2021年7月30日金曜日

ごましお

「東京で講習会があるから金曜日は休みます」はわりと簡単に言い出せる。でも、「金曜日にオンデマンドの講習会を受けたいので仕事を休みます」は言いづらい。

テレワーク、テレワークというけれど、テレの時点でワーク感はやはり薄れるのであった。医療系の仕事というのは現場にいてなんぼ。いくら脳だけで働いていると言っても、体が見えない職員は医療者として人数にカウントされないのである。これは理屈じゃない、感覚の問題だ。一度でいいから、土日にいっぱい動画で勉強したので月曜日は代休、をやってみたい。いつか部下が申告してきたら「いいよ!」と言ってあげたいが、さて、当科に部下はいつ入ってくるのだろう。



札幌市内の気温が21年ぶりに35度を上回ったという。一日中職場にいるから実感がわかない……はずが、デスクの横にある窓から輻射熱で伝わってくる外気温がやばいのでこの異常さはよくわかる。ぼくのデスクだけ検査室の中で2度ほど気温が高い気もする。汗だくに……ならない自分に老いを感じる。昔はこの暑さで働いていたら本当にびっしょびしょになったものだ。キーボードだって汗まみれだったはず。ぼくの職歴は20年には達していないから、今年の夏は働き始めて一番暑い夏のはずなのに、過去にないくらいサラサラしている(サラサラは言い過ぎ)。こまめに水分を取りトイレにも行っていて、水代謝は悪くないはずだが、汗の出が少しおとろえた。そんなことを黙々と考える。



昨年の4月以降、飲み会をしていない。おそらくもうこれで「うちの職場の飲み会」は滅亡するだろうという予感がある。似たようなことは、大学のサークル・部活などにも起こっているだろう。大学生にとって「2年間が空く」というのはほとんど世代が入れ替わってしまうということだ。先輩方の飲み方は、新人達が成人するころにはもう継承されていないに違いない。「飲み会」が死語になる。

当院の検査室の職員もいまや大半がぼくより若い。知らない顔はいないが、名前を覚えていないスタッフは何人かいる。ネットワークの切断がくり返されていく。想像したくないことだが、おそらく、うちの検査室の中には「ツイッターでしかぼくを知らない人」が何人かいる。つながっているようでつながっていない。表層のごく一部分でしかつながっていない。それが今のデフォルトなんだと思うし、振り返ってみると、飲み会ごときで検査室の全員と繋がった気になれていたこと自体がおかしかったのだと思う。思い出す限りでぼくは歴代の検査室のスタッフたちと年に何度も杯を酌み交わしてきたが、結局は何も見ていなかったし何も知らないままであった。なあんだ、べつに、時代がどうとか、ソーシャルディスタンシングがどうとか、IoTがどうとか言わなくても、ぼくらは元々断線していたということ。うん、まあ、そうなんだろうなあと言うことをコツコツと考える。



職場に顔を出さなければ働いていることにならないというのは、たぶん、「顔を見ないといよいよぼくらは断絶してしまうから」という古式の恐怖みたいなものが、ぼくら中年の頭にこびりついているからなのだろう。汗腺が減るようにしきたりも摩耗していく。だんだん、どうでもよくなっていく。熱力学は現象を不可逆であると言う。少しずつ多様性が高まって、秩序がノイズに溶けていく。ごましおにコショウを混ぜて振ったら、もう元のごましおには戻せない。

2021年7月29日木曜日

病理の話(560) 細胞の中身をどこまで見られるか

中学校・高校の生物の時間に、大半の人びとは細胞のことをちょっとだけ習う。細胞にどんな部品が含まれているのか、あなたは覚えているだろうか?


たいていの人が「あー、あったあった」と返事してくれるのは、


・核

・ミトコンドリア


のふたつではないかと思う。ちまたのイラストを探しても、この2つが描かれていることが圧倒的に多い。




ちなみに、「いらすとや」だとこんな感じ。


真ん中のタマゴの黄身みたいなのが「核」だろう。そしてまわりに点在している小器官のうち、楕円形のものがミトコンドリアをイメージしていると思われる。



実際の細胞においては、核とミトコンドリアはサイズがだいぶ異なる。核は光学顕微鏡だとまるでイラストのように「あっ、この丸いのが核だな」と判断することができるが、ミトコンドリアは病理医が本気で探しても見えない、つまりイラストよりはるかに小さい。クリームパン的な形状のものは電子顕微鏡を使わないとわからない。世にあるイラストは(教科書に用いられるようなものも含めて)強調がかかっている。

ただし、病理医がまったくミトコンドリアの存在を見つけることができないわけではない。「なんとなくこの細胞、ミトコンドリアが多いな……」というのを、間接的に見出すことはできる。細胞の色を見ればいい。


ミトコンドリアが豊富に含まれた細胞は、H&E染色という病理医がいつも使う染色を用いると、細胞質(細胞のボディの部分)のピンク色が濃くなる。「濃い薄いかよww」と笑われそうだが本当だ。肝細胞の細胞質は「好酸性顆粒状」と言って、ピンクが濃くて細かくつぶつぶとしていて、これはミトコンドリアの量が多いことを反映している。


ミトコンドリアというのはその名前が超絶有名なわりに何をしているのかあまり知られていないようなのだけれど、細胞のエネルギーを生み出す工場とされている。ミトコンドリアが多いというのはエネルギッシュだと言う事だ。肝細胞はいっぱい仕事をする細胞なので、エネルギーをめちゃくちゃ食うのである。




ただ、ここで難しいのが、細胞質が濃いピンクになる条件はミトコンドリアの量だけではないということだ。細胞内に大量の「骨組み」があると濃いピンクになるし、細胞内に特殊な粘液が詰まっていてもピンク色が濃くなることはある。「濃いピンク」という形容だけでは病理医の認識には追いつかない。ここはもっと言語化できる。




たとえて言うならば……。


渋谷のスクランブル交差点を上から眺めてみたら今日は妙に肌色ばかりが見えたとする、さあ、あなたはここで何を想像する?


渋谷駅前でお坊さんのイベントをやっていて剃髪した方々がいっせいに交差点を渡ったのかもしれない。


都知事が新種の日傘を発表し、肌色の楕円形のものをみんなが頭に乗せていたのかもしれない。


広告代理店がイベントで大量の半裸のモデルを渋谷に解き放って日焼け止めのCMを撮っているのかもしれない。


このあたり、雑にいうと、ぜんぶ、「上から見たらやけに肌色が多かった」になるだろう。でも、実際に渋谷のスタバから交差点を眺めた人は、お坊さんの頭と日傘とモデルの肌とを見間違えることはないと思う。なぜかというとそこには、「肌色が多い」以外にも形容できるさまざまなファクターがきちんと存在しているからだ。


それと一緒で、病理医も、細胞を見たときに「あーなんかピンクが濃いねー」以外にもじつはいっぱいいっぱい他のファクターを観察している。「細胞質がぼてっと分厚い印象で、細胞の輪郭がガキッガキッとしていて、核が細胞質に対してあまり大きくなくて、周囲との結合性がしっかりしているからこれは『細胞骨格タンパクが多いタイプの濃いピンク』で扁平上皮方向への分化を表す所見だな……」みたいなことを、言語化するともなくしないともない、わりと幽玄の世界みたいなかんじで診断をしているものなのだ。見てるっちゃー見てる。見てないっちゃー見てない……。

2021年7月28日水曜日

脳だけが石を積む

20代前半に聴いていた曲を、いろいろ掘り返して聴いている。PCに取り込んでいなかったCDがけっこうあることに気づいたからだ。


仕事の空き時間に、(この職場に入ったときからずっとデスクの横に置いてある)段ボール箱からCDを取り出して、1枚ずつ取り込んで、片っ端から聴いている。物持ちがよい自分を褒める。不思議なことに名曲揃いだ、まあそれはそうだろう、「ジャケット懐かしいなあ」と思うものから順番に聴いているのだからそういうことになる。1/3くらいのCDケースにヒビが入っている。日々が入っている。


懐かしい曲を聴いたからと言って、特になんらかの風景が蘇ってくるとか人の顔が思い出されるとか苦み走った記憶が引っ張りだされるなどということは意外とない。ただ、昔の免許証を見返したときのように、こちらを向いて無表情で写真に収まっている若い頃のぼくと目が合うようで合わない感覚だけが、もやりと訪れる。


今振り返ると、当時の曲はだいたい歌詞がスカスカである。婉曲表現がない。感情がひとつしか書かれていない。サビでくり返される言葉にほぼ意味がない。現代のボカロP全盛時代の曲に比べると、文字数が少ないのかもしれないが、そういうのは「解析班」にまかせるとして、「編曲が神で、メロディの耳当たりの良さも奇跡だが、歌詞は学校の日常会話レベル」みたいな曲をぼくは好んでよく聴いていたようである。


……と、軽く平成をdisりながら書いていると思うところがあり、あらためて歌詞カードを引っ張り出して読んでみた。すると、そこに書かれていることは、日常会話というよりも、どちらかというと、ぼくにとっての「常識」だったり、「前提」になってしまっているものなのであった。「くだらない歌詞だなあ」ではなく、「聴きすぎてしみ込みきってしまった歌詞だなあ」。この微妙にずれたピントを修正しているうちに、じんわり、「音楽の力というやつなのかもなあ」という気持ちが湧いてくる。


ぼくは、好きな曲を通じて、「今となっては当たり前のこと」を何度も何度も聴いていた。教室で大人に語られていたら二度目で飽きていただろう、それは道徳の時間に教科書で読んでもおかしくないくらいの言葉たちだった。再放送されたバラエティ番組やドラマに、初回ほどの熱量でのめり込むことはできないように、同じ言葉をくり返し摂取することもまたぼくにとっては難しかった。でも、音楽だけは、「当たり前になるまで」何度も何度もぼくの脳に入り込んできたのである。


……今、「音楽だけは」と書いたが、ほかにもあった。ぼくは同じマンガを何度も読む子どもだったし、アニメをビデオに録画して、同じ回を何度も何度も見る子どもだった。音楽、マンガ、アニメ、これらのコンテンツに乗っかった言葉をぼくは幾度も幾度も、油絵を塗り重ねて封じ込めるかのように取り入れた。くり返しとは積み重ねであった。自分を縦に割って断層を観察すると、地表から降りていっただいぶ深いところに、当時の音楽とマンガとアニメに込められていたコンテキストの数々が、化石のようになってぼくを根底から支えていた。




令和の音楽のクオリティは昔よりもはるかに上がっていて、聞き比べると技術の差に呆然とする。その一方で、歌われている歌詞の数々は、昔よりはやや複雑になっているけれども、あいかわらず「なんだ、ペラいなあ」などと思うものが多いが、それはぼくが20年前に聴いていたものとたぶん一緒なのである。つまりは今の10代・20代も、無数にある曲のどれかをくり返し自分の中に積み重ねていって芯にしている。若い人たちの気持ちはわからないので勝手にそう予想しているだけだけれども、たぶん、絶対にいる。歌詞はペラいのではなく「積み重ねやすい形状をしている」だけだろう。


ただしぼくのときと比べてひとつ違うことがあるとしたら、それは、「あの歌詞がぼくを作ってくれたんだ」と20年後に語っても、その曲を知らない人がとても多いのではないかということだ。「流行りの音楽」というのが存在しにくい時代である。ランキングトップの音楽を知っている人が10%もいない。すばらしい音楽たちが世の隅々にまで行き渡ることはおそらくもう二度とない。それはとてもさみしいことだと思う。ぼくが「午前3時のゆらゆら帝国だよな」とか「Number Girlで焦燥したよな」と言って「そうだそうだ」と言ってくれる人がいるというのは、おそらくぼくの世代までしか通じない過去の僥倖なのだろう。エントロピーの増大し続ける世界で、末端のぼくらをつないでくれるはずのSNSは、もはや、カオスエッジの一端に自由落下していくように世界の混沌を深めるだけのツールになりつつある。くり返し、積み重ねを誰かと共有することができなくなる。それはなんだか三途の川のようだなと思ってしまった。

2021年7月27日火曜日

病理の話(559) 舌禍について

今日の記事は2014年頃にぼくが書いたものの転載です。一部、今風に表現をマイルドにしました。タイトルも微調整しておきます。



タイトル: 「戦う○○」を自称する人の戦いとは、舌禍によるいざこざである。




医療従事者の方に申し上げますと、TwitterやFacebookなどで仕事でのエピソードを書くというのは、相当な「情報発信のプロフェッショナル」であっても、ま、やめたほうがいいです。

  

今から架空の症例で、具体的に「どうだめなのか」を考えてみます。

いいですか?架空の症例ですからね。

 


Facebookに投稿された架空エピソード: 

「(初期研修医、女性、26歳): 池袋から少しはずれたところにある中規模病院で消化器内科のローテーション中ですが、病棟で患者にセクハラをうけました。回診の前に顔を見に行ったのがあだになりました。おかげんいかがですかって横に立ったらこっちの加減はいいなーって言われながらおしりをさわられたんですよ。そのことを指導医に相談したら、『まあーぼくも君のおしりさわりたいときあるからしょうがないよねーwww』って言われて。ひどい。こっちのほうがよっぽどセクハラだった。あの患者は末期の大腸癌で本人には告知してないけど絶食管理でもう1ヶ月経つし、アルブミンもじわじわ減っててどうせあと2,3週間くらいで死ぬだろうからまあ許してやるけど、この指導医にはまだ1年半くらい一緒にいなきゃいけないのに許せない」


こんなこと、SNSに書いたらだめです。

個人情報漏洩しまくってるし。自分の職場の恥をつらつら書いてるのもどうかと思います。次から次へと「本人を特定できそうな内容」が盛り込まれてしまっているのも問題。書いた本人にも不利益が及ぶでしょうし、患者さんやその家族がこれ読んだらいったいどんな気持ちになるか、そしてどのようにクレームをつけてくるか、わかったものではありません。

 

だめというのは、「モラル」という意味でもありますが、何より「自衛」のためでもあります。 

相手の方が悪くて自分は正しいとか、そういうのはあまり関係がありません。余計なトラブルを招く危険があります。

 

 

では次に、今の「架空のエピソード」を、がんがんそぎ落として、「ツイッターでよく見る投稿」っぽくしてみます。くり返しますが、これは架空のものです。

 

 

ツイート:(2013年5月22日夜23時33分)

「死にかけじいさんの性欲はともかく上司に視姦されるのきつい あと1年つら」


このツイートをした人のプロフィール欄には、このようなことが書いてあったとします。

「スーパーローテー徒。夢はgeneralist。」

 

ツイートを100個くらいさかのぼると、こんなツイートが書いてあったとします。

「Nsって年下でも社会人経験は長いから言い返せない」

 

こんなのもありました。

「0時過ぎのでんしゃくさい」

 

 

 

Facebookの投稿にくらべたらずいぶんと情報がボケた? いえ、そうでもありません。 

本人はいろいろマスクしたつもりでも、なんか、伝わってくるものです。 


・さかのぼったツイートにNsって書いてあるから医療関係者だろうなってわかる

・Nsとの関係で「年齢と社会人経験が逆転する」のだから、ツイ主は比較的若くてたぶん研修医である

・「スーパーローテート」というのは初期研修や後期研修のシステムのひとつである。この言葉をあえて使う(しかも「徒」という言葉でちょっとだけちゃかしてる)タイプ。「夢はgeneralist」ということは、将来は総合内科的な勉強をしようとしてるのかも。

・都内在住かも(終電が0時より後) 

・死にかけじいさんの性欲: 病棟でのセクハラを連想

・指導医にもなんかセクハラされてる

 

ほらね。ぼんやりと全体像がわかってしまいますよね。まして、関係者が見たら、ほぼわかってしまうのではないでしょうか。たとえば、セクハラをした上司が見たら……

「あれ……これ、まさかあいつ?」 

くらいの想像はできるでしょう。



あなたのそのツイート、隠せてません。


 

上司が気づくというだけでも十分に気まずいですが、「患者や、その家族」が自分のことだと気づいてしまった場合には、状況はさらに厳しくなります。

さらに言えば、

「全く関係が無い他人が、『自分のことを書かれたと思い込んで・被害妄想で・あるいは狙って』情報発信者を攻めてくる」ケースだってあります。

これが最悪です。



「わたしの父は都内の病院に入院して余命幾ばくもありませんが、担当が女性研修医だと言っていました。その上には男性の指導医がいるようです。どう考えてもうちの父の話ですよね!名誉毀損です!」 

こんなリプライが来ても全くおかしくないと思ってください。

 


このリプライに対しては釈明するのが非常に難しいです。まず、怒っている人が本当に患者やその関係者なのかどうかを確かめるすべがない。現実に「これあなたですか?」とたずねて、合っていても違っていても大変なことが起こるというのはわかりますよね。リプライを寄越した相手の身分を確認する方法がありません。そして、陰口自体は「あなたの真実」ではあるので、根本的な解決のしようがありません。

 

まして、医療関係者は、トラブルの標的にされています。あなたを困らせようと思って、赤の他人が「なんでこんなツイートするんだ」と炎上させにかかってくるかもしれません。

 

 

くり返しますが、相手の方が悪くて自分は正しいとか、そういうのはあまり関係がありません。

ストレス発散目的だろうが、身内トークであろうが、多少の匿名化を行っていようが、医療関係のエピソードをSNSに垂れ流すというのは、防御が甘い行為です。さらに、まあこれは私の価値観ですが、率直に言って下品だと思います。

  

やめましょう。

学校でも、こういう話、ちゃんと教えましょう。

読者の方にも、若手や学生を指導してらっしゃる方、いらっしゃいますよね。「職場でのできごとはSNSに書かない、ボカしてもだめ」というネットリテラシーをきちんと普及させましょう。

 

 

 

最後に。

今日のお話では、しつこいくらいに「架空のエピソードです」と書きました。

でも、世の中には、「架空って書いたってだめだ、これは本当にあった出来事だろう。おれは当人だから知ってる。この話のモデルは俺だろう!」って絡んでくる人がいます。本当にいます。

医療エピソードを題材にするというのはそれくらいナイーブなことで、入念な気配りがなければ、やるべきではありません。


SNSでは、ダジャレと推しトークと天気の話、それくらいにしておいたほうが安心・安全です。

2021年7月26日月曜日

推しの構造でがんばる

「弱い者いじめ」はだめだ! と言いながら「悪い者いじめ」をしている人がいっぱいいる。こいつは悪いことをしたのだから、こいつは○○に対して責任があるのだから、直すべきところは直さないとみんなに迷惑がかかるのだから、といった、「悪い者にはいじめられてもしかたがないだけの理由がある」という理論、これがいつしか拡張・敷衍されることで、弱い者いじめが発生しているように思う。「だってこいつが悪いんだ」を、許される言い訳にして良いのか?

弱い者をいじめるような発言者はミュートする。そして、「悪い者いじめをよかれとおもってやっている人」をもミュートする。その両者はだいたい同じことだ。世の大抵の人は、弱い者いじめも、悪い者いじめも、そんなに頻繁にはやっていないが、たまに、いじめという行動によって報酬回路が作動するようになってしまった人というのがいて、そういう人のツイートを遡るとほとんど全部政治や政策、環境や理念、ニュース、ウェブ記事、自分と立場の違う何モノかへの「いじめ」で埋め尽くされている。目に付くたびにミュートしていく。いつしかぼくのタイムラインには、好きな本や音楽、風景、美術などを他人にひたすらおすすめしていくアカウントばかりが表示されるようになった。「いじめ」の対局にあるのは「推し」なのだろう。



「あの人は社会悪と戦っていて、とてもがんばっているから、多少行きすぎた言い方があっても許してあげてください」と言われたことがある。でもぼくは、弱い者いじめをする人をよく観察してみて「すごくがんばっているなあ……」と感じたことがある。畑を耕すクワでそのまま隣人の家の壁を耕した人を見て「がんばっているから許す」というのはおかしい。努力している、がんばっている、だから多少過激な部分には目をつぶれ、という意見はピント外れだ。がんばって目と脳を研いで、自分の行きすぎをコントロールする、それこそが成熟した人間が本当に「がんばる」ということだ。



「あのアカウントはものすごく多くの人に悪影響を及ぼしている、だから自分の手を汚してでもぶっ潰さないとだめだ!」……そこまでの気概があるのならば、その迷惑なアカウントより圧倒的に強い発信力を持つべく、それこそ、どれだけ自分の手を汚してでも自分の強化に精魂を込めるべきである。「自分には発信力なんて望むべくもない、だからせめて、悪い人を叩くことで社会に貢献したい」というのはへりくつだ。発信する力がないのなら叩く力だってどのみち大したことはないし、「弱い者が強い者を叩く」という構造を許容している時点でその人は「いじめ」の相似形をひとつ世に残しているに過ぎない。



「いじめ」という構造は必要悪ではなく純粋悪に近い。結果的にいじめの構図になってしまった、みたいな、未必の故意のいじめであってもうなだれるくらいはしたほうがいいとすらぼくは考えている。



完璧な人間になんてなれない、誰にも迷惑をかけずに生ききることも難しい、それでも、みずからいじめの構造を許容することだけはしたくない。誰かを叩くことが社会をただ良くすることなんてない。かつて、「どこかの誰かがやらなければいけないことだ、きれいごとはともかく悪い者は誰かが叩き続けなければならない」と言い放った人がいた、いや、今もいる。そういう人の周りには暴力に引かれた屈強なインターネット戦士達が集まって天下一いじめ会を開催している。「悪い者を叩くことで悪い者の数を減らせる」というのは「ウイルス性のかぜに抗生物質を用いる」のと同じで有効性を示すエビデンスがない。非劣勢すら証明できないだろう。叩くことが世のためになる、と考える人は、もうそうしてずっと「いじめの構造」を世に生み出し続けている。



ぼくはいつまでも「いじめを生み出す正義」に抗う。「推しの構造」でいじめの総数をわずかずつでも世の中から減らし、結果的に「悪い者たちのツイート数」を「そう悪くないふつうのツイート数」が上回るように手を汚し続ける。そうすることが「がんばる」ということなのだと思う。なぜなら叩く方が脳を使わない。なぜなら推す方がエネルギーを消費する。なぜなら悪貨を良貨で駆逐することが一番難しくてしびれるほど手間がかかる。だからこそ「がんばる」必要があるのだ。

2021年7月21日水曜日

病理の話(558) ウォルターを探せるか

むかしから、「○○氏病」のように人の名前が付けられている病気がある。英語では○○'s diseaseなどと呼ぶ。(※ただし、近年は「氏」や「's」を使わない表記にだんだん改められているようだが。)


たとえばクローン病(Crohn病)という病気があるが、これは大多数の人が想像する「クローン(羊のドリーとかのやつ)」とは無関係で、Crohnさんという学者の名前から名付けられている。


Wikipediaによると……



Burrill Bernard Crohn, an American gastroenterologist at New York City's Mount Sinai Hospital, described fourteen cases in 1932, and submitted them to the American Medical Association under the rubric of "Terminal ileitis: A new clinical entity". 

ブリル・バーナード・クローンさん、ニューヨークのマウントサイナイ病院に勤める消化器内科医は、1932年に、14例の病気を解析して「回腸末端炎:あたらしい病気の概念!」という論文を米国医師会 AMAの雑誌に載っけた!



とのこと。

今のところを思わず流し読みしてしまった人のために、もう少しきちんと強調して書き直すので今度はしっかり読んで欲しい。




Burrill Bernard Crohn, an American gastroenterologist at New York City's Mount Sinai Hospital, described fourteen cases in 1932, and submitted them to the American Medical Association under the rubric of "Terminal ileitis: A new clinical entity". 

ブリル・バーナード・クローンさん、ニューヨークのマウントサイナイ病院に勤める消化器内科医は、1932年に、14例の病気をまとめて「回腸末端炎:あたらしい病気の概念!」という論文を書いて

米国医師会 AMAの

雑誌に

載っけた!


最後はなんだか懐かしの侍魂みたいになってしまったが(知らない人はほうっておきます)、この中でぼくがとりわけ大事だと思っている部分はどこかというと、「載っけた!」……ではなくて、「14例」のところである。

後世に自分の名前が残るほどの偉大な発見。しかし、その端緒となった論文で語られているのが、「14例」。たった14例!

ちなみに今のぼくはCrohn病は1年で数十例以上診断している。




ではこのCrohnさんは14例の珍しい症例を見つけて論文を書いたから偉いのかというと、もちろん、そういうことではないのだ。

「今まで世の中の多くの人が『仲間だ』と気づいていなかった、ひとまとまりにできるという概念自体がなかった病気を、それによく似た症状を示す数千例の患者の中からピックアップしてまとめたから偉い」

のである。14例というのは分数でいうところの分子でしかない。分母に数千(あるいは数万)という診療が隠れているから偉いのだ。


これがどれくらい難しいことかというと……。

絵本の「ウォーリーを探せ!」には、じつはウォーリー以外にもウォルターという人間が隠れている。しかも、このウォルターは「5つ子」であり、ひとつの画面に全く同じ顔をした5人が必ず紛れ込んでいる。ところが、絵本のどこにもウォルターの存在は書かれていないし、それが5人いるということも明かされていない。公式のホームページなどにも一切記載がない。つまり、読者の中から、「この中にはウォーリー以外にも、同じ顔をしたやつが5人ずつ紛れているな」と気づく人が出るまで、公式はダンマリを決め込んでいるのだ。あなたはこのことをご存じだったろうか?

→ はい
  いいえ

「はい」を選んだ人はおおうそつきである、なぜならウォルターの話は今ぼくが作ったウソだからだ。しかし、新しい病気を探してきてひとまとまりに記述するというのは、つまりはこういうことなのである。「誰もそこに一つのグループが見いだせるなんてわかっていない状況から、自分の眼と勘だけで、仲間を見つけ出さなければいけない」。




エルドハイム・チェスター病、キャッスルマン病、川崎病、木村病、菊地病、Sister Mary Joseph nodule……。これらの名前のついた病気すべてが、必ずしも「最初にまとめて報告した人」ではないというのがむずかしいところなのだが(あとからシレッと出てきて名前だけ付けた病気というのもあったりする)、基本的に、人名のついている病気というのは、医学史のどこかで誰かすごい人が「ウォルターを探せ!」をやった結果であったりする。

2021年7月20日火曜日

独創性の甲斐

(息子は)スマホに必要性を感じていないのよ、と別れた妻が教えてくれた。Spotifyでも入れて音楽聴こうとか思わないのかな、と聞いたら「ぜんぜん興味なさそう」。

とはいえ、iPadは持っているからインターネットから完全に離れているわけではない。彼はいわゆるデジタルネイティブだから、ぼくの若い頃よりネットリテラシーもインターフェースとの親和性も高い。それでも? だからこそ? 本人の中では、スマホでなければできないことというのが、特にないのだろう。パソコンとiPadさえあればなんとかなってしまう。

あらためて考えてみると、今のぼくにとっても、スマホはなんの役に立っているんだろうと思う。

携帯性が高いPC、あるいは、何千冊も入った文庫本。Kindleは役に立つが、スマホの画面はそろそろ小さくてしんどくなってきた。Kindle readerを別に買いたい。アプリ? ぜんぜん使っていない。他人との連絡はほとんどPC経由だ。コミュニケーションの大半がデスクで完結している。知人がLINEスタンプを出すたびに購入しているけれど送る相手がいない。

強いて言うならば、親兄弟も含めた家族が「いつでもぼくを呼び出せる安心」というのがスマホの最大の利点なのだ。ただしこれも本気でiPadに移行してしまえば特に困らないかもしれない。旅行に行かず外食もせず、テイクアウトを写真に撮るわけでもない今、スマホは一日中充電器に挿しっぱなしで、手に持つ機会も減っている。

ぼくは少しずつ脱スマホしつつあるのかもしれない。息子はぼくより早く気づいただけのことなのだ。きっと、それでいいのだと思う。カメラがあり、本があり、PCがあるのだから。


それでもぼくはきっとこの先もスマホを買い換える。




この世の中で傷をなるべく被らずに生きていくにあたっては、「人と違うことをしない」のがカギだ。もちろんクリエイティブな場面の話はしていない。創作においては傷を恐れずにぐんぐん突き進むことが必要になる、でもそういうシーンはいつでも何度でも訪れるわけではない。ここぞというときに人と違うことをすればいいし、いつもいつも逆張りしておくことにはデメリットも多い。

たとえば、だれもがスマホを持っているときに自分だけ持っていないと、「なぜスマホを持たないの?」と質問される、この質問には一切中身がなくなんの意味もないので非常にストレスである。「余計な質問をされる」ことで自分の時間がわずかに削られることが耐えがたい。無駄で無意味なコンフリクトを減らすためにスマホを持つ。そうすれば誰も「なぜスマホを持たないの?」と質問しないだろう、ぼくはわりとそういう考え方をするタイプである。

そういうぼくが、人と違うことをするにあたっては、「なぜ人と違うことをするの?」と質問されたときに答えられる程度の理論武装をあらかじめしておく。なぜツイッターをするの? なぜ医療情報にかかわるの? なぜ本を書くの? どれにも新書一冊分の答えがあるから、いくら尋ねられても平気だ、そういう準備が整ったあとで人と違うことをする。いつからかそういう風になった。瞬発力に若干のブレーキをかけることになるが、結果的に猪突猛進とは異なる大局的・陣形展開的な突撃ができるので、チャレンジのありかたとしては悪くない。



あと、もうひとつ、人と違うことをするのは、周りに人がいないとき。

誰かと同じなのか違うのかすらわからないことをするならば、孤独の真っ最中に限る。

周囲との接続を切断してしまったあとならば、誰に気兼ねをすることもないオリジナリティで勝負できる。

逆に言えば、誰ともつながっていない早朝4時ころに思い付いたことが「誰かと一緒」ならば、それは早起きをした甲斐がないということになる。