2022年2月28日月曜日

脳だけが旅をする

日ごろ、脳内にはいつも、複数のイメージが流れている。そのイメージは直近に起こったばかりのことを振り返ったものだったり、今日の夜をどんなふうに過ごそうかという夢想だったり、今日と似たような陽気の日に眺めた同じ場所の過去の風景であったりする。

街の大きな交差点の、ビルのカドにくっついている巨大なモニタ、見渡すかぎりのビルというビルに複数のモニタが設置してあって、ぼくがそれを見ていようがいまいが、朝から晩までイメージがパカパカ移り変わっていく感じ。脳のデフォルトモードは乱雑だ。でも、いつもとっ散らかっているわけでもない。

誰かと話をしたり、こうしてブログを書いたりするときには、雑多なものを映していた脳内ビジョンが目的に応じて同じ番組を映す。いろんなCMが流れていたあちこちのモニタから同じナレーターによる同じアナウンスが聞こえてシンクロして合唱のように響き渡る。

複数の無意識によって運用されていた脳の歩調が、意識の号令の元にぴたりと合う。磁石で砂鉄の向きを整えたときのきれいな模様のことを思う。

おそらく誰の脳であっても、表現は違えどだいたい似たようなことになっているのではないか。ハレとケの感覚。ハレのときには集まって来て大きなことをやる。ケのときにはみんな好き勝手なことをしている。人だろうがニューロンだろうが、集められたもの同士、さほど違いがあるとは思えない。

「心ここにあらず」という表現が、好んで用いられるけれど、心はいつだってここにある。ただし、心は複数の映像を、こちらの気持ちとは関わりなしに代わる代わる流していることがあり、それがこちらの意図と必ずしもフィットしないことはある。「心ここにあるが足並みは揃わず」。


ところで最近のぼくは、脳内モニタの辺り一面にうすぼんやりと雲のような何かが漂っている感じというか、端的に言うと、脳内で何が上映されているのか見づらいなーと感じる機会がちょくちょく増えてきた。

自分の脳内でさまざまな風景が上映されているのはわかるが、それらがいちいち遠くにある、もしくは、かすんでいてよく見えない。一番近くにあるモニタを注視しようとしても、遠くにあるモニタの音声がうるさくて集中できなかったりもする。

……などと書いてみるとなにやらぶっそうというか、少し病的なものを感じとる人もいるだろうがたぶんそうではない。これは単純に脳の加齢だ。加齢と言っても悪い意味しか込めない現代テレビ的ボキャブラリーではなく、ほんとうの意味で、齢が加わった結果、こうなっているのではないかとぼくは言いたい。

さまざまな経験を積むにつれて、脳内の街頭テレビジョンの数が増えた。上映される番組の種類も増えた。だから若い頃よりも脳内が忙しいのは当たり前。

精神が衰弱しているとか、統合が失われつつあるとかではなく、マンガ『宙に参る』で言うところの判断摩擦限界にゆるやかに近づいているのではないだろうか。自分の中から棄却できないコア情報の数が年月とともに増え、何をするにもいちいちおうかがいを立てないと前に進めない参照先も増えた。するとぼくの限られた脳内メモリは常に数十パーセントくらいはアクティブになり続けているわけで、何を思うにしても、「そういえばあっちはどうだったっけ」「そうだ、そうだ、あそこにも一言ことわっておかないと」とばかりに、ご機嫌うかがいやご近所づきあいばかりであたふたとする。


そうか、これか、といろいろ考える。


かつて、誰もが「達人」と呼んだしゃべり上手が、ある年を境にぐっと黙り込むようになった。これはもしや認知症的なやつなのかと気を揉んでいたところ、あるときその人が書いたブログを読んでみたら言葉の奔流が往年よりもさらに激しくなっており、膨大な情報がじゃじゃ馬のように跳ね回っていて、かつどこか一本きちんと筋が通っていたので本当に驚いた。ものすごい数の「視線」がねじれの位置に交わりまくっているのに、それらが全体として「その人でしかあり得ない雰囲気」を纏いながらあちこちにすっ飛んでいく。それらを提示された順番に読んでいくと、まるでディズニーランドのアトラクションをあちらもこちらも巡って、まるで違う風景、まるで違うキャラクタ、まるで違う遊び道具でさんざん遊んだあとの一日の終わりに「あーどこもかしこもディズニーだったなあ!」と感じるようなあの感覚になる。まるで衰えていなかった。達人のさらに上にたどり着いているじゃないか、と思った。

そしてぼくは「あの境地」にあこがれた。口から出る言葉の「一本気さ」だけではもはや抑えきれないくらいの圧倒的な情報を脳内でこねくり回して動的なモニュメントに仕立てることができる人。ああそうか、それを絵でやったり音楽でやったりすれば芸術と呼ばれるだろうなあ、というレベルの文章術を手に入れて、それ以外では脳内の風景を外部に構築できなくなってしまったためにむしろ口数の方は少なくなってしまった人。その知性の高さに追いつくことができないだろうかと夢想した。

しかし、あらためて、こうして、脳の中が騒がしくなってきた今、思った以上に高い壁だなあ、と感じざるを得ない。弾幕が多すぎて見えなくなったニコニコ動画。大量の虫の羽音がワァーンと重った閉塞的なノイズ。幻灯機が全方向に違う映画を映写しているような荒野の私設映画館の中央で、ひとり体育座りをしている。自分の脳内を歩いているだけで時間が潰せるようにはなってきた。なんならちょっと疲れて座って温かいほうじ茶などを飲みたくなってしまった。若かりしころの乱視的な思考は年を取るごとにたしかに補正されたが、思索の「索」が増えるにつれて持て余すことも増えてきて、索が重なり合って網戸越しに外を眺めるような脳内KEEP OUT状態である。それでもなお、自らを取り巻く環境から、自分を震わせるなにかをときおり彫刻のように彫り出し続けはするし、かく言う脳は「今どうしてる?」に対するアンチテーゼとばかりに、時間軸を超越した思い出の反芻を、それは過去だけではなく未来に経験するであろう思い出すらも反芻してしまうような構えを見せて、脳だけは元気にぼくにファイティングポーズを取っている。


脳が? ぼくに? ファイティングポーズを?


なるほど「脳だけが旅をする」というタイトルは、「どこかへ去っていく脳を見送るぼく」の立場で読むこともできるのだと、この年になってようやく気づいた。

2022年2月25日金曜日

病理の話(630) さじ加減の加減

医療においてはしばしば「さじ加減」が問題となる。

「さじ加減」は、いい意味で使われることもある言葉だけれど、医療を語る文脈だと悪い意味で使われることも多い。たとえば、

「細胞ががんかがんじゃないかは、病理医のさじ加減ひとつで決まるんでしょ?」

みたいな言い方だ。ここには揶揄のニュアンスが含まれている。


「さじ加減」という言葉が、なぜ問題となるのか?

それは、人びとが心の中で、あらゆる病気には「正しい診断」が存在し、「一番いい治療法」がどこかにあると信じているからだと思う。あいまい、ファジーなんて無責任だ、個人の主観で定まる方針なんて信用できない、ということなのだろう。


たしかに、医療における正しさというものは存在する。

ただし、それはピンポイントで……「点」で存在するものではない。「ゾーン」として存在するのだ。

「いい治療法」はあるのだが、「一番いい」かどうかはその都度微調整して探る。これぞという一点が毎回定まるものではなく、ある程度の幅を持って、「ここからここまでの間にある治療法はどれもいいので、相性や好みと合わせて少しずつ絞り込んでいこう」というようになっている。


(※正しさという概念自体が存在しないんだよ、という話もよく語られるのだが、そうは言ってもここからここまでは正しいじゃん、という話とぶつかって堂々巡りになるので、ここでは「正しさは点ではなくゾーンである理論」にしておく。)


たとえば、大腸や胃におけるがんの診断を考える。粘膜から出現したある細胞が、粘膜の下側に浸潤(しんじゅん:しみ込んで攻め入ること)をしはじめると、世界中すべての病理医が「がん」と命名する。なぜならそこには浸潤という決定的な悪事が見えるからだ。

がん細胞は、時間とともに少しずつ深部に潜り込んでいく(=浸潤する)。ここで時間を巻き戻せば、必ずどこかのタイミングでは「まだ浸潤していない段階のがん」があるはずである。つまりはまだ粘膜の中におさまっていて、がんの根拠である「浸潤」を来していない状態だ。

これを日本では粘膜内がんと呼ぶ。

一方で、欧米の一部の国では、まだ浸潤しはじめていない細胞はがんと呼ぶべきではないというスタンスを取り、ディスプラジア(異形成)などと呼ぶ。



がんがしみ込む直前というのは、ヤクザが悪事をまだ働いていない状態、と言えばわかりやすいだろうか。いつか周囲に悪さをする性質を持っているけれど、まだ犯罪には及んでいない状態。

「見た目がヤクザで心もヤクザだが、ヤクザ的事業を何一つしていないひと」をなんと呼ぶべきか? 日本ではこれを堂々とヤクザと呼ぶ。一方で、欧米の一部の国だと「ヤクザ候補」と呼ぶ。つまりはそういう違いなのである。


この議論は、本質的だろうか?


どっちでもいいよ、ヤクザでもヤクザ候補でもいいからさっさと逮捕しろ! という理屈が出てくるのはおわかりであろう。犯罪が起こってからでは遅い。しかし、まだ前科もついていないヤクザを逮捕するのに、いきなりアジトに家宅捜索して爆破・解体して更地にし、周囲をマスコミに取り巻かせるというのは、周囲の邸宅への被害も考えるとあまりよいことではない。そこで、ヤクザ(候補)だけを的確にしょっぴいて、周囲への影響・風評を最小限に抑えよう、というこころみがなされる。具体的には、患者の体に大きな負担がかかる外科手術を避けて、内視鏡的に(胃カメラや大腸カメラを用いて)粘膜だけ切り取ってこよう、という治療方針が選択される。


日本のように「粘膜内がん」と名付けようが、欧米の一部の国のように「ディスプラジア」と名付けようが、違うのは名前だけで、対処はいっしょだ。「がんの初期、もしくはぎりぎりまだがんじゃないもの」というゾーンに対して、部分だけを小さくくり抜いて取り除いてしまおう、という治療方法は一貫している。


こうなってくると、「がんか、がんでないか」という、点を追究する診断をする必要がないということがわかる。「粘膜内がんもしくはディスプラジア」というゾーンに収まる病気だとわかれば用が足りる。あと、診断名の部分にかんしては、病理医の(国家的な)さじ加減だということだ。


こういう背景があっての「さじ加減」が行われるのが病理診断である。「細胞はいかにも悪性度が高いが、まだそんなに悪事をはたらいていないな」みたいなことが診断にかなり影響してくる。

治療におけるさじ加減にはまた別のニュアンスがあるが、いずれにせよ、医療におけるさじ加減は「あいまい」ではなく「ゾーン」を扱っているのだということを、覚えておくとよいかもしれない。

2022年2月24日木曜日

成長の証

あれは3連休の2日目から3日目にかけてのことだった。

今週は平日のうちに診断業務をすべて終わらせておいたから、休みの間に心行くまで原稿が書けると思った。そして、実際そのようにした。朝から晩まで精魂込めて原稿を書いた。そして無事、明日にまだ1日休みを残した状態で、原稿を書き終えた。

やった、と思った。すぐに編集者に送信しようかと思ったが、気持ちを落ち着けて、明日あらためて出勤し、そこでもう一度原稿を見直してからにしようと考えた。でも事実上執筆はこれで完成だ。WorkFlowyのタスクリストのうち、直近2か月間に締切のある仕事はすべて終わった。久方ぶりの開放感。

意気揚々と帰宅する。ちょっと分厚いタイプの餃子を食べ、ビールを飲みテレビを見ていた。誰ともなく「なんか今日はあんまりおもしろい番組がないね」と言い合って、パソコンをテレビに繋いでアマプラで「鬼滅の刃 遊郭編」を家族で一気見することになった。おもいのほかおもしろく、最終話の直前までぜんぶ見てしまった(最終話はその翌日だ)。その間ぼくはずっとビールを飲んでおり最後はレモンサワーに移行した。見始めたのが早かったので、すべて終わってもまだ11時過ぎだったが、それでも日ごろに比べるとだいぶ深酒となった。歯磨きをして布団に入るとあっという間に意識は遠ざかった。

異変は翌朝だ。今日も1日休みだから、どこかで出勤するとは言え、まだのんびりしていられるな……と思って寝返りを打とうとしたら、左右の肋骨のあたりがけっこう痛い。気づけば首の後ろもばんばんに凝っている。ああ、しまったな、いつもよりアルコールを入れたせいで、睡眠中に変な格好になっていても目が覚めずに、寝違えみたいになってしまったのだろう、と思った。ぼくはもともと首が弱いので、自分の首の高さにあった枕を買って、真ん中をきちんとへこませて、頸椎のアーチを大事にして寝ないと一発で腕がしびれる。ただし今回、腕のしびれがなくて体がとにかくあちこち痛い。どういうことだろう。あちこち動かしてみてわかったのだけれど、特定の何かを傷つけたというよりは、とにかく体が広範に痛いのである。「年取るってそういうことだよね」という声が聞こえてきた。たぶんそういうことだ。特に異論はない。しかしこれは参った。のんびり朝寝をしようにも軽く体を動かすたびにけっこうな痛みがあちこちに走る。ゆっくりストレッチをするのがよいだろう。そう思って起床してからしばらく体を動かしていた。どうにも回復が遅い。

感染症がなければジムにでも行って疲れない程度に走ってシャワーを浴びればだいぶラクになったかもしれない。しかし、昨今の情勢は医療関係者からみると悲惨の一言で、医療従事者が濃厚接触者になってしまい出勤できないために病院内の各所の仕事がぜんぜん回らないという事情もイヤと言うほど知っている。こんな状況で医療機関の主任部長がジムに行くのはさすがに躊躇せざるを得ない。かと言って、札幌は豪雪のまっただ中だ。外を走ることなどできない。でこぼこの道に足を取られて路肩の雪山に全身ダイブするのが関の山だろう。運動はあきらめて、長いこと体をひっぱり続けた。

1時間以上経って多少は気にならなくなった。昨日の原稿を見直して編集者に送るために出勤。デスクに付いて座ろうとしたら、椅子の形に体が収まった瞬間に、これはもう言語化するのが難しいのだけれども、「原因はお前ら(デスク周りのあれこれ)だ」ということが肌からビシビシと伝わってきた。連日ここで没入しすぎたから今全身が痛いんだ、ということが、外付けキーボードやマウス、モニタたちによって異口同音に語られる。「お前もう帰れよ」「それはマジで帰れよ」という声が本当に聞こえそうだ(ぎりぎり聞こえなかったが時間の問題であろう)。

ふうーーーっと息を吐いて考えた。

顕微鏡を見るときもパソコンに向かうときも、この椅子の背もたれを倒すことはないが、今日は大きく背中をあずけて反り返って伸びてみた。普段使わない機能に驚いて椅子がギシギシと鳴いた。デスク横に置いてある読みかけの本を手にとってパラパラとめくって、また閉じた。帰ったほうがいい、休んだほうがいい。「でもぼくはもっと根本のところで安心したい」。なんだろうこの気持ちは、と思った。単なるワーカホリックなのか? 自律神経が失調して痛みの閾値が低くなってしまっている今、なおデスクにいようと思っているというのは認知が歪んでいる。認知を歪めたのも仕事のストレスなのか? でもぼくは「せっかくだからもう少しここでやれることをやって、もっと安心してから家に帰りたい」と思ってしまっている。堂々巡りだ。


頭を使わずにやれることを探した。そうだ、確定申告がある、と思って必要書類をとりだした。診断とも原稿書きとも違って確定申告ならば、歌詞のある曲を耳元で流していても気にならない。気に入ったラジオをかけてパーソナリティの声に耳を澄ませることもできる。失敗したからと言ってペナルティはせいぜい追徴課税だろう。なんの責任もないからゆっくりやれるなあと思った。これはプライベートだ、趣味だ、仕事ではない、だからストレスはかからないんだぞ、と自分の自律神経に言い聞かせるようにして、書類の入力を進める。いつもなら30分で終わるような内容をたっぷり2時間ほどかけて、しょっちゅう気を散らしながら、音楽に脳を持っていかれながら。めったにやらないことだが途中で病院内ローソンに行って、六花亭のバターサンドのパチモンみたいなお菓子を買って食べた。ISO認証を取得していないうちの職場のデスクでは仕事中に食事が可能だが、ふだんはおやつなど一切食べない。でも今日は別だ。ほら、これならストレスがかからないだろう? 何度も何度も脳の無意識領域に確認を取るようにした。すべて終わって帰宅して、家族でご飯を食べた後、イッテQが終わるころには布団に入ってさっさと寝た。俺にはストレスはない、俺にはストレスはないんだと唱えながら。


開けて月曜日。体の痛みはほとんど回復した。首回りも落ち着いている。肋骨も痛くない。「いい加減にしないと、そういうことだからな」と言われた気がした。朝から会議だったがなるべくテンションを抑えめにしてあまり熱中しないようにする。その後、最初のプレパラートが仕上がってくるまでの時間は比較的余裕がある。メールにいくつか返事をして、問い合わせの電話に答えて、そうこうしているうちにプレパラートが仕上がってきて、これなら1時間半後にはここまでいけそうだなと脳内ではじき出す……のをやめる。「まあ、普通にやってればいつも通りいけるはずだよ」くらいで、あとは細かな計算をしない。脳内に保存されたキャッシュを捨てる。クッキーも消去。メモリを解放して常駐タスクをいくつかシャットダウン。目の前にあるプレパラートだけに注目して淡々と診断をする。これでぼくの自律神経はまたいつものようにコントロールを再開してくれるだろうという確信がある。そうやってやりくりができるようになったのが、ぼくがこの20年で成長した証だ。次の原稿依頼は断ろう。次の論文投稿は共著者にもいろいろがんばってもらおう。まあ、断らないだろうし、自分でやるんだろうけれど、またこうやって体のアラームを鳴らすくらいなら、のらりくらりと逃げながら保つやりかたは必ずあるはずだ。だってぼくはもう、成長したのだから。

2022年2月22日火曜日

病理の話(629) チラ見妄想パワー

研修医が当科に来ているので、病理をいちから勉強してもらっている。まずは何からやったらいいかな、と考えて、大腸癌の手術検体から見てもらうのがいいだろうな、といつものように考えた。

大腸癌の診断には基礎的な事項がいっぱい詰まっている。最初から膵臓や膀胱などを見るよりも、まずは大腸から見るのがよいだろう。


手術で採ってきた大腸を、縦方向に切り開いて展開し(トイレットペーパーの芯にはさみを入れて展開するようなイメージだ)、粘膜に顔を出した癌を肉眼で観察して、どこをどのようにプレパラートにしたら一番情報が得られるかというのを考える。

目で見て考えたら、癌の一部を切り出して、プレパラートにする。

その後、顕微鏡でプレパラートを見て、癌がどれくらい広がっているか、どのような種類の癌なのか、転移や再発のリスクとなるような所見はないかを逐一チェックする。

最後に病理診断報告書に、これまで見てきた内容を箇条書き+説明書きにする。

以上が病理診断のおよその流れだ。このプロセスを研修医にも一通りやってもらう。


病理診断科で研修する人びとは、必ずしも将来病理医になりたい人ばかりではない。皮膚科医になりたいから皮膚科に必要な病理だけ教えて欲しい、とか、消化器内科医になりたいので胃と腸の病理を知りたい、という人には、それぞれの専門臓器の「勉強になるプレパラート・教科書」を見てもらっているうちに短い研修は終わる。なんだ、病理なんてつまんねーな、と思われる場合もあるし、短期間だが病理でしっかりと顕微鏡の学問(組織学)をやれてよかったと数年後に感謝されることもある。


しかし、「将来病理医になりたいと思っている人」の場合は、単なる見学ではなく実際に診断のプロセスにかかわってもらったほうがいい。責任感が加わると仕事の圧は段違いだ。ただ見て勉強するのとは違う、「自分の判断が間違っていたおかげで診療が乱れてしまう怖さ」を感じながら現場にコミットしてもらう。それが学習効率を高める。

もちろん、研修医の診断はすべて上級医がチェックするので、研修医の判断がそのまま患者を左右することにはならないが……よくできた診断書であれば、細部こそ整えたりはするけれど、本幹の部分は残す。研修医の言い回しがそのまま報告書に残っていることが大事だ。指導医の中には、一から十まで自分の口調に書き換えてしまい、原型が残らないほどにチェックするタイプもいるけれど、ぼくはああいうのはあまり好きではない。


というわけで研修医にはきっちりと手術検体の診断をしてもらう。

その一方で、われわれ病理医がやるべきことは、手術検体の診断だけではない。

たとえば胃カメラや大腸カメラをやったときに、目の前に見つかった病気から、主治医が小指の爪より小さなサイズの細胞塊をこそげ取ってくることがある。プチっと摘まんでとってくるのだ。これを「生検」と呼ぶ。この生検検体を見るのも病理医の仕事だ。

ただし、この「生検」のほうが、初心者には診断がむずかしい。しばらくの間は、研修医には手術検体ばかりを見てもらって、生検は後回しにする。

なぜ「生検」は難しいのか?

いろいろな理由が考えられるが、要は、生検の標本は小さすぎるのだ。手術検体ではある病気の全貌が見えるが(手術で採ってくるときには、病気をすべて採りきることが重要だから当たり前である)、生検というのはあくまで表面をプチっと摘まむだけなので、得られる情報も少ない。逆に言えば、その少ない検体から、大きな病気を今後どうするかの方針を決定するための情報を引き出さなければいけないということである。


ここで必要となるのは、おそらく、「一部から全部を予想する技術」なのだが、さすがのベテラン病理医も、わずかな部分から全体を正しく推測することは難しい。なので、より正確にいうと、「一部から、そこにつながるより大きな一部を推測する技術」を用いることになる。


実際の標本をお見せするつもりはあまりないので、今日はたとえ話をしよう。



一行目に、「a d u」という文字を用意した。その下にならぶ3つは、それぞれ、「a d u」を一部隠したものである。

2行目、隠された部分が多すぎるとa, d, uの区別はぜんぜん付かないだろう。

しかし、3行目になるとだいぶわかる。わかるが、1行目と2行目がないと、やっていることの意図がわからなくて、なんと答えたらよいのかわからないかもしれない。

4行目だと「a」はわかるのではないか。dとuも区別は付きそうだ、ただし、これをいきなり問題で出されたときには、一瞬「フォントの違うaかな?」と迷うかもしれない。


生検診断は、個人的なニュアンスの話でいうと、だいたい3行目をコンスタントに診断していく作業になる。

 ・全貌なんてまるで見えない

 ・それまでの流れが重要である

 ・そういう見方をするのだとわかっていないと設問が理解できない

 ・何度かやっているうちに、「この出題者はこういう問題を出すよな」とわかる≒「この検査だとここを見分けるべきなんだよな」という感触がわかる

 ・けどじつはいろいろな不確定要素を含んでいる

なんか大変そうだろう?



手術検体の診断は、言ってみれば、「a d u」を正しく診断するようなものだ。すべては見えている。ただし、a, d, uの違いをちゃんと説明できる必要がある。ついでにフォントの種類とかサイズ、文字の太さなどもきちんと調べ上げないといけない。


一方の生検診断は、限られた情報からいかに「それより多くの情報を読みとるか」を、誰もが納得するような言葉とともに合理的に語る世界だ。手術と生検、「同じモノを見ている」のは間違いない。しかし、なんというか、技術はちょっと違うよなあと感じる。このことが身にしみてわかるのはたぶん、病理医を目指してから3年ちょっと経過してからのことだ。具体的には「病理専門医」という資格を手に入れたころから、生検の難しさ、手術検体の奥深さなどにだんだん気づいていくようになる。

2022年2月21日月曜日

オルグの割合を下げる

「閾値」という言葉を見ると加藤茶が出てきてくしゃみをする。イーッキチ、である。


加藤茶のくしゃみのような「キラーギャグ」は、使い所が肝心だろうな、ということを今さらながらに思った。使いすぎれば飽きられるし、出し惜しみすると忘れられる。「8時だョ!全員集合」の番組内で、場が温まって、ここぞ! というタイミングで出すから国民に知られるギャグになったし、あらゆる場面でひっきりなしにイッキチイッキチやってたら寒かろう。イッキチの頻度を調整するのが巧かったからこそ、加藤茶はお茶の間の人気者になった。イッキチを出すか出さないかの判断がうまかった。つまりは「イッキチの発動閾値の設定が正しかった」ということ。イッキチ閾値である。



ダジャレだけで何行書けるかと思ったけれどちょっとしか書けなかった。ふくらまなかった。そういうものである。



ダジャレで思い出したのだが先日ちょっと印象的なTwitter Spaces(ラジオ的なやつ)を聴いた。相互フォローのニンパイさんという人がいて、ニンパイさんというのはたしかニンニンパイセンの略なのだがまあそれはいい。おしゃれな人だ。いいことを言う。あとずっと言葉遊びをしている。そのニンパイさんが、作業をしながらぶつぶつ独り言を言うだけのスペースで、このようなことをおっしゃっていた。


――ツイートを「ライフログ」として使っている人と、「オルグ」として使っている人と、「エスプリ」の発露の場として使っている人がいる――


これには唸った。以降、ずっとこのことを考えている。

たしかにそうだ。

TwitterというSNSはいまや、ライフログ or オルグ or エスプリのどれかに収斂しているように思う。


ライフログというのはそのまま「ツイ主が今なにをやっているか」であり、Twitter本社が掲げる「今なにしてる?」を真っ正直にやること。


オルグというのはなにやらキナ臭い言葉で、いろいろと含意もあるがここでは単に「自分の活動に入ってこいよと勧誘する」くらいの、本来の意味を指すと考えればいいだろう。


エスプリというのはなんだろうな、これが一番むずかしいと思うのだが、気の利いたことを言うというか、あそびの部分というか、ダジャレも入ってくるが、ダジャレの中にもエスプリとそうでないものとがある気はするけれど、そういうのをぜんぶひっくるめてのエスプリなのだろう。


この分類はじつにうまくできていて、たとえばぼくは、ある人のツイートがオルグばかりだとうんざりしてリストから外してしまうし、エスプリばかりでもうーん、となってしまう。三者のバランスが大事な気がする。「ツイパラメータ」としてはこの3つがあればだいたい事足りる。

ツイッターアカウントを見るとき、そこにどれくらいライフログが含まれていて、どれくらいエスプリがあるか、その上で何にオルグしようとしているのか、みたいなことを、これまでのぼくも(そういう単語では考えていなかったが)ずっと気にはしていた。

たとえば、ひたすら自分の所属するチーム・団体・あるいは信じる念(信念)の話ばかりをツイートする人は「オルグ型」であると言える。オルグ型のツイッタラーからライフログ感が一切感じられないとき、ぼくはある種のうさんくささを感じ取る。なんというか、人らしさがわからなくなるというか、こいつとにかく自分ちに引き入れようということしか考えてねえんだな、みたいな、もしくは、ツイッターを商売でやってるなあ……という意図が透けて見えてしまう感覚。

一方で、えんえんと「ライフログ型」の使い方をしている人だと、それはもはや公開日記と何も変わらないわけで、芸能人やプロスポーツ選手だとライフログだけでも多くの人が見たいと思うものであるが、ぼくらはたぶん他人のライフログを無限に集めて喜ぶようにはできていない。害はないが逐一チェックをしようとも思わない。仲良く別個にやっていこうぜ、くらいの気分になる。

そして、「エスプリ型」だけだとこれまたうっとうしいアカウントになる。名言しか言ってないアカウントはしばしばバズり倒してフォロワーを集めているけれど、どうにも好きになれない。

ライフログ・オルグ・エスプリのバランスはアカウントごとに異なるが、おそらくはその人自身が考える「社会と自分との繋ぎ方のバランス」に落ち着いていくものであろう。ライフログとエスプリとが8:1.5くらいのバランスに落ち着いて、あまった0.5のところに自分の所属している何かを紹介するオルグが紛れ込むような人のツイッターアカウントと、ライフログが2,エスプリが2,オルグが6くらいのアカウント、これらはもう、どちらかになろうと思ってなれるものではなくて、「そういう人」「そういうアカウント」だとしか言いようのない個性である。

芸能人はライフログ9、エスプリ0.5、オルグ0.5くらいで、ごくたまーに自分の出ている番組や関連グッズなどをオルグ的にツイートするが大半はライフログだ。そういうのがたぶんフォロワーに刺さる。

一方で、企業公式アカウントだとこのバランスではだめで、オルグ9、エスプリ0.5、ライフログ0.5くらいのほうがかえって誠実に感じられたりもする。

では芸能人でも企業公式でもない単なる一個人だとどうすべきか、というと、「こうすべき」はなくて、その人らしさがこれらの割合に出てくるだけなのだろうな……ということを思う。ぼくは最近、意図してライフログを増やしてオルグを減らしていた。ぼくの場合のオルグとは「いい医療情報を出す医療者をRTすること」だったりするのだけれど、ああ、これって一種のオルグなんだな、と気づいてから、うーん、ま、ほどほどにしよっかな、みたいな気持ちになっているのである。伝わるかなこの話。まあいいか。イッキチ。

2022年2月18日金曜日

病理の話(628) 病理診断報告書をどのように読んでもらうか

初期研修医が当科に研修に来ているので、病理診断のあれこれをかなり基礎から教えている。

すっかり中年のぼくが、ほとんど脊髄反射で処理しているような仕事も、習い始めにはひとつひとつ、「なぜこのように書かなければいけないのか」「なぜこのような処理をしなければいけないのか」と、確認して覚えてもらう必要がある。


大原則として、病理検査室の中では「道理が通っていないこと」をしてはいけない。さらに強く言うならば、「なぜそうするのかが説明できないこと」をしてはだめである。「理屈抜きで、体で覚えればいい」という修練は、病理診断の世界には基本的に存在しない。例外は解剖と切り出しの技術だが、これらも手で覚えること以上に、知識がしっかり付いていることが大前提である。


……もっとも、これは病理診断に特有のことかもしれない。医療技術の中には、小難しい理屈を差し置いて、「まずは体に覚え込ませる」ほうがいいものもあるからだ。たとえばキズを縫うときの糸結びは、理屈よりも指のこなれが重要だし、血液ガス採取のための動脈穿刺も、気管挿管も、ドレーン抜去も、YouTubeばかり見ていたところでうまくはならない。頭でっかちでは無理だ。筋肉が連合して一気に動いてくれるまで体に覚え込ませてはじめて「使い物になる」。


しかし、病理診断はそうではない。

手癖で診断することはできないし、やってはいけない。あらゆる行動に筋道が必要だ。「なんとなく前任者がこうやっていたので真似をしています」で診断できるほど甘くはない。もし、病理医を目指すあなたが教わるボスが理屈なしに診断を「こなしている」ように見えたら、そこは反面教師にしなければならないし、ほんとうはボスも「かつてきちんと筋道を追っていて、今ではそれがあまりに早すぎて脊髄反射みたいになってしまっている」だけのことなのである。


病理診断報告書(レポート)の書き方ひとつとってもそうだ。先ほど、ぼくが研修医に伝えたことは、「漢字の量が多い」であった。例をあげて説明する。実際の症例とは異なる。


研修医は、「免疫染色」という検査の結果を、以下のように記述していた(架空のものです、今てきとうに作ります)。


「TTF-1陽性、Napsin A陽性、p40陰性、CK5/6陰性、Ki-67陽性。したがって肺腺癌と判定します。」


ここにぼくは理屈で手を加え、さらに細かく説明をする。


「標本の見方はOKですね、結果もおおむねあっています。ただし、この報告書を読む人からすると、先生の書き方は漢字が多すぎますね。陽性と陰性は、モニタを薄目で見たときに、真っ黒さ加減がだいたいいっしょですよね。これだと、ぱっとこの行を目にした瞬間に、あっメンドクセ、いいよこういう陽性とか陰性とかいう評価は病理医のほうで勝手にやってくれれば……と、あきらめられてしまうのです。


だから私ならこのように書きます。


「TTF-1陽性(+), Napsin A陽性(+), p40陰性(-), CK5/6陰性(-)」


漢字だけでなく、カッコでプラスマイナスを付ける。あるいはもっと略式に、漢字の部分を完全に省略してもいいでしょう。さらに、もっと親切にするならば、


  陽性: TTF-1, Napsin A

  陰性: p40, CK5/6


とするべきです。改行も入れて、二文字ほど下げる。そのほうがぐっと見やすくなるでしょう。毎回この書式で書いておけば、レポートをクリックした人がぱっと画面を見るだけで、あっここは免疫染色の結果だな、とわかってくれる。こういう書き方を工夫しない病理診断報告書を書くのはおすすめしません。書いても悪くはないのかもしれないけれど、読んでもらえなくなる。


なお、Ki-67陽性、と書いてくれましたが、Ki-67は陽性細胞数の比率を書くべきなので、このように書きましょう。


  陽性: TTF-1, Napsin A

  陰性: p40, CK5/6

  Ki-67 labeling index: 30%


どうですか? だいぶ見やすくなりますよね。」



今日の記事の前半で、「理屈がないことをしてはだめ」、「なぜそうするのかが説明できないことをしてはだめ」と書いて、その続きが「文章をどうひらいていくか」だったので、ずっこけた人もいるかもしれない。しかし、病理医の仕事の中で「文章を書いて人に読んでもらう」という部分をおろそかにしてはいけない。なぜなら、病理医の仕事とは、


  病理医にしかわからない細胞のアレコレを、臨床医がわかるように翻訳して書き記す


ことだからだ。やっていることの半分くらいがそもそも言語的なのである。したがって、どういう言葉を使うかにも逐一理論がくっついていることが望ましい。


「なぜこの診断文には、二回も『~~だが』が用いられているのか? 短い診断文の中で二度も話の流れが逆転すると、読んでいるほうは振り回されたような気分になる。それでもあえて、この診断者が『~~だが』を多用した理由はなにか? 診断に自信がなく、いろいろと言い訳をしたかったからなのか? それとも、どこかを強調したかったのか?」


「こちらの診断文では、上のほうにまず主診断が書いてあって、その理由を後述させているのに、あちらの診断文では、上から順に診断の理由が述べてあって、最後に主診断を記載している。まるで裁判官が判決を読むタイミングが裁判によって異なるかのようだが、そうやって主文ならぬ主診断を先にしたり後に回したりする理由はなにか?」


「いつもならすんなりと診断が書かれている病変で、今回ばかりは病理医が参考文献をわざわざ記載しているのはなぜか? その文献がないと誰がどう困るのか?」



こう言ったことをとことん言語化してなんぼだ。それをやるための仕事。そこに手間をかけるための職種。病院の中で、とにかくあらゆることを言語化して理屈を追いかけていく職業だからこそ、当直が免除され、手技も免除され、ふつうの医者らしいことを何もしなくても、医者を名乗ることが許されているのである。

2022年2月17日木曜日

スカイツリーのおみやげを買ってない

アクセサリーが要らなくなってきた。


この記事で言うアクセサリーというのは、別にネックレス・指輪のたぐいでもなければ、カー用品でもない。「根付」や「キーホルダー」、「ミニフィギュア」、「ステッカー」、すなわち旅行のおみやげのことである。

かつてのぼくは出張をするたびに、取るに足らない観光みやげを1,2個買ってきて、デスクの一角にぶらさげておいた。しかしこれらがなんかもう、わりとマジで要らねぇなーと感じる。


多すぎてどれがどこのものかわからない。なんとなく断捨離精神みたいなものに自分がむしばまれており、この一角ぜんぶ捨ててきれいにしてぇなーという感情がある。


でも捨てない。あと20年粘って、退職間際にもういちど眺めてそのときに考える。「子どものころのぼくは妙なもの集めてたな」みたいな気持ちで、自分の20代や30代を振り返るのもオツであろう。捨てずにとっておくけれど、しかしまあ、今すでに、要らねぇナーと本気で思っている。


「要らない」=「捨てる」ではない。


今のぼくが旅行にでかけてもまた買うだろう。「要らないものは買わない」は単純すぎる。人間の脳の進化にてらしあわせて、失礼だ。「要らないけれど買う」くらいのアンビバレントな刺激を脳に与え続けていないと錆び付いてポンコツになる。「おいしくないけれど食べる」は体に悪いが、「要らないけれど買う」くらいなら財布に悪い程度で済む。さほど高額な無駄遣いをしているわけでもないし。



「無駄を楽しむ」とまとめすぎるのも雑に感じる。そのとき喜んだ自分の気持ちが残滓になったところで、新陳代謝によって体の細胞のほとんどが昔とは入れ替わってしまった自分の中に、「まだ残っていたのか/もう残っていないんだな」という部分を探すことを、単に「無駄なものを楽しめる俺カッケー」にまとめてしまうのもどうかと思う。



「要らねぇナー」の自分を眺めて、数個の単語に落とし込まずに、うん、今のぼくはなるほど、要らねぇナーという、ナーというニュアンスのことにたどり着きがちなんだな、みたいなことを、時間をかけて何度も何度も撫でている。そういうことを、出勤・退勤の車の中や、どうしてもキータッチができない食事中、あるいは眠りに落ちる直前などに、コシコシとこすり続けている。



にしてもアクセサリーってほんとに要らねぇな。けっこういい値段するし。ここにぶら下がっているアクセサリーを一切買わなかったら、帝国ホテルのディナーでも余裕で食えただろう。……帝国ホテルのディナー! 帝国ホテルって実在するの? あ、するんだ(ググった)。東京にはろくなおみやげがないから、帝国ホテルで飯を食うことで思い出のかけらを残そうとするのかもしれない。