2017年5月29日月曜日

病理の話(83)

生検(せいけん)という検査手法は、そこに何が起こっているのかを知るためにとても便利使いされている。

一番有名なのは、「そこにがんがあるか、ないか」を調べる目的での生検だ。ただ、必ずしも対象ががんとは限らない。

たとえば皮膚炎とか、胃炎などの、「炎症」と呼ばれる病気を調べるときにも、生検が用いられることは多い。

レゴブロックについてくる人形の「手」の部分みたいな、マジックハンドの先っぽをすごく小さくしたやつで、粘膜をプチっとつまんでとってくる。

あるいは、ごく小さな、中空の針を刺して、組織をちょっとだけとってくる。

「ちょっとだけ」というのがポイントだ。



ときおり、学生講義などで、このような話をする。

「仮に、まったく患者のことを考えないでよいと言われたら、一番確実な検査とは、患者の全身を切り刻んですべて調べることです」

……死んじゃうよね。だめだね。そんなことをしたらだめ。だから、こう続ける。

「でも、そういうわけには行きませんね。理想の検査とはすべてを見ることですが、次善の理想というのがあります。それは、一部分を見ることで、全体が予測できるような検査です」

生検はちょっとしかつままない。この「ちょっと」というのがとても大切なのだ。小さければ小さいほど、採取したときの痛みも少ないし、血もあまり出ないし、患者の精神的負担も少ない。


たとえば、肝生検という検査法がある。肝臓に針を刺して、肝炎や肝硬変といった病気がどれくらい進んでいるのかを調べたり、肝臓の中にあるできものの性質を調べたりする。

この肝生検で採られてくる検体の量というのは、実に、肝臓全体の「60000分の1」にすぎない。

たった60000分の1を見るだけで、肝臓の何がわかるというのか?



有名なツイートに、

「選挙の時の出口調査は、お味噌汁の味見をするのといっしょ。味見をするのにお味噌汁を全部飲んだら意味無い。一部飲むだけで味はだいたいわかるよね」

というのがある。ぼくは、検査というのも、これと似たところがあるなあと、いつも考えている。

ただ、ここで大事なのは……。



お味噌汁はきちんとかき混ぜれば、だいたいどこを味見しても同じ成分が含まれている。

しかし、人体とか組織というものは、こちらが勝手に「かき混ぜる」わけにはいかない、ということ。

つまり、「採る場所もきちんと吟味しなければいけない」のだ。これが生検の難しさである。



「がんがありますか?」と書かれた病理の依頼書を見て、プレパラートを見て、がんが含まれていなかったとする。そのとき、病理医であるぼくが、報告書に書くべき内容は……。

1.がんはありません

2.代わりに、○○が採られています

3.この○○が、がんのように見えたのかも知れません

あるいは、

1.がんはありません

2.代わりに採られているのは□□です

3.この□□が、がんのように見えるとは思えませんが、病変の場所がうまく採れていないかも知れませんよ

このように書く。



所詮は一部分しか検討できない生検。しかし、それでも、患者の一部をむしってきたことに変わりはない。がんを狙って採取した標本にがんが無かったとしたら、「がんはないです。おしまい」で終わるのではなく、「なぜそこにがんが採られていないのか」までを解説したいなあと思う。

「全体のごく一部しか見ていないからです」

「採取部位がわずかにずれているのではないでしょうか」

「がんに見間違える可能性がある、別の病気が採られていますよ」



ここまで診断してなんぼだろう、と思うのだ。