2017年5月22日月曜日

さあて先週のサザエさんは

モンゴルに行く前に、モンゴルから帰ってきた翌日のブログを書いている。もともと1週間分の記事ストックをしているので平常運転である。

「何を見て何を感じて帰ってきているのか、この頃のぼくは」と書いておけば、自分なりの感慨にひたることができるだろうな。



それはそれとして自分の記憶の使えなさには辟易する。かつて、美しい風景だとか、おいしい食事だとか、いろいろ見てきたこともあったはずなのに、歴代のすばらしい記憶とやらを思い出そうとしても、脳内の風景にいまいちピントが合わない。

あそこに行ったときのあの風景はどうだったろうかと写真を引っ張りだそうにも、スマホの遙か昔のバックアップデータを探り当てるのがまず一苦労だ。みつけた風景写真には、人が写っていないせいか、どうも感情移入できない。自分が映り込んでいない風景写真というのは、時間をおいて見てみると、単に構図がちょっとへたくそな素人の写真でしかなく、そこにあったはずの色素、臭い、音といったメタデータがすべて消えてしまっている。

まいったな。

自撮りしとけばよかったのか。



自撮りした写真というのは多くないが、学会などでえらい先生方と一緒に撮っていただいた写真というのがあるはずだ、と思って、学会写真フォルダを開いてみた。

えらい先生方の名前をもはや覚えていない。ぼくはいつも似たスーツ、似たネクタイでそこに写っている。似たポーズでこっちを見て、似た笑顔である。

まいったな。

自撮りであってもだめか。




香川のうどんを食いまくって楽しかった日の記憶、思い出すのは「あれから何度も、香川のうどんはおいしいよと人に言って回ったなあ」という記憶ばかりだ。後日談で当日の思い出が塗り替えられてしまっている。




エントロピー(乱雑さ、片付かなさ)の局所的減少こそが生命の本質であるはずなのに。

ぼくの記憶はふつうに時間通りのエントロピー上昇を来してしまっているのだった。




先日、実家にて昔の写真をみた。ぼくによく似た父親と、ぼく、そして弟が写った写真を見つけた。この写真の記憶自体がない。はじめて見る写真のようだ。

そこに写った小学生時代のぼくは、父親と同じポーズで、両方のポケットに手を入れて、こちらを見て笑っていた。

今とは少し違う笑顔をしていた。

おそらくは、写真を撮った母親を見て、笑顔になったのだろうと、わかる写真だった。




ぼくは今、写真に写り込んでも写り込まなくても、笑顔を向ける相手が自分なのだな、だから毎回、似たような顔しかできないで、特別な記憶として残すこともできないでいる。

さてモンゴルではどのような笑顔を撮ったのか、明後日のぼくは。

それを見返して、何か違うものを見ることができたのか、来週のぼくは。