2017年5月2日火曜日

病理の話(75)

生命は、周りの環境(非生物)と比べると、そこだけ持っているエネルギーが高い。

「持っているエネルギー」なんて言うとなんかスピリチュアルなイメージが湧いてしまうが、そういう意味ではなくて、単純に、物理的・化学的なエネルギーを抱え込まないと、生命としての活動はできない。



ごましお。

ごましおをイメージする。

「世界」はごましおだ。ゴマと、塩が、複雑に入り交じっている。一度混じってしまうと、もう両者を完全に仕分けることはできない(膨大な時間と手間がかかる)。

一方、世界に対しての「生命」というのは、ゴマや塩のどちらか一方、あるいは砂糖とか小麦粉みたいな何かが、「周りに比べて濃度が高い」状態でいる。

「世界」には、米粒もコーヒーの豆もハナクソも混じっているのだが、「生命」の部分にはそういうものがほとんど含まれていなかったりして、「周りに比べてなにかの濃度が低い」状態でもある。

「世界」のほうが雑多に混じっていて、「生命」は物品の濃度にかたよりがあるということだ。


物品の濃度を偏らせるには、エネルギーがいる。

何かを取り入れ続け、何かを排除し続けないと、濃度の偏りは維持できない。



砂漠にごま塩をばらまく。最初は、「あっ、ここにごま塩をこぼしたぞ」とわかるが、ものの数日、あるいは数時間で、ごま塩はほかの砂とまじって、もはやごま塩なのかどうかわからなくなってしまう。

ごま塩がごま塩のまま存在するには、そこに「なんらかのエネルギーを使い続ける」ことが必要なのだ。拾って集めて、砂を捨てる。



「なんらかのエネルギーを使い続けることによって、特定のものだけを集めて、いらないものは排除するというシステム」

これは、生命の定義の一つであると言える。



エントロピーとかそういう話は有名なので、何をいまさら、と思われるかもしれないのだが、この話は「細胞膜」とか「核膜」などを理解する上でも役に立つ。

膜、すなわち境界面が存在しないと、生命としての「濃度の偏り」を維持し続けることは困難となる。



濃度の偏りを維持するのは、バイトのA君の勤勉さとか、事務のBさんの時間外労働などではなく、膜に存在するなんらかのタンパクであるとか、膜自体のもつ力(浸透圧とか浸透膜という言葉を勉強するのはこれを理解するためでもある)である。



そんなこんなで、ぼくらが細胞を観察するときには、しばしば、細胞膜や核膜のような「膜」にとても注意を払うことになる。「膜」を「腹」と書き間違うのは医学部3年生くらいまでの「あるある」なのだが、さすがに今は書き間違えることは減った。

だってパソコンで打っちゃうからね……。