2021年5月31日月曜日

リアルを大事にしたいので

ウェブで学会に出たあと、帰宅しながら別の研究会の幹事会議に耳だけで参加する。役員交代が終わり法人化に向けて進んでいる気鋭の研究会は議題が多く、家についてもまだスマホからは激しい議論が聞こえていた。スーツを脱いでジャージに着替えて、イヤホンをスマホに挿す。イヤホンにはクリップがついていて、前屈みになっても目の前にケーブルが垂れ下がってこないように服に留めることができる。空を見ると、ぎりぎりガマンしているという雰囲気。ぼくは会議を聞きながら草むしりをはじめた。3週間放置してあったから、あちこち伸び放題だったのだ。


会議の中ではぼくも何度か発言しなければいけない。この研究会はこれから多くの他業種にアプローチする必要があるので、Twitterを用いた公報に力を入れたいのだそうだ。会の代表から声がかかる。「公報、SNSについては市原先生が大変お詳しいと思うのですがいかがでしょうか?」ぼくはこのときのために考えてきた言葉を口に出す。


「末端の小間使いとして何でもさせていただきますので、事務的な作業についてはおまかせください。ただし、できれば多くの偉い先生がたに、ツイートの内容をときおりチェックしていただき、方向修正をお願いできればと存じます」


すると「偉い先生」の一人が泣き言のように言った。


「申し訳ないんですが、今年から来年にかけて学会が目白押しで、ほとんどお役に立てないかと思うのですけれども……」


そこで準備済みの原稿(第2幕)を差し込む。


「はい、○○先生は、もうぜんぜん、大丈夫です、細かい仕事はこちらでやっておきますので、お手は一切煩わせませんので、ときおりSlackとかGoogle documentとかで、チラッとみて気になったところで『そこは市原はちょっとやりすぎなんじゃないの?』の一言をかけていただけるくらいでもうぜんぜん大丈夫です」


偉い委員は笑う。「そういうのは得意です」。そうして会議は先に進んでいく。ぼくが律速段階になってはいけないということをずっと考えている。




草むしりが終わって家に入り、横になって本を読んでいたらいつしか眠ってしまった。夕方に目が覚めて、今日は晩飯を「外食」にしようと思っていたんだったなと気づいて、かねてよりマークしていたテイクアウト専門店をググってメニューを見る。「外で買うご飯」のことを外食と呼ぶようになって1年が経つ。やや高めにも見えるが、この揚げ物はおそらくそれなりのサイズがあるのだろう。電話で予約して取りに行けば早いのだろうけれど、現物をきちんと見てみたいという思いもあって、店に直接行ってみることにした。テイクアウト専門店の店頭で注文し、車の中でできるのを待つ、これなら三密回避は達成できるだろう。もう長いことそうやっている。最後に店の中で「座った」のがいつだったのか思い出せない。


車を飛ばして店にたどり着いた。UBER eatsとペイペイのロゴが貼ってある、お弁当屋を思わせる店内には男性の厨房担当者と女性のバイトらしき人がいて、でも女性も何やら揚げ物をしているときがあり、分業が完全に行われているわけではないようだった。注文は女性がとってくれた。お決まりになったらご注文をどうぞ。メガネが大きい。空気がたっぷり入ったボブ。そして大きめのマスク。この顔をアイコンにしたら顔の地肌部分は2割も目に入ってこない。ゆったりとした大柄の白いワイシャツにゴワゴワ硬そうな白いエプロン的何かを羽織っていて、首から下の白い光が顔に反射して全体的に白くなっている。ぼくは「私立探偵濱マイク」で映画館の受付に座っている井川遥を思い出す。「3種盛りを2つ……ここにある6種類をそれぞれ入れてください」と告げたら井川遥は少し考えて言った。「あ、この大きく書いてある1つがメインのメニューです」。なるほど、ほんとうは7種類あるのだが、1種類がメインすぎてフォントも強調も違っていたためにぼくの目からはかえって外れてしまっていたということを、この井川遥はぼくの注文の仕方からきちんと見抜いて的確に指摘したのだとわかった。すごく頭がいいなと思った。ぼくはこの店が気に入ったし、20年前のぼくだったら確実に目の前の井川遥に恋をしただろうと思った。最近そういうことをまれに考える。過去の自分、もしくは息子だったらこの子のことが好きになったろうな、という回路を整備してそちらに思考の水を流し込むことで、停留、滞留を防ぐような感覚。



車の中で待ちながら、朝からやっていた学会のセッションのことを考えていた。セッションにはディスカッサントがいて、ぼくは会を回す役割をしていた。お題はなんとSNSなのである。時代も変わったなと感じたし、SNS関連のセッションでぼくにでかい役割を渡すこの学会のことが少々心配にもなった。印象的だったのはSNS全般に否定的な考え方を隠そうともしないディスカッサントの一人が思わず漏らした、


「私はリアルを大事にしたいので、SNSはやりませんしテレビもまずみません」


というセリフだった。「SNSをやり、テレビを見ている人は、リアルを大切にしていない」と信じ切っていないとこの言葉は出てこない。ぼくは今おそらくリアルに生きていない人間としてその目に映っているのだろうなと思った。「他人のリアルを想像しきれない人たち」というのは今この瞬間にも地下の至る所で軋む活断層である。


ディスカッサントは、自らをダイノソーに比した。絶滅しかかっていると言えば自虐に聞こえるだろう、それでこの場は収まるだろうと考えているようでもあった。自らを「旧時代の覇者」に例えていることに無自覚なのがおかしかった。おそらくどこまでもぼくはその人の中で殴られ続けるのだろうと思った。「こういう人はこうに違いない」と強固に組み上げられた虚構の外側にぼくの皮膚が塗りたくられ、雑な想像で「SNSに惑溺してリアルをおろそかにする馬鹿者達」という3Dモデルを空間に生成し、それを永久に殴り続けることで、フラストレーションという名のエントロピーが低下し、ある種の「秩序」ができあがって、骨格標本が往時のかたちに組み上がる。博物館でみる恐竜の骨は、往時に思いを馳せるのに役立つが、じつのところ、昔の生き物たちがどういう肌の色をしていて、どういう声で鳴いていたのかを、専門学術のないぼくは想像することが難しい。



井川遥が無料のレジ袋にぱんぱんに詰めた揚げ物を手にしたタイミングで、ぼくは店内に戻る。厨房では流暢な日本語をしゃべる男性が電話で注文を聞いている。ニラやニンニクのにおいは数日ほど車に残るだろうけれど、今日ここに来ていなかったらぼくはきっと悲しくて仕方がなかったろう。笑顔の井川遥に頭を下げて、恐竜ですらないクロマニヨン人は車のイグニッションを回す。

2021年5月28日金曜日

病理の話(539) 言葉の端々に不安が見えたらそれをきちんと指摘する

病理医の仕事のひとつに、臨床検査技師とタッグを組んで、「細胞診(さいぼうしん)」をするというのがある。一般的に「病理診断」と言われるものは組織診(そしきしん)であり、細胞診(さいぼうしん)とは微妙に異なるスキルが要求される。


病理医の中には、組織診(そしきしん)だけをすれば自分の仕事は十分だ、細胞診(さいぼうしん)なんてやりたくない、と言って、細胞診用の資格(細胞診専門医)を取得しないまま働いている人もいる。そういう考え方をぼくは否定こそしないが、かなりもったいないことをしているなあ、という目でみている。魔法使いが、メラ系(炎系)の魔法を覚えているからヒャド系(氷系)の魔法は覚えるつもりがない、と公言しているようなものだからだ。両方覚えていればメドローア(極大消滅呪文)を使えるかもしれないのに。


まあ、細胞診をおろそかにする残念な病理医の話は置いておこう。




細胞診の中で比較的知名度が高いのは、子宮頸がん検診だ。子宮の入り口の部分をブラシ的なものでこすって、そのブラシをガラスプレパラートの上にこすりつけることで、子宮頚部の表面にある細胞をガラス上にばらまく。無数にある細胞を目でチェックする。その中に通常とは異なる細胞が見つかったら要注意だ。それは「異形成」と呼ばれる、がんになりかけている細胞かもしれない。


ガラスの上に大量にくっついている細胞の中から異常な細胞だけを的確に見つけ出すのは、「ウォーリーを探せ」に似た難しさがある。これを担当するのは臨床検査技師、それも、「細胞診検査士」という特別の資格をもった技師たちだ(この資格試験がマジで難しい)。卓越したスキルによって、渋谷のスクランブル交差点の中にまぎれた数人のチンピラをビシッと特定する(※イメージです)。


見つけ出したチンピラが「たしかにがんである」か、「がんになる前の異形成と呼ばれる病変である」か、「がんはがんだが扁平上皮癌ではなく腺癌である」のように、どの種類のワルモノなのかを判定するのも基本的には臨床検査技師の仕事。

ただし、この「ワルモノを分類する」ことについては、臨床検査技師だけではなく病理医も関与する。ひとりで判定することはない。ふたり以上で判断をくだすのだ。それだけ責任が重い行為だと言える。



病理医は「細胞診専門医」として「技師の指導」を行う……ということになっている。しかし、じっさいには、スクリーニングで無数の細胞を日々みている臨床検査技師のほうが、細胞診にかんする感覚・センスは圧倒的に優れている。病理医が横から口を挟むよりも、細胞診検査士の資格をもった技師がきちんと読み切ったほうが基本的な精度は高い。


そこで、現場では、技師が最初から最後まできっちり細胞を見たあと、最後に集合顕微鏡と呼ばれる複数名でいっしょにのぞき込める顕微鏡を用いて、技師と病理医がディスカッションをして診断をくだす。


集合顕微鏡


ここで技師は、自分が見たプレパラートの中にあらかじめ水性ペン(人によっては油性ペン)でマークを打っておき、顕微鏡を自ら動かして、横にいる病理医に「自分が気になった細胞」を見せてプレゼンを行う。


技師「ここですね。背景は比較的きれいなのですが、やや腫大した核と、koilocytosisを示す細胞。核縁にしわがよっており、クロマチンは軽度増えています。N/C比からは表層型の細胞と判断できます。こんな細胞がプレパラートの中にちらほら……」

病理医「はい、いいですね。では診断は」

技師「軽度異形成でよろしいかと思います」

病理医「OK, それで行きましょう」


病理医がやっているのは「はい」とか「OK」と背中を押す仕事だ。ほとんど技師の判断である。しかし、ここで病理医が技師に「応答する」ことには一定の意味がある。

たとえばこういうことがある。



技師「ほとんど……おかしい細胞はありませんでした。ただしこことここ、2箇所だけ。N/C比は高く、クロマチンも増えていて、核膜も不均一に肥厚している細胞が、重積している……ちょっとおかしく……重積している、ように、見えます」

病理医「なるほど」

技師「そしてこちらはもう少し異型が弱いのですが……まあ、似たような……」

病理医「はい。では診断は」

技師「はい。腺癌と診断します」

病理医「……ん???」



病理医は最後に引っかかってしまっている。

技師のプレゼンは、あまり自信がなさそうに聞こえた。細胞診断の過程で、どこがどうおかしいかを技師の言葉で言語化したところ、「ほとんどない」とか「ちょっと」とか「弱い」とか「まあ」といったように、言葉的には「これじゃあがんと決めきれないなあ」という雰囲気がにじんだ。

しかし、最後に病理医に診断を聞かれた技師は、いきなり自信を取り戻して「はい、腺癌です」と言い切ってしまっている。

ここで病理医が待ったをかけることはとても重要だ。

技師が無意識に、心の中で、「強い診断を出すことに躊躇している」のであれば、その躊躇の理由をきちんと言語化してもらわないといけない。


病理医「今の説明を聞いていると、少し自信がない部分もあるのですか?」

技師「そうですね……細胞は間違いなくがんでいいと思うんですけれど……採取されている量が少ないときにはやはり慎重になりますよね」

病理医「では、がんと診断を確定させるのではなく、『がん疑い』にして、もう一度細胞を採ってもらいましょうか?」

技師「いえ、でも、少ないにしても、これだけ様子のおかしい細胞が出現していたら、がんでいいと思うんですよ! 特にこの核小体は異常ですね。これは正常ではまずあり得ない」



会話の中で、技師はだんだん自信を取り戻している。根拠も、だんだん揃ってきている。

病理医「では我々の連帯責任でこれを腺癌と診断しましょう。じつはぼくもこれは腺癌で間違いないと思っています。ただ、あなたの今のプレゼンがやや不安そうだったので確認しました」

技師「はい、腺癌のレポートを書きます」

こういう「ゆらぎ」が起こることは、ままある。診断という強烈な線引き行為(ここからここまでが病気ですよ、と線を引くようなものだ)には、複数人の目と言葉による綱引きが必要だ。


究極的なことをいうと、「迷いを残したままのレポート」を書くこと自体は構わない。主治医や患者から見て、「ああ、これはプロが迷うほど難しいんだな」と感じられればそれは立派な報告用紙である。しかし、「内心迷ってたけどエイヤッって診断しちゃった」はめっちゃくちゃに危ない診断である。ここを見極めるのは病理医の大事な仕事であると思う。


2021年5月27日木曜日

5%の言い訳

「クラファンの宣伝のときだけ出てきてわいわいnote書いてツイートしてRTして、クラファン達成したら引っ込んで二度と出てこない医者アカウント」の是非を考えていたら夜が明けた。それもまた善意なんだろうと結論して是のハンコを捺す。ちかごろは5時を過ぎると世の中が明るくてうれしい。札幌に春が来た。自宅からおおよそナナメに位置する職場まで、碁盤の目に走行する札幌の市街地をジグザグ突き抜けていく無数のルートを、毎日少しずつ変えながら出勤していたが、ここんところ「3回くらいしか信号につかまらないルート」を見つけて出勤がラクになったのでもっぱら同じルートで通勤している。早朝、だれもいない片側二車線道路を法定速度でのろのろと走っていると、横を猛スピードで追い抜いていくアウディやBMWがいて、たまにジープのこともあるのだが外車はなぜ早朝に時速80キロで走りたがるのか? そういう車が800メートル向こうの赤信号で停まっていて横にスッと追いつくとき溜飲が少し下がる。燃え殻さんの『夢に迷って、タクシーを呼んだ』の表紙のイメージが浮かぶ。車の中も外も油絵のインクまみれ。網膜の前後に塗られた色の組んずほぐれつを言語に置き換えることができない猿ぐつわ状態で、ハンドルを指でタンタンはじく。問い詰めたい人たちから問い詰められる場面のことを思う。先日、ある人から、「本を出したところこのような手紙が編集部に届いて」と相談を受けた。そこには著者に対するピントのずれた中傷が書かれており、思わずぼくは使い古された語彙で「交通事故にあったと思って忘れなさい」とアドバイスをしたのだが(交通事故が忘れられるものだろうか?)、最後のところに署名とともに、○○市○○ ○○病院と住所代わりに勤務先が書かれていたのが気になった。検索をかけるとたしかにそのような病院があり医師の名前も見つかるのだが、いまどき病院の名前は書いて科の名前を書かないというのは珍しいなと思った。おそらくこの人は戦前もしくは戦後すぐに医師免許をとったタイプなのだろうと無駄にプロファイリングをする。医療に対する知識をアップデートをできていないのかもしれないと思わせる記述がいくつか見つかる。具体的にどういうことが書いてあったかをここでは言わないが、たとえていうと、ある年齢より上の医師で最近の医学業界を知らない人は、医学博士と博士(医学)とを分けろという、そういう話にこだわる人は一定以上の年代だと見る人が見ればわかる。最近の学位は博士(医学)であって医学博士ではない、と強めに叱責してくる人には複数会ったことがあるしDMでも見たことがある。アカデミアから学問をもって任命されたものの呼称にこだわるのは大変よいことだけれども、近年のアカデミアがそのような呼び分けなどとっくに忘れ去っていることを、各種の学術雑誌や医学書からなぜ読みとらないのかと不思議に思う。Windows WWIIくらいの超絶古いOSで動いていてインターネットに接続しておらず、Windows updateが一切稼働しないまま30年以上ほうっておいているパソコンを見ている気持ち。ファミコンはよかったよな、買ったらそれっきり二度と進化しないソフト、だから何十年経っても同じゲームが遊べるんだ。インストールして半月で飽きたニーアリィンカネーションを10年後にやりたいと思ってももうプレイする方法は残っていないだろう。アップデートの功罪を思い出に沿ってひとり問答していくと、たしかに、齢80を超えた頃には自らの20代の記憶にすがってやっていくしかないのかもな、というエクスキューズに納得してしまいそうになる。それはそれとして、自分の五感で構築した仮想世界を他人の脳に移植するような卑猥な真似をよくできるものだ。平均的な性交の数億倍傲慢である。ここで平均的と書いておかないといけないくらい、世の中は正規分布していて、つまりは中心をはずれた5%の部分がいつも誰かの言い訳に使われる。


信号が青になる直前から外車はじりじりと前に出始める。ここの信号は歩車分離だから、横の信号が赤になっても前の信号はすぐ青にはならないで、かわりに横断歩道が全部青になる。ぼくはそれを知っていて、横の車がフライングで発進しかかっているのを見て、こいつ歩行者信号が青のタイミングでまだ動いてるけど大丈夫かな、と少し気を揉む。横の信号が赤になり、四隅の歩行者信号がすべて青になって、とうぜんすべての車用信号はまだ赤のままなのだけれど、隣の外車は猛スピードで走り去っていった。歩行者が誰もいなくてよかった。早朝なのだから人がいないし、まあ誰も困ってないと言えば困ってないのかもしれないけれど、はみ出ものをスマホで撮影してTwitterで晒すわけでもないぼくは今ここで何かの役に立っているだろうかともう一度ハンドルとタンタンと叩く。

2021年5月26日水曜日

病理の話(538) ガタがくるということ

人間がもっている臓器はすべて「一生モノ」であり、どれもこれも生涯使い続けなければいけない。だから、どうしたってガタがくる。時を経ることで臓器がどれくらいへたるかというのをみなさんに実感してもらいたい。人間の体のパーツは経年劣化する。


さあ、どのパーツの話をしようか。本当は、心臓の話をしたい。


心臓にガタがくるというのは事実だ。ただ、この、「心臓は経年劣化します」って、文字にすると怖すぎる。本能が「そこをあんまり想像してくれるな」と叫んでいる。いきなり心臓の劣化の話を書いて読んでもらうのはハードルが高い気がする。


そこでまずは、もう少しイメージが湧きやすい臓器を使おう。なにかというと、皮膚である(臓器と言うと驚く人もいるが皮膚はたしかに臓器である)。皮膚はわかりやすく経年劣化する。なんてったって、目に見えるからね。


赤ちゃんの肌の、みずみずしいもちもちプリプリ感。水分を豊富にふくみ、組織自体がやわらかくて、傷がついても再生力が強く、色素沈着なども来していない状態。


これが、長年にわたって紫外線をはじめとする外界からの刺激を受けることで、破壊と再生、ターンオーバーをくり返し、少しずつ変化していく。表皮の再生スピードが落ち、真皮内には弾性線維が増えて硬さを増し、毛根の活動周期も落ち、メラノサイトの分布とメラニン産生能力・回収能力にもムラが現れる。


それでも100年「保つ」のがすごいと考えるべきなのだろう。テレビ、冷蔵庫、パソコン、どんな家電でも100年は使えない。自律的に再生できる人間の臓器というのはほんとうにすばらしい力を持っている。


でも、できれば、100年生きてもきれいな肌で居続けたいものだ。皮膚の経年劣化を食い止めることは、審美的にすばらしいことだが、体の健康を保つ上でも大切である。皮膚が元気であれば、小さな傷口から細菌が侵入して感染を引き起こすのを防ぐことができる。


有効なのは紫外線対策である。日焼けをきちんと防ごう!



*



……このように、「皮膚の経年劣化とその予防」はわりとわかりやすく書ける。イメージを喚起しやすい。なんなら、今日のブログが「病理の話」だということを、みんな忘れているのではなかろうか。あんまり医療の話題っぽくない感。

日焼けを防いで皮膚を若いままに保とうという話は、「美容」や「健康」、さらには「日常系」の話題である。病気がどうした、病院がどうしたという、しかめっつらで医者が説教する話ではない。もうちょっと、しとやかで、常識的な感じ。

ところがこれが心臓となると、とたんに「病気」「健診」、さらに「生活習慣病」ということばでくくられはじめる。

しかし話は似ているのだ。皮膚にとっての紫外線予防が、心臓にとっては減塩食や適度な運動にあたる。



「ほらぁー、すぐ医者はそうやって食事と健康のことばかり言う(笑)」



でもさあー皮膚ですら年取るとボロボロになっていくんですよ。毎日バックンバックン動き続けている心臓だってメンテナンスしないとボロボロになるの当たり前じゃん。おでかけのときにUVカットするのと同じように、お食事のときに塩分カットする、それがどれだけ大事かってことなんだよ。



上は日本循環器協会のツイートから借用した。勝手に使うなと怒られたら全力であやまっておもねってなんとか許してもらうのでこのまま使う。

「心不全は4回予防できる」

このキャッチフレーズは強烈だ。いままで「日差しを避けるように塩分を控えて運動をしよう」とキャッキャウフフしゃべってたのに、背中に液体窒素を注ぎ込まれたような気分になる。



「予防」はあなたの人生に役に立つ。「タバコ吸ったってがんにならない人もいるじゃん」という逃げ道を用意して予防をおろそかにする人がいるけれど、長年外で日差しをさんさんあびて働いていた人が、年を取ってなお肌がツヤッツヤなことがどれだけあるだろうか? まずないだろう。経年劣化は止められない。メンテナンスは大事なことだ。




今日の話はこれでおしまいなのだけれど、最後に、最近ぼくが考えていることをひとつ。

「病気の話」ではなく、「日常の話」としてやるべき予防医学こそは、日常にぴったりひっついているツイッターと相性がいいはずなのである。病理医のアカウントが膨大な量のフォロワーを集めている場合ではない。ほんらいは、日焼けを防ごうと呼びかける皮膚科医のアカウントや、食事と運動に気を配って心臓の寿命を延ばそうと呼びかける循環器内科医のアカウントこそが、ぼくの役割にとってかわるべきなのだ。糖尿病内科医とか。腎臓内科医とかね。きみらもっとしっかりしろ。いつまで病理医の後を追いかけているんだ。


日本循環器協会: https://twitter.com/J_Circ_Assoc

2021年5月25日火曜日

編集者の効能

本を買うスピードを落として、かわりに本棚にある分厚い医学の成書を頭から読む時間にあてている。これまで辞書的に使っていた本たちを通読することで、時間がどんどん解けていく。掛け値無しに楽しい。


「ぜんぶ読む楽しみ」をわかってくれる人は多い。実際にやるかどうかはともかく、「ああ、それができたら楽しいかもね」と感じる人はいっぱいいる。ツイッターではどちらかというと「読まずに積んでおく楽しみ」を語る人が多い印象があるが、「隅々まで読む楽しみ」についてももっと語られていいと思う。



学生時代、ハリソン内科学やロビンス基礎病理学を通読するタイプの医学生が周りにいた。じつを言うと、かつてのぼくはそういうのを「うさんくせえなあ」という目で眺めていた。必要な部分を拾い読みすればいいのに、なんでわざわざ、小説でもない教科書を全部読むのだ? 隅々まで読んだというタイプのマウントをとるためだけに本が消費されている、と感じた。


この感覚が今も多少は残っていて、「読み終わるためだけに読む」ことについては自覚的に回避している。ひとつの本にまとまっている内容にいつまでもかかずらっていることは、「ある種の偏り」を産むように思う。本に没頭するとき、人は精神的にも肉体的にも前のめりになるが、それはつまり傾いているというだ。あれもこれもと読んだ方がバランスはとれるし、つんのめることもない。


それでも。


一冊読み通すというのはやはり気分がいい。ある種の背徳に似た快感がある。こんなにひとつの意志に身を委ねてよいなんて、という誘惑。古い記憶にためらいを覚えつつも、端から踏破する楽しみに心を浸す。



医学書をきちんと読み通そうと思ったことにはいくつかのきっかけがあるのだが、その一つはおそらく「編集者たちと知り合った」ことだ。


成書の多くは、章ごとに違う著者が筆を執る。執筆者たちはお互いの原稿すべてに目を通していないことが当たり前だ。しかし、担当編集者だけは、どんなにクソでかい医学書であっても、本の全体を読んでいる。


多くの編集者たちと知り合うに至って、ぼくは編集者たちのように「通読」をしてみたいなと思うようになった。内容の豊穣さはもちろんなのだが、章立ての妙、相異なる執筆者たちをまとめあげる語調、フォント、デザイン……。本を多角的に読めるようになるに連れて、本を隅々まで味わうという「通読の楽しみ」も増した。


医学生にはおすすめできない、彼らには本質的にそのような「本をだらだら楽しむ余裕」がないのだから、マウント目的以外ではなかなか通読なんてしている暇がないだろう。しかしぼくはもう、トウの立った中年だ。娯楽のためだけに医書を読む資格は身につけた。役に立つか立たないか、そんなことを度外視した部分で、何かがぼくの心を細かく振動させてくれる。

2021年5月24日月曜日

病理の話(537) サイコロのイメージ

某看護学校での講義で、学生さんに質問されたことがある。


「先生、何歳からやってたら子宮頸がんになりやすいんですか?」


なかなかパンチのある質問だ。ふつう、「先生」にはあまり用いないタイプの言葉使いである。笑ってしまった。


ぼくは、この人から質問を受ける直前、授業中に、以下のように説明していた。


「子宮がんは、比較的頻度の高いものが2つあります。ひとつは子宮頸がん、もうひとつは子宮体がん。

このうち、子宮頸がんは、ほとんどの場合、ヒトパピローマウイルス(HPV)というウイルスによって引き起こされます。HPVは主に性交渉によって感染するウイルスです。

したがって、比較的若年のころから性交渉歴があり、しかも複数の相手と性交渉をくり返していると、HPVに感染するリスクが高まり、結果として子宮頸がんを発症するリスクも上がっていくと考えられます。

だからHPVワクチンは性交渉を開始する前の年齢で、若いうちに打ったほうが効果的だと言われています。

もっとも、現在のデータでは、20代であっても30代であっても、性交渉をしたあとでも、ワクチンを打った方がメリットが大きいとする意見が強くなっていますけどね。みなさん(※看護学生)も、ぼくの話を聞いたらなるべくワクチンを打つようにしてください。最近になって多くのデータが出そろい、大きな声で『打った方がいいです。』と言えるようになりました。まあ、今までも小さな声では言っていたのですが……」



この話をうけての、「先生、何歳からやってたら子宮頸がんになりやすいんですか?」である。じつにクリアな質問だと思う。


ぼくは「リスクが上がっていく」という話をしているのだが、学生さんは、「どこかに目安となる年齢がある」と感じたわけだ。○歳より前に性交渉をすると子宮頸がんになりやすく、○歳より後ならならない……のように。


で、ぼくは追加で、以下のような話をした。



「○歳まで待てば大丈夫、みたいな話は言いにくいんですよ。がんに限らないんですが、あらゆる病気は、原因がはっきりひとつに決まっているんじゃなくて、複数の原因の併せ技と、あと……言い方は悪いですが、『運』によって発生するんです。


イメージとしては、面が10万個くらいあるサイコロを毎日振り続けて、『はずれ』と書いてある目が出たら、がんに向かって一歩近づく、みたいなかんじ。


『はずれ』と書いてある面の数は、10万ある面のなかで、2,3個くらいなんですよ。ふつう、めったなことでは出ませんね。でも、人間の体の中にはとんでもない数の細胞があるし、これらが一斉にサイコロをえんえんと振っている。だから、いつかははずれが出ます。


でも、はずれが出ても、それがイコール『命をおびやかすがん』につながるかというと、そうではない。がんの三歩手前にたどりつく、くらいなんです。確実ながんになるには、まだまだ、サイコロを振り続けて『はずれ』が蓄積する必要がある。


いよいよ、めったなことでは起こらないなあ、と思ってほしいんです。


じっさい、世の中にいる人の大半は、長い人生の中で1回くらいしかがんになりませんし、まったくならない人もいます。まあ、2回、3回とがんになる人もいますけれど。


ただ、このサイコロ、『はずれ』の面の数が一定ではないんですよ。とった行動によって、増えたり減ったりする。


HPVに感染すると、子宮頸部の細胞がもっているサイコロについては、はずれの数がぐんと増えます。


すると、サイコロを振るたびに、はずれが出る可能性がちょっと上がる。


もちろん、サイコロにはほかにも目がいっぱいあるんで、2個あったはずれが10個になったくらいでは、まだまだ、はずれが出ることはめったにないでしょう。


でも、はずれの面が増えたサイコロを長く振り続ければ振り続けるほど、いつかはずれにたどり着く可能性は上がりますよね。


それが、『若くしてHPVに感染すること』の、ほんとうの意味です。


○歳より早くHPVに感染すると絶対に子宮頸がんになる、なんてことはない。ただ、若いときに感染すると、それだけ多くサイコロを振ることになるよ、ということなんです。」



この話を説明しながらぼくが内心考えていたのは、それでも、「性交渉自体を悪だと思わないでほしいな」ってことと、「全身の細胞がふるサイコロの『はずれ』をバカみたいに増やすのってタバコだよな」ってこと。


まあそういう話もいつかするだろうな、と思いながら、授業をすすめた。学生と向き合う時間はたっぷりあるのである。

2021年5月21日金曜日

気持ち悪くない700

ブログのアクセス数は、はじめたときからほとんど変わらない。少ない日で1日700人(ユニークユーザー)、多めの日で1日900人。ぼく以外の誰かがツイッターでURLを載せてつぶやくとアクセス人数がパンと跳ねて2000とか3000とかになる。けれどだいたいそこまでだ。フォロワーが8万人だったころと、13万人を超えた今、ほとんど変わらないのがおもしろい。


これがnoteだと、どんな記事を書いてもアクセス数が一ケタ違うし、少しタイトルを工夫するだけで二ケタ変わる。でもこのブログとnoteとで中身の書き方を変えているわけではないし、よりSNS的な媒体を使えば見た目のアクセスが増えるというだけのことで本質的な差ではないのだろう。前にまてぃさんは「noteだと記事から記事へどんどんリンクが貼られるからアクセス数も伸びるのだ」と言っていた。そういうこともあるのだろう。


広告のことを考えている人にとってアクセス数やインプレッションほど興味を惹くものはないが、ぼくにとってnoteの「アクセス数の伸びやすさ」は、「往復書簡(文通)の相手のことをみんなに知ってほしい」という欲望をうまく満たす以外にはあまり役に立たない。自分ひとりで何かを書いてあれほどしっくりこない媒体も珍しい。本の紹介はOK(たくさんの人の目に触れて欲しい)、イベントのレポもOK(たくさんの人の目に触れて欲しい)、しかし自分の思考が交流電源状態となって行きつ戻りつするさまを、本質的な部分を超えるほどに多くの人の目に触れさせてもおもしろいことは起こらない。断片的な素材であるツイートならともかく、ある程度の長さの文章を構成まで考えて組み上げたとき、触れさせるなら他人の脳まで進達しないと意味が無いと思う。残念ながらぼくが一人で書いたnoteは脳に届かない。なぜなのかはよくわからない。だからnoteで一人の文章を書く気はしなくなった。二人だとコミュニケーションのニュアンスが出てくる分、これは脳まで届くかもな、という文章が出てくることはある。不思議な塩梅だなあと思う。


思い付いたままに書くけれど、noteはどこか信用しきれないところがある。「カイゼン」という片仮名を使う企業は個人的に最後の5%の部分を信じられない。もちろん反論はあるだろう、95%も信頼できれば上出来だ、という言い方は合っている。しかしnoteには本質がないんだと思う。もっとも、ぼくは元来、本質じゃない上澄みの部分を幅広く展開していくタイプのコミュニケーションが一番得意であり、世の大多数の人もきっとそうなので、だからこそ、noteやTwitterのような上っ面だけの交流媒体がこんなに活況を呈する。それをわかって使っている。便利であればよいのだ。


ブログのユニーク視聴者数のベースである「700」というのが、ぼくが情報を直接見てもらえる人数の上限なのだろうと思う。誤差はあるにしろ。YouTubeの視聴者数も、同時接続だと多くて700人くらいだし、学術講演をしてもいっぺんに聞いてもらえる数はせいぜい1000人が限界だ。こういう話をすると、「つまり君が有料版のツイッターを使ったりnoteでサロンを開いたりしたら700人くらいは人が集まるってことだよね、ひとりから月1000円とったら70万円だよ、税金をものすごいとられても40万円くらいは手元に残るじゃないか」みたいなことを言う人がいるがふたつの意味で間違っている。ひとつはサロンを開いたら契約してくれるのはたぶん7人だ。そしてもうひとつ、ぼくはnoteでも課金欄を真っ先に消去したし、Twitterに投げ銭機能がついたらその日のうちに設定で投げ銭をできないように設定する。これは理屈ではない。気持ち悪いのだ。20代のころから投げ銭に慣れているようなナチュラルボーンクラウドファンディング世代ならいざ知らず、立派な40代であるぼくが編集者もつかない場所でブレインストーミングをしている内容に金が飛んできたら、遠からず、金が思考を校正することになる。気持ち悪いのだ。もちろんぼくだって、学者、たとえば哲学者が「思案の練習台」みたいなツイートをするところを見ると投げ銭をして応援したいなと思うことはあるし、noteでも他人の努力に対して「たしかに見たぞ」とお金を置いてきたことは何度もあるが、自分があれをやられて平静でいられるとは思わない。気持ち悪いのだ。


自分があまり気持ち悪くならない程度に、気持ちを少しずつ変成させていくことを数年続けていて、ぼくはわりと自分がいいほういいほうに変わってきているような気はする。しかし、変わっても変わっても待っているのは700人なのだ。それが興味深いなと思うことはあるし、これについては気持ち悪くはない。