2021年2月26日金曜日

文字にしチャッター

対面での相談が減ったことをいいことに、メールやSlackで案件を終わらせるようにしたら、毎日が楽でしょうがない。学会のエラい人たちや、学術の仲間たち、そして編集者と直接会う意味は、少なくともぼくの仕事の場合には、ほとんどなかったんだ。それがよくわかった。


ちなみに、昨年手がけた仕事は増えた(確定申告したらわかった)。年間30回以上やっていた対外講演が4回くらいまで激減したのに仕事の総量が増えている、すなわち、ぼくは人前に出ない仕事のほうが得意で、しかも数をこなせる、ということである。


こういうことを言うと、いわゆるクリエイティブな人たちや、いわゆる飲みにケーションの人たちから、


「会って話すのとメールとではぜんぜん違うよ。」


「Zoomでも伝わらないものがあるよ。対面じゃなければ届かない気持ちがあるんだ。」


と言われるのだけれど、はいはい、そこは全く同意見です、そして、


「会ってちゃ終わらない仕事もあるんだよ。」


「文章のみで磨いていく気持ちもあるんだよ。」


としか思わない。多様性を確保してほしい。サステナブルな社会を目指して欲しい。ぼくはこっちのほうが向いていた、あなたとは違って、ということなのであった。





どっちが正しい、という判断のない世界でやっている。何につけてもだ。正義は視座によって変わるし、未来は過去と切り離せず、正解は水墨画のように解釈すべきものである。


二項対立のおままごとに飽きた人から順番に大人になる。そして、この世界は、子どものまま暮らしていくだけの権利をみんなに認めているのである。





話は変わるがSNS医療のカタチという活動について、先日、大塚たちと話していて、ぼくは急に目標を思い付いた。この活動、終わりなく、ゴールなく、無限に続けていくことも不可能ではないのだけれど、なんというか、ぼくにとってはわかりやすい達成目標がほしいなとかねてから考えていたのだ。それがどういうものかというのをここに書くためには、もう少し文章だけで練り上げる必要があるのだけれど、なぜなら、このアイディアは、人前でしゃべっているときに思い付いたものであって、ぼくの脳から出てくるものはいつだって、会話なんていうやりとりだけでは内部のサイトケラチンが足りないのである。文章で練らなければいけない。文章で磨かなければいけない。文字の中で研ぐ。そうしないとぼくは、何につけても、全力を出せない気がするのである。さあ、このあととある作家とZoomで対談する仕事がある。いっそチャットだったら楽しかったのに。

2021年2月25日木曜日

病理の話(508) かさぶたの下

かさぶたなんてしばらく見ていないなあ。


自分の手や膝には。


まあそれだけ慎重に日々を暮らすようになったということか。


外でギャンギャン遊んでるわけでもないしなあ。




かさぶたができて、しばらく経って、きちんと乾いたかな、くらいのタイミングでエイッと剥がすと、痛い。


だからそっと剥がそう(※真似しないでください)。


すると、かさぶたの下に、赤い肉っぽいものが見えてくる。一瞬。


次の一瞬で、ジワァー! って血がにじんできて、あっごめんごめんやっぱいまのなし、ってかさぶたを元に……は戻せないんだよね。かさぶたって剥がすともうフタにはなんねぇんだよな。ポロポロになっちゃうから。




で、この、「ジワァー!」を経験したことがない人には一切伝わらないんだけど、「ジワァー!」があるってことは、すごい繊細な血管がいっぱいそこにあるってことなのね。


その血管は何をしているのかというと、傷ができた場所に栄養を運んで、傷を治そうとするための……言ってみれば、土木の現場に資材を運ぶ専用道路みたいなものなわけ。


傷なんてものは、体の都合とは関係なく、いきなりてきとうな場所に穴をあけてね、それまであったものをなくしてしまうものでしょう。たかだか1cmとか5mmの範囲であってもだよ。そこにはもともと、皮膚とか、皮下組織みたいなものがあったわけ。それがふっとんでなくなっているから、いずれ穴埋めをしなきゃいけないんだよね。


でも、体を構成する細胞ってのは、そんな数秒とか数分で欠損を補充してくれるほど敏捷ではないわけよ。そもそも他の場所にいる細胞だってみんな忙しいんだ。急にあそこのプロジェクトに穴が空いたからって隣の部署から人連れてこられるわけもないのよ。隣だって仕事してるんだから。


というわけで、まず、穴があいたら、「かさぶた」を作ることを優先するのよ。これはもろいよ。でも穴をふさぐことはできる。汚れが外からやってくることを防がないとね。


で、かさぶたを作ったら、その下の部分は、なるべく穴を引き寄せるようにして、穴をなかったことにしないと、あぶないでしょう。


引きつれさせるわけだよ。そこに穴がないかのように。


だからそこに「線維」を増やすんだね。線維ってのは「繊維」とは違うよ。読みはどっちも「せんい」だけど、「膠原線維(こうげんせんい)」は、穴を埋めたり引きつれさせたりする効果がある。


で、膠原線維の元になる細胞をそこに連れて行って、がんばって線維で穴埋めをして、引きつれさせて、ひとまず穴をふさぐ。同時に、血管を大量に配置して、栄養をたくさん運べるようにしておいて、そこからゆっくりと、穴の部分を埋めるための細胞を作っていく。


この、「穴埋め中です」という工事現場が、かさぶたをとったときに下に見えてくるあの赤っぽい肉みたいなやつ。すぐに「ジワァー!」と血がにじむやつ。


肉芽(にくげ)という。


肉芽は、瘢痕修復が終わると、体に吸収されて消えるようにできている。傷がきれいに消えるときなんてのは、肉芽がいったんできて、その後の修復がすべてとどこおりなく終わったときのことだ。


でも、肉芽を作ってもうまく元通りには治せないこともけっこうある。そういうときは、傷跡がひきつれとなって残ってしまうわけだ。


どういうときに傷がきれいになおるか、あるいはどういうときに痕が残るかを、ずっと真剣に考えている人たちもいる。たとえば、外科医。そして、形成外科医と呼ばれるエキスパートたち。けっこうマニアックで、めちゃくちゃおもしろいことをやっているぞ。その話はいずれまた。

2021年2月24日水曜日

ずくめ

 威力業務妨害的な案件の相談に乗っていて少々疲れた。理不尽なことは世のあちこちに転がっている。


「身に覚えはないんですよね? 潔白ってことでいいんですよね? 我々は堂々とあなたを守っていいんですよね?」


と、たずねられるほうも、そしてたずねるほうも哀れだと思う。


凪いだまま暮らせない。ぼくらは情報の海に生きている。





昨年の秋に買ったサボテンは、冬になってから一度もつぼみをつけない。それまでは何度も花を咲かせていた。パッと見では今も元気にトゲトゲしており緑もみずみずしいが、花を咲かせないということはやはりどこか消沈してはいるのだと思う。サボテンがサボテンであるからと言って元気満タンであるとは限らない。さぼってんのかもしれない。




Zoom会議が増えたことはいいことばかりだが、いいことずくめとまでは言えない。ばかりとずくめの差というものはある。さしあたって問題点をひとつ挙げる。みんな、メールで済む案件をZoomでやろうとしていないか? もっと文章を練って、もっと一往復で相談が終わるように命題をわかりやすく立てて。そうすればいちいちほかの用件をスリープさせてモニタに向き合わなくても済むのだ。没入してから放つ文章のほうが情報量は多い。「メールでは伝わらないので……」みたいなことを言う人は、ぼくが文章に対して向かい合う気を削いでしまう。Zoom会議ばかりの企画から出てきた文章はどことなく表面がつるつるとしていて、最初の数行を読み終わるとあとはなんだかもう「なるようになっている」。衝突が足りないと感じる。摩擦が足りないと感じる。





冬靴は一昨年の秋に13000円出して買った高級品だ。モッコモコしている。3月までバリバリ働くはずだった。今年の札幌は雪が解けるのが早く、なんだかもう、夏の革靴でもいけるんじゃないかと思わせる日がある。もちろんまだまだ雪は残っているのでこのモコモコを履いて悪いことは何一つない。悪いことは何一つないが、いいことずくめとまでは言えない。早くいろいろ身軽になりたいものだ。それは靴ひとつとっても言えることである。

2021年2月22日月曜日

病理の話(507) くり返し積み重ね

できた。教科書ができた。第3校を戻し終わって、あとは編集部で整えてもらえば完成である。


ほんとうに細かくお手入れしてもらった。多数の校閲、校正をお願いした。よかったよかった。これは自信作である。そのうち金芳堂から出ます。





さっきまでその教科書の「索引項目拾い」をやっていた。今回の教科書は通読できるタイプの本なのだけれど、担当編集の方が


「この本には索引が似合うと思います。」


と言い、ぼくも全くその通りだと思った。だからがんばって項目を拾った。


複数のページで言及した言葉はいやでも目に入る。


「病理」(※病理の教科書なのだからあたりまえである)、


「言語化」(※これが本書のキモだ。索引には抽出しなかった)、


そして「くり返し」と「積み重ね」である。




「くり返し」と「積み重ね」が、くり返し出てくるような本を書きたかった。なぜならば、診断とはまさにくり返しだからである。


たった一度の検査でシロだクロだと言わない。


黙って座ればぴたりと当たる、みたいな診断はしない。


そこにがん細胞が見えたからがんです、だけで診断という行為は終わらない。


病理医は臨床医とバトンを互いに受け渡ししながら、診断という行為を何度も何度もくり返す。一人の患者に対して、あるいは、複数の患者に対して、同じ事を、あるいは違うことを、くり返し、積み重ねていく。


そうやって確度を高めていくのだ、ということを一冊使って書きたかった。





今回の本は完全に医学生向けであり、いちおう初期研修医は読めるし、後期研修医もまあまあ読める。指導医クラスになるとちょっとつらいかもしれない。病理医は全員読めるだろう。読もうと思うかどうかはともかくとして。


なぜこの順番なのかは「序章」に記しておいた。端的に言うと、この中では医学生が一番頭がいいからだ。いや、別にこれは、煽りとかおべっかなどではなくて、ぼくの意図の範囲においては、事実である。そのあたりは今日は書かないことにする。





思えばこのブログでも同じ事を何度も何度もくり返し記載して、積み重ねばかりしている。


そういうことなんだよな、と思う。

2021年2月19日金曜日

山の神の感覚

今、このブログに数行の文章をぱたぱたと入力していた。ところが途中で爪が伸びているのが気になり、モニタから目を話して、爪を切ってから視線を戻したら、自分がついさっきまで入力していた文章が気に入らず、すべて消してしまった。


爪を切って戻ってきたときには、視点が接写から俯瞰に戻ったかのような感覚になっていた。中国四川省にあるような、切り立った尾根と尾根のはざまに通った隘路を抜けるように慎重に言葉を紡いでいたつもりだったのだけれど、いったん上空に意識を飛ばしてしまうと、再び谷間に降りていこうと思っても、もうその深い渓谷のどこから歩みを再開すればいいのかよくわからなくなってしまった。


いったん「没入」したら、ある程度の時間はそのままでいなければだめだ。


「ふと冷静になる」のがあまり早いといけない。


ズームアップからロングショットのモードに戻るのが早すぎるといけない。


もちろん、いつまでもいつまでも狭い一人称の視野に凝り固まっていては文章がアンバランスになっていくばかりなので、どこかのタイミングで自分の書いたものを三人称視点で眺めなければいけないのだけれど、最初から三人称だとぼくはうまく文章が書けない。序盤、ある程度までは勢いで突き進まないと、その後安定走行に達することができない。




書く前から全体像がぼんやりと見えているような文章を書くのが苦手だ。学術論文のようにゴリゴリのお作法がある文章だとまだいけるのだけれど、エッセイテイストのブログなどを書くときに、「よし、このオチで決めよう」と書く前に思いついてしまうようだと、その文章はもう産まれてこない。書く前に筆が折れる。「このあと自分の指はどこにたどり着くのだろう」という心地よい不安がないと、第1区~第3区くらいでぼくは文章に飽きる。理想をいうと第5区の山登りの時点で「あ、ここを登ってここを下るのか」がようやくわかる、くらいがいい。そうすると、復路第6区の山下りで自分の文章がどんどん加速していって、第8区くらいでさらにサプライズが待っていたりして、ゴールの大手門付近では笑顔になれる。




序盤きちんと熱中して没入するということ。


中盤、自分できちんと驚くということ。


後半、きれいに風呂敷をたたむために、弱拡大視野と強拡大視野とをこまめに切り替えるということ。




これらがうまくいっているときは、だいたい、自分が気に入る文章ができあがる。さほどいっぱい経験してきたわけではないが、今後いっぱい経験できたらいいなということをいつも思う。

2021年2月18日木曜日

病理の話(506) 分化の方向性

「細胞」……というとみなさんは何を思い浮かべるのだろうか。


鉄道員にとっての「車両」、パティシエにとっての「スポンジ」、アナウンサーにとっての「原稿」並みに、病理医にとっての「細胞」は業務のど真ん中にある。だから世間一般のニュートラルな印象というものをすっかり忘れてしまっているけれど、がんばってちょっと思い出してみよう。


・ちっちゃい


・まるい


・ある


・なんか動く(?)


・同心円みたいな絵で描かれる(?)


このあたりが世間の認識ではなかろうか。




あるいは、義務教育の理科で習う「単細胞生物」あたりを思い出して、ゾウリムシの図をもって「細胞ってだいたいあんな感じだろうな」とイメージする人もいるかもしれない。アメーバとか。ミジンコとか。(※ミジンコは多細胞生物です!!)




では、われわれ病理医にとって「細胞」という文字列がどのように見えているかというと……これは「初期アバター」である。


ゲームで自分が使うキャラクタの顔を、できあいのパーツから選んで自分好みに設定するとき、最初は通り一遍の髪型、わかりやすい目鼻、シンプルなメガネくらいしか選べないし、体はTシャツ、下はハーフパンツみたいなのしか履かせてもらえない。こんな「素材そのままの人間」、探してもなかなかいないよね、という薄味のキャラクタ。


病理医が「細胞」という単語だけを見たときのイメージはまさに、「まだ何物になるかもわからない、初期アバター」である。


「え、細胞はいいけどさ、どんな細胞?」


こう聞いてみないと、話が広がっていかないのだ。





アバターの例えをそのまま続けよう。ゲームを進めていくと、プレイヤーはアイテムを手にする。それは帽子であったり、ちょっと特殊な髪型であったり、ワイシャツやジャケット、ブルゾンなど、「見た目を華やかにし、キャラがどういう性格なのかを色づけるオシャレ」が手に入るのだ。


手に持たせる道具も増やすことができる。


ソードやシールドのたぐい。マシンガン。あるいはフライパン。辞書を持たせるパターンもあるだろう。


アバターがさまざまな装備を増やしていくことで、初期アバターの没個性さはなくなっていき、だんだんと、その人オリジナルのキャラクタが完成する。




細胞もいっしょなのだ。無垢なちっちゃいマルのままでは存在しない。


たとえば、表面に繊毛(せんもう)と呼ばれる毛を生やしてみたり、細胞の内部に大量のミトコンドリアをため込んでみたり、粘液という便利物質を作ってみたりする。


あるいは、細胞の内部に「つっかえ棒」を大量に作って、自分の体を内側から強化し、ほかの細胞とガッチガチに手を結ぶことで、サッカーのフリーキックで守備側がやるような「壁」を作ったりもする。


みんなできれいに整列して、足にすべりどめを装着し、頭の上に手を伸ばして、サッカースタンドの観客が応援の横断幕をきれいにひろげるように、みんなでウワーッと頭上の物体を手渡ししていくようなこともする。




細胞がさまざまな道具を手にして装備を充実させることを、医学用語で「分化」という。


手分けするために化ける、というわけだ。


病理医が細胞を観察するときには、細胞がどのように分化しているかを瞬時に、かつ、念入りに判断する(この両方をやるのが難しい)。


分化の方向性がわかれば、その細胞が「どういう気持ちでそこにいるのか」を推しはかることができ、ひいては、病気を構成する細胞の「わるだくみ」をも見抜くことにつながるのである。ま、細胞なんて、何考えてるんだかわかったものではないですけれどもね。

2021年2月17日水曜日

ハイファイの闇

仕事中に脳内に流れるテーマ曲みたいなものが昔はけっこうあった。


けど、いまは思い付かない。


朝起きて、ご飯を食べているときとか、身支度をしているときなどには、けっこう脳内でかかる曲が決まっている。


車に乗るときも、誰も居ない院内を歩いているときも、デスクのまわりのあかりを付けるときも、ある程度曲が決まっている。


でも、仕事がはじまると音楽が止まる。





CPUに負担をかけないためなのかもしれない。

よけいなアプリをぜんぶ落としているのかもしれない。

息継ぎをするようにTwitterの画面を覗き込むときには音が帰ってくる。

けど顕微鏡の中は静かであるし、Twitterの外は凪いでいる。




デフォルトモードネットワークは雑音に満ちていて、ざらついたノイズを消すためにぼくは自然とバックグラウンドミュージックでうやむやにしようとしているのだろう。





ちょっとまえにTwitterで、おそらくはシャープがつぶやいていて、その後beipanaさんという人もフォローして知ったURLで、これはけっこう有名なので知っている人も多いと思うのだが、




仕事中、いちおうこういうものを流してはいることもある。

どうにも集中できないときだ。

この音楽がだんだん聞こえなくなってくることを目指して、脳の整列をすすめていく。すると、沈黙の向こうで知性が手招きをする。