはとにかく一行目を置き、そこに連結させて書くタイプの書き方をする。

たとえばこのブログは完全にそうだ。具体的に言うと、今日の記事もそうだ。頭の中に何も無い状態から、先ほどたまたま「じりじりと溜めている」という文章がポンと出てきて、同時に、言語になっていないモヤモヤとしたものの手触りが浮かんだ。こういうことが一日の中に何度かある。で、そのとき偶然PCの前にいれば、ああこれはブログでいけるやつだな、とわかるので、浮かんだ10文字程度の謎フレーズ+モヤモヤの感触から「連想」される文字を、何も書かれていないブログ記事入力欄にキータッチする。今日はそれがたまたま

「先日先輩といんよう!で話していたこと」

だった。

この書き出しは、さきほどの「じりじりと溜めている」や「モヤモヤ」とは一見つながらないように思われるかもしれないが、ぼくの脳内ではシナプスの連携のふんいきが近い。たぶん似た場所で駆動している。もう人には説明しづらいんだけれど、ぼくの中ではなんとなくわかる。だってぼくの脳だから。

フッと連想されたフレーズに、カギカッコをつけてカッコをつけて、文章的な体裁を整えているうちに、あ、やっぱ書けそうだな、という気持ちになって、次の文章を連想ゲーム的につなげる作業に入る。

「先日先輩と「いんよう!」(ポッドキャスト)で話していたこと なのだけれど、先輩は何か文章を書くときにプロット的なものを」

このあたりで実は思考がスパークしており、モヤモヤが目の前で無数に凝集して、集まった点が全部光って言葉やフレーズになって具現化して、地面にポトポトとおちる。モヤが雲になってあられが降って地面に積もっていくかんじ。霧のつぶひとつひとつがエピソードや単語になったら、思考のピントをそのつぶつぶに順番に合わせていく。手に取れそうなものをゆっくり組み立てていくと文章になるし、モヤモヤ全体をぼんやり見通すと文章のオチもなんとなくわかる。今日の場合、「じりじりと溜めている」というフレーズと「先日先輩と」が先に結晶したあられであり、これらを見て、ああそうか、ぼくは今日、文章の書き方についての話を言語化するのだな、と俯瞰して納得する。この時点で今日の記事を作る部品の一覧はだいたい思い浮かんでいる。ただし、構成はまだ思い浮かばない。

構成が思い浮かぶということは目次が思い浮かぶということだ。商業的な文章を書くときは、とりあえず一行目を書いて、イメージが具現化してあられが降り出したら、その時点でいったん文章を作る手を止めて、目次を作る。

あるいは、この段階で編集者に目次を与えてもらうこともある。というか最近書いた本は基本的にそうやって作っている。ぼくの中でひそかにモヤモヤがあられになった時点で編集者と本の雰囲気を相談し、目次をもらって、あられの中から使えそうなものを拾って組み立てると一冊の本になる。そうやって作った本はもはやぼくの単独作品ではないが、多くの人に読まれることを意識してきたプロの編集者が作った目次は必ずいい本に結実する。



本格的に書く前に目次を作るってのは、「あらかじめ何を書くかを決めてから書き始める」ことと同じじゃないの、と思われるかもしれない。

けれどもぼくの中では微妙に違う。とにかく最初の一行やワンフレーズが唐突に出てこないと、そこからつなげていくという感覚がないと、ぼくは本能的に……というか嗜好性として自分の書いた物に飽きてしまうのだ。

執筆中に思考の衝突がない文章を書きたくない。あらかじめ文章の展開を完全に考えてしまうと、それはもう書かなくてはいいではないか、と思う。だってぼくの中では結論して解決してしまったのだから。プロットが練られすぎたものを書こうと思ったことが何度かある、たとえばそれはSNS医療のカタチのnoteなどで一度やろうと思った。しかし、執筆のモチベーションが急激に低下して途中で消してしまった。「展開が完全には決まっていない文章」じゃないと、楽しく書けない。楽しく書けないものは続かない。もちろんあくまでこれはぼくの場合ではある。世の中にはぼくじゃない人のほうが多い。

むかし、「ミシシッピー殺人事件」というゲームがあって、非常に難易度が高く理不尽なクソゲーだったのだけれど、あのゲームでは登場人物に話を聞いた後、なんかよくわからなかったなーと思ってもう一度尋ねると「さっきはなしましたよ」「もういいました」とにべもなく断られ、重要な情報が二度と手に入らない。なんてひどいゲームなんだ、と笑ってしまうわけだが、実際ぼくの脳というのはしょっちゅう「さっきはなしましたよ」「もういいました」「けつろんはでました」「それはもうすんだはなしです」と言う。ヘンな話だが自分の思考相手に自分の脳がそう語る。先が見えた話をそれ以上深掘りしているひまがあったら、まだ見ぬモヤモヤを言語化するほうに脳のリソースを使いたい。究極的には本能のレベルの話をしており、ここはおそらくなかなか変えようがない。

おそらくぼくの文章というのは、エッセイはおろか教科書や論文を含むあらゆる学術的な文章もすべて、誰よりも自分のモヤモヤを解決するため、自分のために書いているごく私的な日記の延長に過ぎない。だから仮に今の病理医という仕事をやめてしまうと、文章だけでは食っていけないだろう。「誰かがよろこんで読むために」「誰かがくるしんで読むために」「誰かがにやりとしながら読むために」「誰かがぐっと考え込むために」書く文章には、もっと丁寧で重厚な計算と下準備、やさしさ、ふんばる力があったほうがいい。プロットをきちんと汲んで、「こうお膳立てをすればあなたにはこの豊潤な世界がすべて伝わるのではないか」と考える作家の仕事を、ぼくは心から尊敬している。「ああ、そうやってあなたのすばらしい脳内風景をぼくに見せてくれたんですね」と、おかざき真里先生とか恵三朗先生とか、ああマンガ家ってみんなそうなんだよな、きりがない、作家もエッセイストも哲学者もみんなほんとうに字の一画一画にまで魂が籠もっていて感動してしまう、一方のぼくはやはり作家ではない。仕事として文章を書いているかどうかとは関係なく、性根の部分がどうしても、「自分のモヤモヤのためにだけ文章を書いている」。



田中泰延さんの「読みたいことを、書けばいい。」という名著があり、自分もまったくこれをやるべきだなと感心した。しかし、ぼくの場合はさらにもう少しひねくれてしまっている。自分が書きあげたものは、すでに自分の中のモヤモヤが文章になっている、文章化することに成功したプロダクトなので、できあがった瞬間からもはや読みたくない。ぼくは自分の書いたものをあとから見直すのが好きじゃない。執筆中は、「こんなことが書いてあったらぼくなら読みたくなるだろうな」と思って書いている、それは確かなのだ、その意味では「読みたいことを、書けばいい。」の精神をがんばって突き詰めているのだけれど、「心の中にあって読み解きたいけれど読めない状態のものを、読める状態にするために書く」こと自体が目的だったため、書き終わったら別にもう読まなくていいやと思う。だってそのはなしは、「もういいました」。





頭の中で言語化されていないモヤモヤを溜めている。じりじりと溜めている。言語化された順番にぼくに飽きられていく。だからとにかくモヤモヤを溜めておく。ときおりそこからポンと生まれてくるフレーズがあり、そのフレーズに手を出せば芋づる式に、「先日先輩と」みたいな単語がボロボロボロボロ具現化して、それらをつなぎあわせていくと文章になり、書き終わって、飽きて、次のモヤモヤを探す。じりじりと溜めているから、まだ書ける。じりじりと溜めている。能動的に? いや、中動態的に。じりじりと溜めらさっている。一行目を書くとスッと出て行く。便秘に浣腸みたいなもんだ、と、後藤隊長は言った。なんだこれ浣腸か。